95)駒は五角形でなければならない(補足)

前稿94)のコメントへの返信を書いていましたら、長くなりましたので、ここに補足として投稿いたします。

 

まず、11世紀の状況ですが、駒の五角形はルールの一部のようになっていて、もはや呪術の枠をはみ出ていたものと思われます。駒は五角形、それが常識として定着していたと考えたいところです。

 

陰陽道の5が、どれほどのものか、今の私にはまだ判断できず何とも言えないのですが、駒の形に5が反映されているという点、もし非常に重大だとすれば、伝来を解明する際の大きなヒントになるだろうと思います。これまで、駒の形については、敵味方の区別といった機能面の方にとらわれすぎていたかも知れません。将棋は早くに伝来していたが、すぐには広まらなかった、この理由づけを、駒の形と陰陽道との関連で考えてみたというわけです。

 

なぜ5角形かという問いよりも、長方形や台形の駒が全然見つからないのはなぜか、という問いの方が考えやすいでしょうか。最終的には、この両方の問いに答えることができないといけません。現に、チェスの駒のデザインは、地域により時代により、いろいろと多種類あるからです。チェスと同じような状況で広まっていったのだとすれば(つまり、人々の交流により広まっていった)、将棋の駒の形もいろいろとあったでしょう。この点を考えれば、駒の形は、単に形だけの問題でなく、誰が作ったかとか、伝来の様相とかと密接に関わっていそうです。

 

原初の将棋を作った人物(ルールは、すでにあったものを使ったと思います)、それと、駒の形を決めた人物はたぶん同じだったように想像します。それは、吉備真備その人だったかも知れませんし、吉備真備と親しくしていた人だったかも知れません(たとえば、阿倍仲麻呂)。ですが、伝来に関わったのは、吉備真備ということなのでしょう(阿倍仲麻呂は帰って来れませんでしたから)。

 

前稿94)のコメントにてご指摘ありました大江匡房の件ですが、投稿92)以降は、本朝俗諺志にある関連記述のところをほぼすべて是としてストーリを作っています(是々非々ではなくて)。全部をまだ書いていませんので、前後してしまいますが、象棋百番奇巧図式の序にあるとおり、大江匡房が酔象と猛豹を取り除いたということでストーリーを考えています。

 

この場合、717年に出会ったマックルックとは、形も駒の種類も動きも多少異なる将棋になるわけですが、これを、はじめに将棋として作った人物が全部したのか、時代とともにできあがったのか、その判断は現状ではつきません。ただ、10世紀後半の将棋に酔象と猛豹があったということを、まず信じてみたいと思います。象と豹、神仙思想、陰陽道そのものではないですか。

 

後日の投稿で書きますが、当初は、玉将の上に酔象という配置ではなく、相手の玉将の代わりに酔象という配置を想定しています。この件、投稿70)でよく似たことを書いています。今回の場合、

 

敵 陣は、香桂銀豹酔銀桂香

こちらは、香桂銀玉金銀桂香

 

という想定ですが、まあこのあたりにきますと、空想になりますが。出土駒を待つのみです。

 

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コメント: 9
  • #1

    長さん (金曜日, 06 6月 2014 08:58)

    大江匡房(西暦1041年-1111年)が、猛豹および酔象を取り除いた西暦1111年よりは前の将棋の方が、二中歴(西暦1210年~1221年頃の成立)よりも、マークルック系、原始平安小将棋からより遠い(一旦進化して、又前に戻ったように見える)との象棋百番奇巧図式の序の記載の御紹介については、当時の名人にはたいへん失礼ですが、「なんか奇妙な話があるもんだなあ。」と、正直に所、私には感じられました。

  • #2

    長さん (金曜日, 06 6月 2014 09:49)

    つまり「大江匡房の日本の将棋作り」というのが本当に有ったというのなら、何故彼が、これほどまでに「マークルック系将棋への復古」という事にこだわったのか、この点が変なのだと私は思います。なお平安小将棋が二中歴時代の、短い期間に指されたものではなく、ある程度、指された時代が継続している証拠としては、鎌倉時代後期(西暦1323年頃)の東福寺難破船出土駒(新安沖駒)を一例としてあげる事ができると私は認識します。

  • #3

    T_T (金曜日, 06 6月 2014 21:56)

    コメントありがとうございます。
    それと、情報ありがとうございます!
    新安沖の沈没船のことは知ってましたが、この船が東福寺からの発注品満載の船だったとは知りませんでした。中国船に、なぜ将棋の駒だったのでしょうか。東福寺の僧侶も乗っていたということですよね。それと、14世紀に小将棋を持っていったという点、不思議です。何か不明なままの点、まだありそうな気配です。

    さて、マックルック系将棋への復古、と書かれている件ですが、必ずしもそうとは限らないと考えています。次のように考えています。

    まず、酔象や猛豹の駒のことですが、大将棋系が出る以前にすでにあったと考えても、それほど奇妙ではありません。単に駒の名称だけの問題です。金将が猛豹よりも早い時期にあったのかどうか、自明なことでもなさそうです。

