2015年

1月

04日

133)必読の資料「唐代象棋漫話」:「象棋」第11巻 p53

「唐代象棋漫話」は中国の四川省で発行されている雑誌「象棋」に掲載されている文章で、第11巻の53ページにあるそうです。この資料の信憑性はしばらく問わないとして、ともかく内容が奇抜ですので、将棋の歴史に興味を持たれている方には必読の資料ではないでしょうか。


雑誌「象棋」の入手はたぶんむずかしいですし、中国語の翻訳もしないといけませんが、この点は心配不要です。「唐代象棋漫話」の内容を紹介した日本語の記事があります。次の雑誌です。

○ 詰棋めいと 第14号(1993年) 82ページ「将棋のルーツ考」門脇芳雄

この記事には、「唐代象棋漫話」の全文も掲載されていますので、原文にきちんとあたりたい方も問題ありません。なお、「詰棋めいと」は、国立国会図書館にありますので、コピー可能です(だと思います)。

 

問題は、「唐代象棋漫話」に書かれている重要な事実の出所が不明な点です。つまり、出展が書かれていません。これについては、「将棋のルーツ考」の著者、門脇芳雄氏も、記事の最後で問題にされています。記事は、この点は問い合わせ中であり、何かわかればまた報告したいという旨の文章で終わっていました。その後、何らかの報告が記事になっているか探してみたのですが、たぶん、なかったように思います。ただ、この件、記事よりずっと後の2004年に、Webの掲示板に、原典はいまだ不明であるとの旨、投稿されていました。

 

上記Webの投稿中に、1点、とても興味深い一文があり、調査必須です。

『西安の歴史博物館で「唐代の将棋」として日本将棋に酷似した(玉の頭に不明の駒があった由)粗末な盤駒が展示されていたのを見たそうです。』

とのことです。公的な博物館で展示されていたのは事実なわけですから、この件重く見る必要があります。


前置きが長くなりすぎました。唐代象棋漫話の詳細については、記事を参照いただくとして、個人的に一番気になるのは、玄宗皇帝が楊貴妃と指した人間将棋に、香車、桂馬、銀将、金将があったという唐代象棋漫話の中の記述です。史実だとすれば、将棋伝来に関する吉備真備説を完全に裏付けてしまいます。この内容は本当なのかどうか。


真偽が不明な以上、これは、信じるか信じないかの問題でしょう。私としては、とりあえず信じてみるというスタンスです。したがって、「唐代象棋漫話」「将棋のルーツ考」も、現状、私の中では参考文献リストに並びます。なお、唐代象棋漫話は、中国の象棋についての論文であって、日本の将棋についての論文ではありません。ともあれ、原典が明らかになることを待つのみです。

 

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コメント: 12
  • #1

    長さん (月曜日, 05 1月 2015 11:05)

    やはり。「全部」二文字駒だけの、「中国象棋」が有ったとすれば、相当に、驚くべきことと思います。ちなみに、吐蕃(チベットの古国)とか南詔(雲南省の国)といった国。唐にくらべて、そんなに軍事力は劣らなかったようですね。特に吐蕃は、今のチベットのように、チベットの地で満足するような辺境の国ではなくて、唐が弱ると、中国の中原まで軍隊が繰り出して来たらしいです。唐って北宋の最盛期に比べると、一般的なイメージよりは、弱い国なんですねぇ。御考察の唐代象棋漫話は、かの宝応象戯(「金象将軍」が率いる軍隊らしい)の話とも関連するのではないでしょうか。
    私的には、玄怪録の編者牛僧孺の政治的性格から見て、実は、車、馬、銀将、金将、玉将という、部分漢字二文字の将棋が、唐と吐蕃の「干渉国家」南詔あたりに、晩期唐代から有ったのではないかと、空想はしていますが。

  • #2

    長さん (月曜日, 05 1月 2015 13:00)

    「干渉国家」南詔→「緩衝国家」南詔

  • #3

    T_T (月曜日, 05 1月 2015 17:43)

    長さんへ
    コメントありがとうございます!

