103)摩訶大将棋の酔象:王子と太子の違い

摩訶大将棋の酔象は王子になりますが、中将棋と大将棋の酔象は太子になります。この違いが何を意味しているのかという点、大型将棋の歴史にとっては重要なキーとなりそうです。この点、すでに投稿83)に書いたとおりで、時代によって使われていた言葉が違っていたということの反映と考えるのが妥当でしょう。

 

つまり、摩訶大将棋が成立した頃には、王子という言葉がよく使われており、大将棋や中将棋が成立したときには、太子という言葉がふつうに使われていたということです。議論に入る前に、投稿83)のデータ(軍記物語に使われている王子と太子の出現数)を、以下に示します。左端の数字は、王子の出現数÷太子の出現数(太子に対する王子の比率)です。

 

1.8 平家物語(成立時期 1240年以前):王子29、太子16

0.95 源平盛衰記(成立時期 1250年頃):王子82、太子86

0.55 太平記 (成立時期 1370年頃) :王子26、太子47

 

今回、別の歴史物語3編についても、大雑把に調べてみました。次のような結果です。

5.9  大鏡(850年~1025年までの史実)  :王子41、太子 7

0.56 吾妻鏡(1180年~1266年までの史実):王子24、太子43

0.0  増鏡(1183年~1333年までの史実) :王子 0、太子21

 

結果は、やはり同じで、時代が下るほど、王子は減り、太子が増えるという傾向です。同じ文献でも、データベースによって結果には多少の差がでるのですが、さほど大きくはありません。これは、ある文献では、王子と書いてあるところが、皇子という言葉で書いてあったりするからです。上記の結果は、国文学研究資料館のサイトの電子資料館のデータベースによります。

 

王子と太子のそれぞれの意味は、次のとおりです。

王子:天皇の子

太子:皇位を継承する王子

平安時代に、太子が少ない理由ですが、これは、皇位の継承が、必ずしも王子に限られていなかったということなのだと思います。摂関政治の時代で、継承者争いが激しかったということなのでしょう。事実、10世紀から13世紀は、直系だけでなく、兄弟、叔父、甥といった傍系での継承がかなり行われていますから、太子という言葉は大きな意味を持たなかったのでしょうか。

 

ともあれ、その時代でよく使われていた言葉が、駒の名前にも反映されている、つまり、摩訶大将棋が大将棋よりも早い時代にできた可能性が高いということでいいように思っています。これは、王子と太子という言葉に限らず、投稿83)にも書きましたが、金翅、香象といった言葉に対しても当てはまっており、このことが、摩訶大将棋と大大将棋の成立順にきちんと反映されています(大大将棋が後で成立)。

 

ところで、投稿101)にてコメントいただいてますように(以下、多少の意訳ですが)、王子と太子という言葉が両方使われている以上、駒に王子が使われていることで、成立時期が早いとはなりません、という意見が出されています。この意見についてですが、結論を100%の正確さで決める場合は、そのとおりだと思います。しかし、今決めようとしているのは、摩訶大将棋と大将棋、どちらが先にできた可能性が高いか、という問題です。駒の名前は、当時の社会で使われていた言葉と連動しているわけですから、物語中の言葉と駒の名前は、同様の出現確率となるでしょう。つまり、酔象の成りを王子として作った将棋の方が古い、という<可能性>、それを指摘できるわけです。

 

酔象の成りを太子にした理由、王子にした理由は、いろいろな推測が、当然できるわけですが、何らかの根拠が伴ったものは、現状、ひとつも出されていません。一方で、文献に基づいた場合では、AかBか、どちらの可能性が高いかという問いに対しては、<現状のこのデータから判断すれば>、Aの可能性が高い、そういう言い方で結論づけることができると思っています。

 

さて、酔象が成って王子ができた場合、王子は玉将相当なので、その王子も取らないといけないというルールですが、実は、このルール、象棊纂圖部類抄のどこにも書いてありません。中将棋の酔象・太子ルールは、対局そのものが伝承されていますから、問題ありませんが、摩訶大将棋にも、同様の酔象・王子ルールがあったのかどうか、この点は不明と言わざるを得ないでしょう。ただ、中央にある5駒としての存在感と特殊性から、王子が玉将相当というのは納得できるルールです。奔王・狛犬・師子・玉将と並ぶ酔象ですので、成りの王子が普通の王子では、バランスが取れません。

 

仮に、摩訶大将棋から、大将棋、中将棋へと大型将棋が展開していったと考えた場合、中将棋の酔象・太子ルールは、摩訶大将棋ルールを引き継いだということで、あまり違和感はないでしょう。一方、酔象・太子ルールが、中将棋ではじめて作られたとした場合、その勝敗を決める過激さ、太子を討たねば終わらないというルールには疑問が残ります。平安時代や鎌倉時代に、このような発想があり得たのでしょうか。いずれにせよ、中将棋の成立は時代がかなり下ってからと考えるのが、いろいろな点からも不自然がありません(この件、後日に投稿します)。以前の投稿で少し書きましたが、師子の居喰いルールは、中将棋での発案であって、摩訶大将棋にはなかっただろういう考えをまだずっと持っています。

 

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コメント: 4
  • #1

    長さん (木曜日, 17 7月 2014 09:41)