    マックルックの2列配置が、いつ3列配置に進化したかの問題が、現状、文献がなく不明なわけですが、ともあれ、チェスと違って、将棋は2つの系列(小将棋と大将棋系)での並列進化です。原初将棋が秘術として熟成されていたのなら、広まる前の秘術の段階で、小将棋(2列配置)と大将棋(3列配置)ができていたという考えも成立します。まず小将棋があり、進化して大将棋ができたのだと考える必然性はありません。

    中世の終わりごろまでは、小将棋は止まったままですから、進化してまたあと戻りという考え方でなくてもいいと思うのですが。

  • #4

    長さん (月曜日, 09 6月 2014 08:09)

    コメントどうもありがとうございます。少なくとも猛豹・酔象が一段目に来る御紹介の想定される将棋については、チャトランガ、原始平安8×8将棋、その将棋と比べると、その将棋は、少なくとも原始的な2人制チャトランガからは、最も離れていると思います。何せ、猛豹は横に行けないわけで、斜め後ろの動きを欠いた金将よりも、副官(動きは王と同じのイメージが強い)の動きには、より似ていないように思えるからです。なお原始マークルック地方残留種の「メット」の動きは、現在のマークルックよりもチャトランガに近い、「クン」に近い動きの駒かと仮定して、上記書いてます。

  • #5

    mizo (月曜日, 09 6月 2014 22:51)

    新安沖の沈没船について
    将棋の駒で有名ですが、実は、大将棋の盤らしきものが出土しています。縦横15マスです。ソウルの博物館にあるのですが、私のような素人は相手にされませんでした。高見先生のような大学教授の肩書があり、将棋類についての論文も書かれている方ですと、相手の態度も違うのでしょうが…。
    韓国の人にとっては、自国の文化でもないので極めて冷淡です。
    増川先生は「碁」のなかで紹介されています。大将棋の盤の出土は日本ではないはずですので、極めて貴重だと思うのですが…。

    また、「大江匡房が酔象と猛豹を取り除いた」という伝説は、後奈良帝が「酔像」を取り除かせたとか、「猛豹」がある小将棋もあったという伝説との親和感を感じます。伝説だからと軽視はできないかもしれませんが。

  • #6

    T_T (火曜日, 10 6月 2014 02:21)

    コメントありがとうございます!

    長さんへ(#4)
    実は、酔象、猛豹とも、後世の文献の動きとは考えていません。この件、出土駒や文献がありませんので、何を言っても空想となりますが、続けますと、本稿の場合、

    酔象=玉将の動き
    猛豹=金将の動き
    を想定しています。駒をどう命名したかを問題にしました。
    この件もまた後日になりますが、酔象、猛豹が2段目にあがったときに、動きが変わったのだろうと考えています。平安大将棋の駒のいくつかも、その後、動きが変わっていますので、動きについてはそれほど固定化する必要もないのではと思います。

    mizoさんへ(#5)
    盤の件、囲碁の本にありますので、囲碁の盤ということでほぼ確定しているのかと思っていました。15マスというのは、囲碁でいうと、置ける場所が16箇所あるということなのでしょうか?

    15マスだとしますと、大将棋の盤の可能性もあり、面白いわけですが、駒は、たぶん、小将棋の駒しか出ていなくて、そうすると、やはり、囲碁の盤だったかということにもなりそうです。

    手がかりが1点あります。将棋の駒の厚みの勾配です(上と下で厚みが違う)。中世の前半、小将棋の駒は、上と下が同じ厚みに作られていただろうと想像しています。厚みの勾配のある駒は、たぶん、大将棋が出てからではないでしょうか。玉将や金将でも、もし、厚みの勾配があれば、大将棋の可能性が残るのですが、沈没船から出た駒の厚みはどうなっていたでしょうか。公開資料があったのかどうか、まだ探していません。

  • #7

    mizo (火曜日, 10 6月 2014 23:57)

    囲碁の盤でないことは、星が66に打たれていることから明らかと考えています。4か所の星で、盤面がきれいに9等分されています。
    将棋においては、歩兵の列=陣地=成りのラインになるので、盤面9等分の66星が当然です。
    しかし、囲碁では44の星は絶対です。33に飛び込めば生きがあるので隅の星は他にありえません。
    また、16線のため、天元がありません。

  • #8

    T_T (水曜日, 11 6月 2014 02:21)

    mizoさんへ
    貴重な情報ありがとうございます!
    それはもう確かに大将棋の盤ですね。「碁」の本の記述は、この場合、15×15と書くよりは、16×16と書かれるべきだったでしょうか。

    1323年に確実に大将棋が指されていた、この事実は非常に大きいものです。1300年付近に成立した普通唱導集の記述が、大将棋を表わしている可能性が高いとしても、これだけでは不足を感じていましたので。ただ、大将棋の駒が船からはひとつも出ていない点、依然問題ではありますが。

    その後のいくつかの発展と合わせますと、投稿79「大将棋の成立時期に関する考察」はどうも確かなようです。この件、早々に投稿したく思います。

  • #9

    mizo (木曜日, 12 6月 2014 07:42)

    すみません。誤解を招く書き方でした。
    >「碁」の本の記述は、この場合、15×15と書くよりは、16×16と書かれるべきだったでしょうか。
    ←増川先生は、この遊戯盤は囲碁のものであると考えられ、現行の19×19より少なかったという説の裏付けとされています。17×17盤として紹介されています。ただし、写真を見るかぎりでは、あきらかに16×16です。