    唐代象棋漫話の冒頭は、宝応象戯の話題から入っています。
    『 8世紀の宝応象戯には将、車、卒等の駒があって、それらは立体駒で、マス目の中に置き、ルールも現代の象棋と大差がない。ということが、「中国象棋譜」の第一巻の序に書いてあります。』
    意訳ですが、こんな感じで始まります。

    さて、本稿の方ですが、次の2段階で大きな注目点があります。
    1)8世紀の中国(玄宗皇帝の頃)で将棋が指されていた。
    2)玄宗皇帝がした人間将棋には、金銀桂香が使われていた。

    上記1)の方が、私には重大だったのですが、この点は、長さんと違いますね。長さんは、2文字だという点を驚かれています。

    1)の点は、あまり問題ではないのでしょうか?
    駒の字が1文字でも2文字でも、中国の将棋がその頃すでにあったのだとすれば、当時はまだ遣唐使が行き来していたわけで、日本への伝来は8世紀ということで確実ということになってしまいます。

    なお、「中国象棋譜」はまだ見ていませんが、現代の書籍ですから、何の参考にもなりません。もし、原典に引用元があれば、すごいことですが、今まで誰も話題にしていないことから察するに、たぶん、原典はないのだと思います。

    玄宗皇帝に関する1)と2)の出典が問題となります。人騒がせの「がせ」という可能性も大きいのですが。。。まあ、私はこの件待ちます。

  • #4

    長さん (火曜日, 06 1月 2015 14:48)

    1)の点は、確かにインパクト。私には低いです。
    中国とインドは、少なくとも「茶馬の道」を通じて、陸続きですから。
    たとえばシャトランジを、玄宗と楊貴妃が、指した事が有ったとしても、全くの不思議な話じゃないのでは。ササーン朝ペルシャの時代には、チャトランガが中東に伝わりシャトランジになり、ササーン朝の後のアッバース朝とは、唐は西の国境線が接していたのですから。別のルートとしては、国境を直接越えて、シャトランジがシルクロード経由で直に、8世紀あたりに唐に入ってきて、上流階級だけ指しているのは、おかしくないと私は思います。
    他方、シャトランジの駒を漢字に訳して、全2文字にするというのは、不自然では。王、大臣、象、馬、戦車、歩兵の「部分2文字」ですよね。最大限譲歩しても。一文字なら、王、将、象、馬、車、兵で充分と言う世界では。
    そもそも、後のシャンチーが、師・将、士、象、馬、車、兵や卒と、漢字がだいたいシャトランジに対応するのに、なんで8世紀、途中に、「玉将、金将、銀将、桂馬、香車、歩兵」の変則的な駒名の時代が、「唐の中心。宮廷文化に於いて、挿入される」んでしょうかね? やはり御指摘のように、全二文字で原始平安小将棋の様なのは、とても不思議な話だと私は思います。

  • #5

    mizo (木曜日, 08 1月 2015 23:43)

    『玄怪録』によれば、8世紀に中国に将棋類があったことは確実です。

    私は、当時の中国には少なくとも2種類の将棋類があったと思います。
    一つは、駒名1字の後の『象棋』につながるもの。もう一つは駒名2字の後の『二中歴将棋』につながるものです。
    こう考えれば矛盾はないと思います。『玄怪録』は怪異譚であり、将棋の解説書ではないので、オチを悟られないように工夫がされています。「宝応将棋」という単一の将棋は存在していないと思います。

    ただし、8世紀に日本に将棋類が伝わっていたとしても、華麗な摩訶大将棋が突如生まれていたとは、私には信じがたいです。

  • #6

    T_T (火曜日, 13 1月 2015 00:31)

    長さんへ
    コメントありがとうございます!

    本稿、読み直してみますと、私の本文と私のコメント#3とが合致していない点がありましたが、まあ、どちらもそう思ったそのままを書いていますので、ご了解下さい。

    後日の投稿の話題ですが、
    中国から日本へ: 原初の中国象棋が伝わる
    その後、
    日本から中国へ: 人間将棋になった、金将・銀将・・の将棋を伝える
    という空想になります。

  • #7

    T_T (火曜日, 13 1月 2015 00:49)

    mizoさんへ
    コメントありがとうございます!