    「王子」は、示準化石ではなくて、示相化石(作者そのものか、作者と生活していた人物の性格を示す)だと私は思います。
    中大兄皇子という偉人が飛鳥時代に居ただけでなく、現在でも、西洋の王様の息子を王子と呼ぶように、時代により意味は変わっても、王子の言葉自体が死語になった時代はないと思います。だからこの単語の存在から、時代を特定するのは、基本は相当無理なのでは。
    私は摩訶大将棋で、太子が避けられたのは、ずばり、仏教関係者が、「太子」から悉達多太子(お釈迦様)を連想するからだと思っています。金剛・力士が五戒を破って、相手の金剛・力士が切り合うのは、時代によっては仕方が無かったのかもしれませんが、終盤、悉達多太子が五戒を破って、相手の悉達多太子と切り合うのは、釈迦出家の動機の伝説からみても、太子の文字から、ただちに若き時代の釈迦を連想する方にとっては、さすがにまずかったんじゃないかと思えます。そこでこっそりと、摩訶大将棋、摩訶大大将棋でのみ、太子を王子に変えたんじゃないのかと。つまり、作者の正体がバレる小細工に見えますね。
    こうした例は、他の将棋にも見られ、和将棋で「将」の字が使われないのも、似た例かと思います。「将駒が取られる将棋ゲームを新たに作る事は、将軍家康に、災いが及ぶ事を期待している」とみられると取る、江戸時代草創期の、「方広寺鐘銘事件」と同じ仕置きを作者が恐れて、「歩兵が金鳥に成る」に至るまで、「将」の字の付く駒を、和将棋では作らなかったのではないかと思えます。千利休型の文化人が、和将棋の作者なんでしょうね。
    つまり摩訶大将棋では、仏教駒を複数加えた関係で、宗派・本山の間の争いを連想させるゲームになり、「太子」はもろに釈迦的で、忌駒名になってしまったんじゃないかと言うのが私の考えです。それに対し他の将棋では、酔象は提婆伝説で釈迦と関連するので、成ると(悉達多)太子になるのも良し、との感覚程度だったのかもしれません。
    逆に言うと、少なくとも摩訶大将棋を作成したのは、坊さんか、それに近い位置にいた方で有ることを、強く示唆しているのではと私は思います。
    なお、ネットでは、「王子」は太子の誤記であるとの空気もあるようですね。私はこの、誤記説も否定しませんが。

  • #2

    mizo (木曜日, 17 7月 2014 23:48)

    高見先生の本旨からははずれますが…
    1>
    長さん さま
    「和将棋」の駒の名称について、将軍家に対する遠慮説、初めて伺いました。お城将棋もあり、幕府では問題にしないだろうと思っていました。昔からのものについては大目に見るが、新しく創作する場合は不敬とする考えも成り立つと思うようになりました。ありがとうございます。

  • #3

    T_T (土曜日, 26 7月 2014 01:18)

    長さんへ(#1)
    コメントありがとうございます!

    私は、やはり、示準化石的だと思っています。化石の場合、示準化石が1個あれば、年代は確定しますが、言葉の場合は、あるのか、ないのかではなく、使用される頻度を検討することになります。「王子」は古い時代ほど多く、「太子」は新しい時代ほど多い、これが示準化石の役割をしていそうです。

    あくまでも可能性の目安です。ですので、「王子」の駒の方が、「太子」の駒よりも、古い可能性が高い、という言い方でよいと考えます。

    たとえば、長さんのコメントの中から、1点、例を引きますと、太子は悉達多を連想させる、という点、これは、実際そうかも知れませんが、そうでないかも知れません。将棋の歴史に関する推論に対しては、たいていの場合、「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」、こういう言い方にならざるを得ないのではと思います。明確な結論はどうしても無理で、となると、重要となるのはその可能性の大きさということになります。

    太子は悉達多を連想させる、この考え方は正しいかも知れません。しかし、その可能性は非常に小さいです。なぜなら、太子は、第1番目に、皇太子を意味し、2番目に聖徳太子を意味することが多いからです。

    もう1点、「王子」は太子の誤記であるという考え方ですが、上記の例と同じく、その可能性は非常に小さいです。こちらの場合、問題なのは、たぶん根拠がないという点です。象棊纂圖部類抄の2箇所に王子と出てきます。書き違えが多い古文書でもありません。

    「太子」という名前の駒が、合戦シミュレーションゲームの中にあったとして、その時代が平安時代後期や鎌倉時代前期だとすると、この点も、私にはなかなか考えづらい点です。「太子」を討てば勝ちなのです。玉将を討つ、というのは、架空の名称なので問題はありませんが、「太子」はどうしても具体的で、そういう遊戯を、天皇のまわりにいる公卿たちが、果たしてするのだろうかという疑問です。

    天皇の権威がまだ強かった頃に、「王子」という一般名称ならまだしも、「太子」というかなり限定的な名称を使う将棋があり得たのかどうか。その時代背景も含めた説明はあるのでしょうか。大将棋はしばらく問わずとして(どの大将棋を指したのかが不明のため)、太子の駒を使う中将棋の記述が、15世紀以降に現れるのは、そのとおり、15世紀以降に中将棋が作られたと見るのも可能、ということまでを匂わせるものでしょう。

  • #4

    mizo (土曜日, 26 7月 2014 22:46)

    関連があるかどうかわかりませんが、「そういう遊戯を、天皇のまわりにいる公卿たちが、果たしてするのだろうか」について
    私は「太子」成りは「中将棋」からだと思いますが、同時に「竜王」「奔王」など王の文字を使う駒が続出します。