109)摩訶大将棋の整然さ:古式の将棋だと思われる理由

摩訶大将棋の中の十二支については、投稿102)と投稿105)にてすでに書いていますが、本稿では、まず、十干についても書いておかねばなりません。陰陽五行説では、木、火、土、金、水の五行のそれぞれに、兄(え)と弟(と)があって十干(木の兄=きのえ=甲、木の弟=きのと=乙、火の兄=ひのえ=丙、・・・・)となるわけですが、摩訶大将棋の駒は十干にも対応しているようです。兄弟(陰陽)のペアを考えると、どの駒かは明解です。

 

羅刹-夜叉、力士-金剛、狛犬-師子、麒麟-鳳凰

 

ちょうど、この8コマは伎楽面との対応を持つ踊り駒です。あと1組は、まだわかりませんが、猛豹-酔象が第1候補でしょうか。ともかくも、十干の存在も確からしく思えます。

 

ところで、摩訶大将棋は、駒の名前、駒の動き、駒の並び、駒の由来を考えたとき、非常に整然としている将棋だと感じませんでしょうか。次のような点です。

 

1)十干と十二支を含んでいるように見える

2)走り駒がひとつの列に揃う

3)踊り駒がひとつの列に揃う(※)

4)隣合う駒の動き、対応する駒の動きが類似する

 

この初期配置の整然さも、私が摩訶大将棋が古式な将棋であると見る理由のひとつです。遊戯ではあるのですが、神様に奉納するという点においては、神事や芸能と何ら変わらない厳粛さは必要とされます。たとえば、象棊纂圖部類抄の立馬略頌、これは、たくさんある駒を並べやすくするための歌との考え方もできますが、そうではないでしょう。これは、摩訶大将棋の対局を奉納するにあたってはじめに歌う歌と思われませんか。立馬略頌は、摩訶大将棋の陰陽道仮説の、証拠物件なのかも知れません。

 

以下、少し空想が入ります。陰陽道としての将棋は天皇とその周辺以外には漏れ出ることはなかったでしょう。朝廷での陰陽道の権威が薄れ、陰陽道が一般個人レベルまで広まったとき、隠されていた将棋は、世に出たと言っていいかも知れません。承久の乱以降でしょうか。あまりにも大型すぎた将棋が、純粋に遊戯として発展していったときに、大将棋、中将棋、小将棋と順に改良を加えられつつ(遊戯としての改良を)、小さくなっていったのだと思います。

 

摩訶大将棋の成立時期については、投稿101)にて書きましたが、本稿にて、再度、「整然さ」という観点から書いておきたいと思います。次の点です。

 

a)大将棋には、十二支の5駒だけ、中将棋には、十二支の1駒だけが含まれる。

b)大将棋、中将棋ともに師子が単独である。

c)大将棋には、走り駒の列に飛龍がいる。

d)中将棋には、走り駒の列に師子がいる。また、別の列にも走り駒(角行)がいる。

 

これらは、整然とした摩訶大将棋を、遊戯という観点から改変したときに生じた乱れではないでしょうか。こうした乱れを、乱れと感じるか感じないかの問題かも知れませんが。ともあれ、摩訶大将棋の飛車、左車、横行、横飛、竪行、・・・の列に、すべての走り駒が揃うわけです。今までは全く意識しなかったのですが、この列のすべての駒が、摩訶大将棋の段階で一気に作られた可能性まで考えていいのかも知れません。

 

ここで、平安大将棋のことも話題にしないといけません。玉将の上にある横行です。仮に飛龍が角行相当だったとしても、飛車も竪行もありません。横行1駒だけの不自然さは、この大将棋が陰陽道から捨てられた将棋のようにも見えます。十干も十二支もありません。そうした駒は門外不出、たまたま漏れ出た駒だけが並べられた、、、これは空想がすぎますでしょうか。

 