    玄怪録だけが根拠の場合、その説は空想ということになりますが、この点は、人文科学の方法論上、仕方ありません。玄怪録云々以外の何か別の論証をお持ちでしょうか。

    私の方は、原初の中国象棋が、8世紀に日本伝来というシナリオですが、これも、現時点では、まだ空想です。摩訶大将棋に類似した日本将棋がいつごろ成立したのかは、まだ不明です。しかし、「突如生まれた」というわけでもありません。問題となるのは、駒数で、象經の記述からは、多数あったような感じはあります。

    新猿楽記、長秋記とも、二中歴より古い成立ですが、十二支の駒を認めてしまいますと、それだけで、大型将棋の成立となります。同時に、二中歴の将棋は原初でないことにもなります。駒数が少ないものから多いものに将棋が発展するというのは、根拠というよりも、一種の思い込みですから、重要視されることでもないのではと考えます。

    新猿楽記については、結構詳しい論説も多いのですが、どれも将棋という観点からの思い入れはありません。ですので、新猿楽記の記述から十二支の駒の存在を読み取るという点、これまで指摘されずでした。

  • #8

    長さん (火曜日, 13 1月 2015 09:34)

    この項に関連して。
    遊戯史研究家の増川宏一氏は、自身のさいきんの著書、「将棋の歴史」で、「玄怪録が中国でそのころシャトランジ系ゲームがあったとの証拠」との論を、強く否定しているのですが。上記の著書の「話の流れ」が私には実は、良く理解できません。玄怪録の記載からの帰結とされる「宝応将棋」の存在の是非。将棋史の大勢に、影響無いのではないかと私には思えます。「宝応将棋」は西暦800年頃。インドのマウカリ朝のカナウジで発生したともされる、チャトランガゆかりの「マウカリ朝」。西暦700年頃の、これより古い国と聞いているからです。西暦700年から800年までの100年で、2人制チャトランガが、サーサーン朝ペルシャにまで伝わり、シャトランジになって唐まで戻って来ても、100年あれば、充分間に合うんじゃないのでしょうか。将棋類中国起源説を主張するには、「宝応将棋」より100年を超えて、より古い中国の将棋を、発見しないとダメだと思います。アラブ・イスラム帝国の将棋が、ヨーロッパに伝わるのが十字軍と共にで、西暦900年以降だそうなので。増川宏一氏は、「西暦800年では、中国でのチェス型ゲームの発生が早すぎる」と錯覚したのでしょうかね? この頃東ローマ帝国。イスラム文化の取り込みを嫌っていたかもしれないですし。ヨーロッパはフランク王国のカール大帝も文盲なほどの、中世の暗黒時代だった為、日本と同じくらいのテンポで、200~300年位、チェス類の流行り始めが、単に欧州では遅れただけじゃないんでしょうかねぇ。

  • #9

    長さん (火曜日, 13 1月 2015 09:46)

    ペルシャでは、インドのマウカリ朝の時代には既に、サーサーン朝は滅んで、イスラム帝国のウマイヤ朝の時代に入っていたようです。上でサーサーン朝は、ウマイヤ朝に訂正しておきます。

  • #10

    長さん (火曜日, 13 1月 2015 09:59)

    「マウカリ朝」。西暦700年ではなくて、西暦600年頃ですね。宝応将棋まで100年ではなくて、200年の猶予があります。ペルシャでは、サーサーン朝でOkです。混乱した書き込みをし、たいへん失礼しました。

  • #11

    T_T (水曜日, 14 1月 2015 09:08)

    長さんへ
    コメントありがとうございます!

    コメント#8についてですが、まず、増川先生の著書の件、他の著書も私は全部読んでいますが、特に不自然は感じていません。強く否定の箇所があるのだとすれば、その対象は、空論を論拠にしている説に対してではないでしょうか。宝応将棋の有無が焦点ではないのでは。

    ところで、コメント#8では、時間の問題だけから、中国起源説を却下しているように読めますが、時間だけの問題ではないですし、何とも言えないのではないでしょうか。

    現状の私は、8世紀に原初象棋があり、玄宗皇帝が指した金銀桂香の人間将棋イベントもあったという説にまるまる乗っています。これの根拠が現れるのを待っている状態です。

  • #12

    長さん (水曜日, 14 1月 2015 12:00)

    今後、増川先生は更に著作されるのかもしれませんし。私もこの2013年初版著書に、こだわり更に深入りするつもりもありません。この著書の文脈、「中国人は周代までチェス・象棋ゲームが遡れると2013年前後に主張している。それは西暦800年頃の玄怪録を唯一の根拠にしたものである。他方、欧州を主としてほかの国の研究者は、西暦600年ころのインドのカナウジでチェス・象棋ゲームが発生したで、一致している。」と書いてます。以上の文から、「600は800より小さい数字であるから、中国の研究者の説は却下される」と指摘すれば、充分なのにもかかわらず、「玄怪録の言う宝応将棋など無い」と必死に論証しているのが、私にはどうにも不可思議に見える。ただ、その程度の物です。