126)象棊纂圖部類抄の序文:将棋と陰陽道

現時点では、象棊纂圖部類抄(=象戯圖)の序文は、日本将棋成立の由来や背景について記述されているほぼ唯一の古文であり、最古の文献です(象棊纂圖部類抄と象戯圖は同じ文献)。この序文を抜きにしては、将棋の歴史は考えられません。先日の奈良県大芸術祭の摩訶大将棋イベントでも、象棊纂圖部類抄のカラーコピーの全文を旧世尊院客殿の廊下に長々と広げて展示しました。この様子は、ブログ(現代に生きる摩訶大将棋)にも取り上げていただいています。ありがとうございます! URLは次のとおりです。

http://mylife29.blog74.fc2.com/blog-entry-15.html


象棊纂圖部類抄:東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
象棊纂圖部類抄:東京都立中央図書館特別文庫室所蔵


象棊纂圖部類抄の序文のことは、投稿102)にて一度話題にしていますが、序文の写真は、本稿が初めてとなります。上図は、序文の前半部分です。


投稿102)では、序文のはじめから3行目まで、「・・・金銀鉄石ノ名ヲ以テス」までを取り上げました。この序文のとおり、摩訶大将棋には、地の金銀鉄石はあるのに、天の日月星辰がない、これはなぜだろうか、というのが投稿の内容です。もう3カ月が経ちます。十二支の話はここからがはじまりでした。将棋と陰陽道の関連は、この少し前からうっすらとは感じていたのですが、序文の日月星辰、つまり、十二支の駒がきちんと存在することから、将棋と陰陽道はほぼ確かだろうということで、その後ずっと追いかけている次第です。


いろいろなことが新しくわかりました。私の色眼鏡で見ているからでしょうが、そのすべては摩訶大将棋の陰陽道起源説を支持しており、そうではないという形跡はひとつも出てきません。ひとまず1点のみ指摘し、本稿終わります。序文「以金銀鐡石之名」の続きからです。


蓋順陰陽之本 宣律呂之気: 蓋シ陰陽ノ本ニ順イ、律呂ノ気ヲ宣ブ

陰陽の本のとおり、確かに、(将棋は)律呂の気を表現している、という解釈になります。


将棋が陰陽道だと言いたいのなら、日月星辰よりもこちらの文章の方がより直接的だったと思いますが、当初は、「律呂の気」を、宇宙の気と、よく調べずに思い込んでいたということがありました。調べてみると、そうではなく、律呂(りつりょ)というのは、中国古代音楽の音名の総称です。律が陽で、呂が陰の調子です。六律と六呂、合わせて12あり、それぞれが、十二支のどれかと対応づけられています。律呂は十二支なわけです。それと、たとえば、十二の律呂は、太簇、夾鍾、姑洗、・・・という名前で、月の名前としても使われていました。象棊纂圖部類抄の奥書にも、夾鍾(陰暦二月)という語句があります。このあたり、諸橋博士の大漢和辞典にとても詳しく書かれています。


このように、将棋は陰陽道だらけです。たとえば、投稿110)のコメントにも書きましたように、宝応将棋の物語に出てくる「六甲」という言葉は、干支から来たものでしょう。つまり、甲子・甲寅・甲辰・甲午・甲申・甲戌の6種類の総称です。たとえば、二中歴の大将棋のところ、飛龍の記述にある「四遇(しぐう)」は、陰陽道から来ており、東南、西南、東北、西北のことです。


コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    長さん (木曜日, 20 11月 2014 08:07)

    基本的に、陰陽道が日本人の精神世界を完全に支配していたのは、安土桃山時代まで、と認識しています。この序文は、安土桃山時代に転記されたものなので、水無瀬兼成も、曼殊院の将棋図の序文は、もっともな内容であると認識してそのまま記したのでしょう。
    つまりこの書の内容は、最も遅いケースで安土桃山時代に発生した内容が、含まれる可能性があるという事を、この序文が示しているのではないでしょうか。
    なお江戸時代には、摩訶大将棋では理解のために避けて通れない、仏教的世界観と陰陽道が、じょじょに後退してゆきましたが、その直前に「南蛮文化の洗礼」を受け、かつオランダとは、鎖国以降も交易を断絶しなかったたためだと、個人的には理解しています。江戸中期の将棋将軍、徳川家治時代の老中田沼意次が、後に電気通信系大学の礎になる、平賀源内を重く扱ったのが、象徴的ですね。

  • #2

    T_T (水曜日, 26 11月 2014 22:26)

    長さんへ
    コメントありがとうございます!

    陰陽道が、宮廷から一般社会に広まったときには、もう将棋と陰陽道の結びつきは重要でなかっただろうと考えています。その必要もなかったでしょう。将棋は、陰陽道の呪術、占術であり、秘術でもあり、宮廷陰陽師だけが操ることができて、天皇とその周辺だけのものだっただろうと空想しています。だから、表には出て来ず、文献にもなかなか現れなかったと考えます。本ブログでは、将棋の伝来と、摩訶大将棋(プレ摩訶大将棋というべきでしょうが)の成立を、かなり早い時期に想定していますが、その拠り所を、将棋と陰陽道とのつながりに求めてきました(この方向でいろいろと思索中です)。

    というわけですので、注目すべき時代は、宮廷陰陽師の他に法師陰陽師がそろそろ出始めた頃、平安時代の後半です。この頃に、将棋という秘術が、社会に漏れ出てきたのではないかと思っています。この漏れ出てきた将棋は、宮廷陰陽師が扱っていた将棋そのものではなく、あくまでも、部分的なものであり、簡単な将棋だったでしょう。現在、原初の将棋と考えられているものは、二中歴に記述のある平安将棋や平安大将棋なわけですが、これが、漏れ出てきた将棋だったという可能性もあります。二中歴の記事がいつ書かれたのかにもよりますが、1200年代前半というのでは、遅すぎでしょう。普通唱導集に記載のある大将棋についても同様で、1300年前後でこういう状況は、あまりにも遅すぎです。この頃には、摩訶大将棋は完全に成立していたものと思われますが、大将棋(15マス)は、まだ一般には広まっていなかったのかも知れません。

    本コメントの内容、これだけを読めば、トンデモ説に見えてしまいますが、今後の投稿の内容も合わせていただくと(結構いろいろと未投稿ですので)、それほどトンデモでもありません。摩訶大将棋の成立は、最も遅くて1200年代の前半あたりと考えます。台記の大将棋、明月記の将棋が、摩訶大将棋である可能性も十分です。