摩訶大将棋の駒に天平時代に栄えた伎楽面が含まれることで、このように、摩訶大将棋と平安大将棋を比較検討しても、荒唐無稽ではなくなりました。ただ、摩訶大将棋が、まだ陰陽寮の中にあった頃の話しは、画期的な出土駒でも出ない以上、たぶん結論などあり得ないでしょう。摩訶大将棋が世の中に出始めた頃、つまり、陰陽道が弱まった頃、1250年ぐらいのことだと思いますが、これ以降の摩訶大将棋、遊戯ではあったが受け入れられなかった摩訶大将棋のことを、まず考えていきたいと思っています。

 

(※)驢馬、桂馬も踊り駒と考えています。この件、後日に投稿し、ルールの根拠をきちんと説明いたします。

 

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コメント: 21
  • #1

    長さん (水曜日, 27 8月 2014 09:39)

    「d.中将棋で、獅子は前段に出さざるを得なかった。角行を飛車の手前に置いた。」は私も、初期には苦肉の並べ替えだったが、ゲーム上、その方が少なくとも結果的には、面白くなったと思い、これについては本文に賛成です。
    「c.後期大将棋で、前段に飛龍が出ている。」はゲームを面白くすると言う観点では駄作であり、飛龍を、たとえば走りの左車・右車に置き換えた方が、ゲーム上はより勝ると私見し、これには同意できません。成書にあるように、後期大将棋の平安大将棋との関連性を、示唆しているのではないかと私も思います。たとえば普通唱導集大将棋の類の、後期大将棋の前段の13×13升目の将棋がもともとあり、15×15升目の後期大将棋をそれを少し大きくして作成するときに、「将棋は古来『車駒』は端筋」というのを思い出し、余った歩兵手前第2筋の升目に、平安大将棋の配列を参照して、作者が左右に飛龍を、無理やり、たまたま持ってきたが、あんまり良かったとは言えないという解釈が、有りえると私は思います。
     なお私の場合、この文を読むまで、平安大将棋は、盛んに指された将棋としては、平安小将棋しか無い状態において、横行、飛龍、奔車、銅将等を、がら空き段に横に走る駒を置くなどして、実際にゲームをテストしながらデザインした二中歴の執筆者自身が、やっとこ、さっとこ、考えついた作り出した、大将棋系将棋の出発点と、漠然と思っていました。なお藤原頼長の大将棋は、部分的にはこの3種の駒も含む、11×11升目ないし13×13升目の、実際には、彼と彼の仲間しか指さない将棋だったのではないかと、想像。藤原定家の大将棋は、二中歴に時代が近く、二中歴のこの部分の執筆者と、藤原定家との間に何らかの関連があるのかも知れないと思います。ここでの御説も否定はしませんが。私の今の仮説と、どっちが正しいのか。情報が不足しているため、現時点では判断無理な事だけは、たぶん確かなのではないでしょうか。
     摩訶大将棋の歩兵手前升目の配列ですが。ゲームの優劣の観点からも、うまく出来ていると思います。ただ「横飛」が、名前として浮いているため、言葉が出尽くしたとは、言えないのではないかと。「横飛」。何かほかに、考えようが無かったのでしょうかねえ。交換するとすれば、「方行」ですか。「竪飛」という駒が完成品の摩訶大将棋に、有りそうでないので不自然ですね。なお「竪飛」という名前の駒は、大局将棋にも無いですが。有るとすれば、大局将棋の方の「舟牛」の動きになるのでしょうね。

  • #2

    長さん (水曜日, 27 8月 2014 14:49)

    注記:↑で普通唱導集大将棋(最終)は、次の形を仮定。
    (相手方)
    香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車
    反車飛龍嗔猪猛豹盲虎鳳凰酔象麒麟盲虎猛豹嗔猪飛龍反車
    飛車横行竪行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
    歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
          仲人          仲人
    駒の動きのルールは、後期大将棋と同じと仮定。
    成りは、1段目で玉将と金将が不成りで、その他が金将。
    歩兵がと金。仲人は恐らく金将。
    麒麟が獅子。鳳凰が奔王。酔象が太子。反車が金将。
    その他不成り、かまたは、角行竪行横行飛車の4種だけひょっとすると金将。
    4段目まで自陣で、駒がぎっしり詰まっていて、13×13升目
    将棋としては限界状態をイメージ。
    後期大将棋で初めて、生の駒の「獅子」が、出現したのではないか?

