134)興福寺と伎楽:摩訶大将棋が興福寺で作られた可能性

年末12月29日の朝に、次のテレビ番組がありました。

世界遺産・シルクロードから薬師寺へ ~1400年の時を越え甦る幻の仮面劇

http://www.bs-j.co.jp/official/yakushiji/


予想どおり、伎楽の話だったのですが、劇の内容は一部しかわからなかったです。伎楽の劇がどのようなものなのか、一度は実際の舞台を見に行かないといけません。


ところで、番組のナレーションで、「伎楽は平安時代には廃れました」というような意味のことを言っていましたが、これは正確な表現ではないでしょう。伎楽は奈良時代がピークでしたが、その後も結構長く演じられていたようです。以下のサイトに、東洋音楽学会の研究会(2013年2月)の予稿があります。興福寺では、1235年まで、44回の伎楽が演じられた旨書かれています。

http://tog.a.la9.jp/higashi/summary/sum_69_2.pdf


興福寺と東大寺は、他のお寺よりも、伎楽の廃れ方は小さかったようです。投稿108)で、摩訶大将棋と伎楽面との対応について書いていますが、そこでは、

○ 摩訶大将棋--伎楽--八部衆--興福寺

という連想ラインのことを少しだけ書きました(以降、きちんと書いていませんが、すいません)。しかし、上記のように、伎楽は、そもそもダイレクトに興福寺と関係していたのでした。伎楽面が八部衆と対応していたのも自然な話です。


どこかの投稿かコメントで書いたように思うのですが、正しいと思われることには、次々と、スピンが同じ方向を向き始め、根拠が確かなものになっていきます。十二支の駒はそういうふうでしたが、伎楽面の駒も同じ様相です。正しくない場合は、スピンは揃いません、ちらちらと自己矛盾が見えてきます。だから、正しくないことは、ある程度の思索を重ねると、正しくないということがわかります。これは、どうも、歴史学の特徴ではないでしょうか。素人がえらそうに言うのも何ですが(むしろ素人だから言えるのでしょう)。摩訶大将棋の後で大将棋ができたという件も、やはり、そうです。全部のスピンが、次々と同じ方向を向きます。だから、摩訶大将棋の先行説は、たぶん正しいのでしょう。


さて、伎楽面に対応する8つの踊り駒(師子・狛犬・金剛・力士・麒麟・鳳凰・夜叉・羅刹)のことですが、興福寺で発案されたという考えは、どうでしょうか。

摩訶大将棋--伎楽--興福寺--古代日本将棋の大本山(何しろ酔象が見つかっていますから)

という連想ラインです。まだ空想にすぎませんが、楽しめる説ではあります。本稿、原初の摩訶大将棋は興福寺で作られた、という空想を書いて、終わりにします。


予定では、教訓抄に書かれている伎楽の話のはずでした。この件、また、後日に。教訓抄は言います。力士の面が踊るとき、笛を3回吹く。3回です。金剛の面も、羅刹の面もそうです。3目踊りですねえ、といういい加減な話しをする予定でした。ただし、実は、鳳凰の面でも3回吹きます。


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コメント: 2
  • #1

    長さん (金曜日, 16 1月 2015 09:00)

    興福寺は藤原氏の氏寺です。私の場合、この点が重要なのではと見ています。摂関時代の藤原道長等をしのぶ意味で、興福寺出土駒を使って、小将棋等が指されたのではないでしょうか。藤原氏はほぼ皆、将棋の研究に平安時代中ごろから後は熱心だというのが、私のイメージ。その伝統は、水無瀬兼成に至るまで、脈々と継続されたのだと見ています。
    原因は、私によると、「原始平安将棋の『玉将』が、北宋商人によって、藤原道長等、摂関時代の藤原長者になぞらえられて日本の九州、大宰府に伝わり、そのなぞらえが大宰府の小役人には「うけて」、仏教の同時輸入経文の貸出札を使った日本将棋が、1組しか実際には現物は無かったのかもしれない『大理国の立体駒将棋』と同型のゲームとして発生。それが後の日本の将棋の源になったという経緯から」となります。上記のなぞらえは、ようするに「藤原道長は宝石で着飾って、黄金の国「ジパング」を気取っているのだが、その実かっこばかりで頭の中身なし」というのが北宋商人の「心」という訳です。そしてそれは、原始平安小将棋が、既に北宋には有ったシャンチーに比べて、ゲームとしての質が低い事で、「大和民族の北宋の人間に比較してのお頭の弱さ」を表しているという事ですね。その汚名を晴らす公益活動が、ようするに、その後の藤原一門の、将棋文化への異常なまでの肩入れの源だったとすれば、将棋の古文書記録や出土駒の一部の謎に関して、ほぼつじつまが合うと思います。
     次に、興福寺と摩訶大将棋との関係ですが。私は「ここで議論されている摩訶大将棋」は、戦国時代の天文の錯乱時代に発生の説を取っています。それで西暦1532年頃の天文の錯乱時の、興福寺への一向一揆の、無差別他宗派テロ活動攻撃の歴史的事実に多少の興味を持っています。日本の仏教史の中では、まるで現在のイラクやアフガニスタンのように、武力で浄土真宗という、特定宗派以外の、別の仏教宗派に攻撃を仕掛けるというのは、これほどの規模のものは、きわめて異例ではと考えます。そうした行為は恐らく、興福寺周辺の土着の武家等、周りの人々を震撼させ、ひょっとすると、新しい将棋種をこの地で発生させる、原因になったのかもしれないと思います。このような特異なイベントには、玉将が世自在王に似た駒に成り、太子が駒名から逃げ出して、王子に交代してしまうような、独特の駒数多数の将棋を、ひょっとして奈良の地で生み出す原因になったのではないでしょうか。少なくともそのような動機づけはあるように思えました。はたしてどうでしょうね。
    最後に、本文に対するコメントを忘れていましたので書き込みます。興福寺周辺は、いわゆる大和猿楽の本拠地ですよね。なので、伎楽が大事にされるのは当然と思います。実際には逆で、伎楽が大切にされたので、それが大和猿楽を生んだのでしょうが。よって世阿弥等、室町時代の大和猿楽の大家は。たぶん伎楽にも詳しく、世阿弥による伎楽の普及は、少なくとも口頭では盛んに行われたのだろうと、私は予想しています。

  • #2

    長さん (火曜日, 20 1月 2015 15:47)

    私の場合、前に「摩訶大将棋、京都・曼殊院起源説」を取っていたため、上記文は私の既存の発言とは矛盾します、そこで元の論の方向で訂正します。
    「そうした行為は恐らく、興福寺周辺の土着の武家等、周りの人々を震撼させ、ひょっとすると、新しい将棋種をこの地で発生させる、原因になったのかもしれないと思います。」→
    「そうした行為は恐らく、興福寺周辺の土着の武家等、周りの人々を震撼させ、ひょっとすると新しい将棋種を、戦国時代の一向一揆による、奈良侵攻の伝承を受けた者の中から発生させる、原因になったのかもしれないと思います。」

    「独特の駒数多数の将棋を、ひょっとして奈良の地で生み出す原因になったのではないでしょうか。」→
    「独特の駒数多数の将棋を、ひょっとして奈良の土豪の中小鎮守神社(田原本町法貴寺別当池神社のような例)と勧進の歴史ゆえに、その時代にも人的繋がりのある、親神社(例えば京都の北野天満宮)あるいはその関連寺院(例えば曼殊院)の中で、生み出す原因になったのではないでしょうか。」