  • #3

    T_T (木曜日, 28 8月 2014 21:58)

    コメントありがとうございます!!

    ところで、長さんは、大型将棋の成立順をどのようにお考えでしょうか。理由はいろいろと長くなるでしょうから、最終結論だけでもおうかがいできればと思っています。特に、中将棋はどの位置でしょう。

    それと、#2で、普通唱導集大将棋と書かれていますが、これが普通唱導集の文面だけを手掛かりにしたものだとした場合、あまりにも仮説につぐ仮説で、やはり、この将棋ははずして考えるべきではないのでしょうか。この将棋を含ませる意味があまり納得できません。平安大将棋がいつどのように成立したか、大将棋がいつどのように成立したか、文献に残されている大将棋のことだけがわかればいいように思うのですが。。。

  • #4

    長さん (金曜日, 29 8月 2014 08:33)

    了解しました。簡単に書きます。
    平安小将棋→平安大将棋→(平安大将棋+後期大将棋)/2→(3分裂)
    後期大将棋
    摩訶大将棋
    中将棋 →成り改善型→↓
               ↓
    (以下が、独立に継続)↓
    平安小将棋持ち駒型→日本将棋

    だと思います。        

  • #5

    T_T (土曜日, 30 8月 2014 00:14)

    お答えありがとうございます!

    3分裂というところがよくわかりませんでしたが、これは、3つの将棋(大将棋、摩訶大将棋、中将棋)がほぼ同時に成立ということでしょうか。

    ちなみに、私の方は、次のように考えています。

    将棋が陰陽道だった時期:
    (混沌状態:平安将棋、平安大将棋、摩訶大将棋)

    将棋が遊戯になった時期:
    摩訶大将棋 --> 大将棋 --> 中将棋
    摩訶大将棋 --> 大大将棋 --> 泰将棋
    平安将棋 --> 現代将棋
    と考えています。

  • #6

    mizo (日曜日, 31 8月 2014 18:23)

    質問です。長さんの図と異なり、
    平安将棋 --> 現代将棋
    とだけ表現されています。
    平安将棋(二中歴の将棋)にない「飛車(成り竜王)」「角行(成り竜馬)」「酔象(成り太子)」は、「中将棋」の駒を採用したといわれていますが、省略されていますか?(酔象は微妙なので後回しでもよいです)

  • #7

    長さん (月曜日, 01 9月 2014 09:49)

    私は中将棋の分岐は、独立と考えます。それは文献初出から南北朝時代で、他の二つ、後期大将棋、摩訶大将棋より早いの立場です。
    中将棋の「飛車」「角行」等の成り改善は室町時代の初期で、あてずっぽうでは象戯種々之図の年号。1443年の頃か。
    その段階で、現代日本将棋の成立の条件が揃ったと考えます。
    下の方が私のイメージに、近いでしょうか。
    →(平安大将棋+後期大将棋)/2→中将棋→成り改善型現代中将棋
                   ↓
                   →→(摩訶大将棋・後期大将棋 ?)→

    →大大将棋(象戯種々之図成立)→太(泰)将棋(象戯圖成立)

    蛇足ですが。天竺大将棋は、偶数升目の為中将棋起源と私見します。
    大大将棋と泰将棋の順序は、後者が水無瀬兼成本人作と私が、個人的に疑っている点も挙げられますが、「変狐」が大大将棋に有って、泰将棋と大局将棋に無い事も根拠です。大大将棋では「変(蛮)狸」と対として考えられたのでしょうが。泰将棋と大局将棋の作者は「忌駒名」と考え、削除の方が実際には起こったと考えます。大大将棋の作者による泰(太)将棋からの付け加えよりも自然だと思います。塚信仰が稲荷信仰に広く進展した戦国時代の頃に、大大将棋の変狐または蛮狐の駒名を見た信者が、「狐(ジャッカル)が、先祖の死体を食べている姿を(実は正しく)連想して不快」と報告したので、泰将棋の作者が、ひょつとすると変(蛮)狐を外したのかもしれないと思います。

  • #8

    長さん (月曜日, 01 9月 2014 14:58)

    追記:大大将棋は、後期大将棋・摩訶大将棋・天竺大将棋の後で、後期大将棋からの分岐だと思います。先行3種。特に天竺大将棋で、「将」駒が1段目で不動になりやすいのに、大大将棋の作者が、実際に何局か指して気が付いたのでしょう。将駒の配置を"┐┌”型に、前身の将棋から変えたと見ます。泰将棋は、それより遅く成立したもので、大大将棋のやり方を、踏襲しているのでは。羅殺が鳩槃に入れ替わり、磨羯が天狗に置き換わっている等、摩訶大大将棋と大大将棋の駒系列は必ずしも一致しているように見えない為、大大将棋が下敷きにした将棋は、恐らく後期大将棋と思われ、他方大大将棋が、摩訶大大将棋の先祖という訳でもないと私は思います。

  • #9

    T_T (月曜日, 01 9月 2014 23:28)

    mizoさんへ(#6)
    コメントありがとうございます。

    お尋ねの件ですが、小将棋系列ということで、省略しました。結論がまだ落ち着いていない、ということもあります。平安将棋は、いわゆる将棋だったのかどうかという点も未解決です。#5の、平安将棋 --> 現代将棋は、将棋という遊戯となった後の平安将棋を想定しています。もし、将棋以前の平安将棋から辿るとしますと、

    (混沌状態:平安将棋、平安大将棋、摩訶大将棋)--> 現代将棋

    という書き方になります。それと、飛車と角行が、2段目に並ぶのは、結構早い時期だったかも知れません。それに、当初の成りは金将だったかも知れません。中将棋の成立はさほど早くない可能性大ですので(以前の通説どおり、15世紀前半だと考えています)、成りを龍王、龍馬としたのは、中将棋からの採用でしょうが、中将棋からは、この点だけだったのではと考えています(とりあえず、今のところは)。

    これらの件、また投稿いたします。摩訶大将棋のことで、まだいくつか投稿していないままのものがありますので、そのあとになりそうです。

  • #10

    T_T (火曜日, 02 9月 2014 00:02)

    長さんへ
    コメントありがとうございます。

    私の場合、摩訶大将棋の復刻ひとすじみたいな感じですので、摩訶大将棋より後の将棋は、ほとんど手つかずの状態です(たとえば、天竺大将棋は全く見ていません)。ところで、中将棋のことですが、摩訶大将棋よりもかなり後での成立だと考えています。この点は、本ブログの投稿にて、たいていは間接的にですが、いろいろな観点から論じてきました。

    摩訶大将棋と中将棋を比較して、この2つの将棋の成立順に関する話題については、早々に投稿する必要ありと思っています。中将棋は、後世になって作られていますので、やはり、駒の動作や、成りに関して、不自然に思われる点がいくつかあります。ただ、中将棋は、現実の対局そのものが伝承されていますので、そんな確実なものに対して、その駒の動きは違います、とは言えません。しかし、中将棋は、摩訶大将棋よりも後で作られていますので、この点、納得してもらえれば、駒の動きが、中将棋と違っても、何ら問題ないかなと思うわけです。というわけで、摩訶大将棋の復刻にあたっては、中将棋との成立順は、非常に重要です。

    ところで、また、お尋ねしてよろしいでしょうか。中将棋の方が、摩訶大将棋よりも先に成立したということの、何か論拠のようなものは、あるでしょうか。ぼんやりしたものでもありましたら、知りたく思っています。

  • #11

    長さん (火曜日, 02 9月 2014 09:25)

    私の場合は、少なくとも中将棋と摩訶大将棋に関しては、元になる将棋が最も近い形の時代に作成されたとの仮定に基づき、中将棋の方が摩訶大将棋より古いと結論しています。
    ここで基になる将棋は、大将棋系列であり、大将棋は西暦1200年頃より西暦1500年±50年の約300年の間に、平安大将棋から後期大将棋に連続的に、滑らかに進化したと仮定しています。この仮定は、私に言わせると、鎌倉中期の作と思われる奔横駒の存在、鎌倉時代末期の普通唱導集の内容とは、矛盾が無いと思います。「奔横」は私の見解だと、自陣4段型の平安大将棋の横行の直ぐ前段の升目に置かれた、平安大将棋が後期大将棋に向かって、少し進化し始めた時代の駒であり、普通唱導集大将棋は、13×13升目の平安大将棋と15×15升目の後期大将棋の中間型で、13×13升目の将棋で間違いないと見ているからです。
     #2で、仮説普通唱導集大将棋を示しましたが、中将棋は後期大将棋よりも、この将棋からの方が少ない変化で作成でき、ほぼこの将棋が「大将棋の中将棋に対する最接近点」だと思います。私に言わせると、#2の仮説で、任意性は、猛豹の代わりに悪狼かもしれないと言う程度です。中将棋は、この将棋からは、嗔猪・飛龍・鉄将・桂馬(・ひょっとすると悪狼)・歩兵の余りを取り除き、生駒の獅子(と、ひょっとすると猛豹)を加えて、12×12升目に直して、配列を多少変え、成りを改善すればほぼ完成します。後期大将棋から、悪狼・嗔猪・猫叉・飛龍・猛牛・鉄将・石将・桂馬と、より多い駒を取り除き、15×15升目を12×12升目に、大きく直したのではないと私は思います。つまり大将棋が中将棋より、より形が遠くなるまでわざわざ待ってから、発明されたとは考えにくいと言う事です。
     それに対し、摩訶大将棋は、少なくとも大将棋との最接近点は、後期大将棋です。摩訶大将棋は、中央上段飛龍、下段臥龍または蟠蛇から、端上段驢馬、下段反車の間で形成される、袖中段の市松模様配列が特徴的です。この模様は後期大将棋と共通であり、少なくとも大将棋が15×15升目になって、悪狼・猛豹・嗔猪・猫叉・猛牛・反車で作る、中段袖市松模様配列が大将棋に出来てから、後期大将棋が明らかに関連して発明されたのだと私は考えます。
    つまり中将棋の元は普通唱導集大将棋。摩訶大将棋が作成された時代の大将棋は後期大将棋と考えるので、中将棋の方が摩訶大将棋より古いと考えているという訳です。

  • #12

    T_T (水曜日, 03 9月 2014 00:47)

    長さんへ
    詳しいお答えありがとうございます!

    ところで、いただきました中での核心部、「中将棋の元は普通唱導集大将棋」のところですが、このように結論づけられる理由がよくわかりませんでした。普通唱導集大将棋は、仮想された将棋ですので、これをまず確定させないといけませんが、現状、そのような将棋があったとする資料はありません。仮に、今後新しい資料が見つかり、長さんが想定される将棋があったとしても、それが、中将棋にまで発展した理由に、主観が入りすぎているように感じました(私が言うのも何ですが、、、すいません。主観部分はお互い言いたい放題ということでいいのかも知れません。千年も前の話しですし、まだまだ決まりそうにもないことですし)。

    もし、次のゲーム学会で、将棋の歴史が特別セッションとして決まりましたら、投稿の方よろしくお願いします。将棋の歴史に興味を持たれている方が、一堂に集い、自説を披露しあう会です。議論をするのではなく、説の内容をきちんと聞く、というのを1回目と考えています。少しぐらいは質疑応答があってもいいかも知れませんが、基本的に、議論は、次の次か、または、もっと後でもと思ってます。話しは直接にお聞きする方がよくわかりますし、マイナーな領域の文章をきちんとまとめて公開するのも結構面白そうです。

    将棋の歴史セッションの研究報告集/予稿集は、学会の一般セッションとは別冊子で発行できたらと思っています(この件、通るかどうかはわかりません)。1人4ページから6ページぐらいで、発表者5、6人、セッションの参加者10人ぐらいでと思っています。いかがでしょうか。この件、そのうち、mizoさんにもお願いする予定です。開催は、3月上旬の予定です。学会の予稿集のようにきちんと製本したいと思っていますので、原稿〆切は1月末ぐらいとなります。

  • #13

    長さん (水曜日, 03 9月 2014 08:24)

    了解しました。「普通唱導集大将棋は、平安大将棋と後期大将棋の折衷形で、13×13升目将棋」の根拠は、普通唱導集そのもので、とりあえず充分と私は考えます。普通唱導集の大将棋記載前半部分では、事実として「仲人に嗔猪と桂馬で紐をつける事」が記載されています。その後で、端筋破りの戦法が記載されます。ところで何で、普通唱導集の作者は、これほどまでに「仲人の位を死守する事が大事である」と唄っているのか。後期大将棋が、普通唱導集大将棋と同じとして、どうやったら説明できるものなのか。私の説に反対の方には、ぜひ御説明願いたいものだと思っていますが。
    ちなみに、私の書いた#2を、もっと正確に示します。下側が攻め、上側が守り側だとして、「□□」の部分をごらんください。
    こうならないんですね。後期大将棋だと。
    香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車
    反車飛龍嗔猪猛豹盲虎鳳凰酔象麒麟盲虎猛豹嗔猪飛龍反車
    飛車横行竪行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
    歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
          仲人          仲人
            □□      □□
              □□  □□
                □□
          仲人  □□  □□  仲人
    歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
    飛車横行竪行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
    反車飛龍嗔猪猛豹盲虎麒麟酔象鳳凰盲虎猛豹嗔猪飛龍反車
    香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

  • #14

    長さん (水曜日, 03 9月 2014 14:13)

    訂正と補足。↑で普通唱導集。前半・後半が逆です。が、正しい記載で、前半で戦法を、後半では、その防ぎ方を述べている事になるので、より鮮明。
    なお角筋。当たっている横行はどの場合も、取らせると敗勢になるので、逃げる一方。よって横行に端筋守りの効果は無し。しかし後期大将棋では、反車の手前の猛牛で、攻めが止まるのです。猛牛には猫叉で紐が付いているので。よってこの場合、反車は事実上安泰。端筋は破れないと思います。

  • #15

    T_T (月曜日, 08 9月 2014 15:08)

    長さんへ
    コメントありがとうございます!

    ただ、ご提案の普通唱導集大将棋の件、賛成ではありません。たとえば、奔王や麒麟が入っていますが、この件の説明、むずかしいのではないでしょうか。普通唱導集に関連する将棋を想定するという説は、これまでにもいくつかあったと思いますが、たとえば、すぐ思い出しますのは、この将棋は、飛車が最強だった可能性が大きい、というものです(たぶん、mizoさんが言われていたと思います)。

    それと、普通唱導集の、仲人、嗔猪、桂馬の件ですが、これの解釈については、「日本文化としての将棋」という本の中に、ひとつの文章として掲載されています。私は、この解釈は違っているだろうと思っていますが、当時、学会発表され(たぶん)、さほど反論が出ず、ひとつの解釈あるいは仮説としては成立ということになって、単行本にも取り入れられたものと思われます。ただ、この解釈では、桂馬が現代将棋の動きとみなされており、解釈がぴたりと決まらないのは、これが原因だろうと考えています。

    桂馬の動きが、現代将棋とは違い、前にななめ2目進むとした場合の解釈は、本ブログの投稿25)となります。長さんは、おそらく、桂馬を今の動きとされているでしょうから、この投稿25)とは無関係ですが、上記の「日本文化としての将棋」の中の解釈とは比較されることになります。

    このように、普通唱導集から想定した将棋は、まだまだ未確定であいまいですので、このあいまいさの上に乗って、また別の問題を解明しようとするのは、大変むずかしいという印象を受けます。

  • #16

    長さん (木曜日, 11 9月 2014 15:09)

    ありがとうございます。
    普通唱導集の駒について。
    奔王について。普通唱導集の時代前に奔横が有った事。鎌倉駒に奔王がある事が存在の根拠。
    麒麟については。鎌倉駒に鳳凰が有るので、麒麟も有るのが自然である事が存在の根拠です。
    「強い駒の記載が無いから弱い駒しかない」とのmizo氏説には私も賛成。ただ、獅子が生駒で無ければ、大将棋で特記する戦法が、端攻め戦法になるというのは自然なのではないか。龍王や龍馬が有ってもその部分は強くて、獅子でも無ければ攻めにくく、弱い袖部分の攻めが、主な戦法として記載されるのは自然だと思います。繰り返しますが、私は普通唱導集大将棋部分は、2文全体が1内容「端攻めとその防御方法」と見るべきだと考えます。そして端攻め防御法は、飛龍の列の無い自陣4段構えの将棋では、角行頭の仲人位置を相手の角行の利きから守るのが絶対。他に安全な防御法など無いと思います。つまり仲人の元々の位置は6段目では無く5段目。そして元々の5段目位置の仲人を守れるのは、通常動きの桂馬と、嗔猪しかないというのも道理であって、普通唱導集の大将棋部分の記載は、全くもって、もっともな内容であると思っています。
    桂馬の動きについて。通常の桂馬の動きで、このケースは良いと思う。なぜなら普通唱導集では、小将棋についての記載でも「桂馬」が別に出てきており、どちらも指す普通唱導集の作者は、少なくとも、桂馬を統一された動きで指していたと見るのが自然。他方大局将棋の飛龍動きでは、銀将に比べて著しく価値低とは言い難い。銀将と交換して嬉しい、普通唱導集の小将棋の桂馬は、普通の桂馬の動きで良いのではないかと思っています。

  • #17

    T_T (金曜日, 12 9月 2014 00:57)

    コメントありがとうございます!

    桂馬の動きの件ですが、最後の段落でのご指摘、十分に納得できました。大型将棋に関する限り、昔の桂馬の動きは、今とは違っていたと考えていますが(投稿50にて話題にしています)、この件に対する、初めての説得力ある反論が来たと感じました。というわけで、すぐには返答できません。

    とは言え、古文書の桂馬についている朱色の点の位置(ななめ2目)は、軽視できません。それと、どこかの投稿で書こうと思っていたのですが、まだ書いていない件、ちょっとした話しですが、ここで書きます。

    平安大将棋の初期配置のことです。香車の上に奔車、桂馬の上に飛龍です。摩訶大将棋視点でこの配置を見ますと、香車の上に、後ろにも行ける香車(=奔車)を置いた、桂馬の上に、後ろにも行ける桂馬(=飛龍)を置いた、と見ることができるのです。この整然とした配置。納得できる配置だと思われませんか。飛龍はななめ2目、桂馬もななめ2目です。

    ところで、鶴岡八幡宮の裏が奔王の駒のことですが、大将棋か摩訶大将棋ではないでしょうか。香車と思われていた駒が、奔駒なら摩訶大将棋です(論文のイラストを見る限り、その駒は香車ではなく、奔駒の可能性大です。なぜ誰も気づかないのか不思議なくらいです。ただ、この駒も奔王の駒だという可能性は残りますが、確率的観点からは低いでしょう)。この件、投稿56)にて話題にしています。

  • #18

    長さん (金曜日, 12 9月 2014 10:03)

    ありがとうございます。
    平安大将棋の桂馬は、桂馬跳び型。曼殊院蔵書の時代から安土桃山時代にかけて、筆では桂馬跳びが表現しづらい図面だけで、駒数多数将棋のルールを記載した時期のみ、後へ後退できない大局将棋の飛龍が、桂馬の動きとされていた時代が一時有ったと、私は認識します。シャンチーの国。中国「明」等と、国交断絶していなかったため、戦国時代前後の時期もたぶん、2系統ルール並存期では。
    以下、桂馬の動きが不明なだけで、二中歴の記載のものと、他が全く同じ平安大将棋一般を、「平安大将棋」と記します。その「平安大将棋」を知っていて、後へ後退できない大局将棋の飛龍が、桂馬の動きと考えている棋士が、仮に鎌倉時代草創期にいたとします。二中歴の平安小将棋記載部分を読むことにより、八方桂馬から、前方2升目先動き以外を除いた動きが、桂馬であると、その時点で改心する可能性が高いのではないでしょうか。
    よって平安大将棋の桂馬はチェスのナイト(八方桂馬)から、前方2升目先動き以外を除いた動き。曼殊院蔵書後期大将棋から、江戸時代に将棋の文面有解説書が記された時代より前に、後へ後退できない大局将棋の飛龍が、桂馬の動きと、一時期されたようであると私は解釈します。
    なお飛龍~桂馬配列に関する、高見先生の解釈。個人的にはあんまり納得できません。少なくとも泰将棋では、「角動き型駒の縦並び配置の奥置き」は、序盤の攻撃開始が遅れるため、なるべく避けているように私には見えます。平安大将棋程度の自陣段数の少なさなら、どっちでも良いのかもしれませんが。

  • #19

    長さん (金曜日, 12 9月 2014 14:01)

    なお以下、二中歴の訳について、補足します。
    桂馬のルール部分「桂馬前角超一目」は、「桂馬は、前升目、角升目(の順で、進んだ)先の1升目」と訳しました。ここで角は、猛虎(平安大)等、他の駒の説明から、方向ではなくて「角の一升目」の意味だと思います。また「超」は「の順で進んだ先の」であって「跳び越え」とは、二中歴では、どうも訳せない感じがします。別の例としては「飛龍在桂馬之上行四隅超越」があり、「飛龍は桂馬の上段(あるいは上位升目)に在って、斜め方向(なお隅は斜めの方角であって、特定の升目ではない。の升目の順で進んだ)先の、任意に越えた(任意に走った)升目」では。この解釈では、飛龍は角行と同じ動きになります。私の訳は違うのでしょうか?

  • #20

    長さん (金曜日, 12 9月 2014 17:09)

    ↑。少し違いますね。「超」は動詞です。ただし↑の意味は直しても、ほぼ合ってると思います。
    「桂馬前角超一目」は、「桂馬は、前(升目)、角(升目の順)につき、一升目を超(こ)す。」だと思います。
    「飛龍~行四隅超越」は、「飛龍は、~四(方向の)隅(斜め方向)につき、(遠く)越えた(升目。あるいは、遠く走った升目)を超(こ)す。」(ようするに走る)だと思います。

  • #21

    T_T (土曜日, 13 9月 2014 01:07)

    コメントありがとうございます!

    二中歴にある桂馬の動きの解釈の件、重要ですので、この件の返信は、投稿111)にしました。そちらの方を読んでいただけますでしょうか。

    長さんの原文解釈についてですが、多少の疑義はあります。
    桂馬前角越一目:前に一目という意味で、「前」を使ってしまうと、「角」が前だけと限定できなくなります。角行の駒ができた時代(江戸時代ではなく)、角は、ななめ4つの方向を意味します。