170)普通唱導集「仲人嗔猪之合腹」の解釈:仲人は横に動く part2

投稿169)からの続きです。摩訶大将棋と大将棋の仲人が横にも動くという論拠を、前稿にて1)と2)の2点を挙げています。本稿、3)、4)と続けます。


3)普通唱導集「仲人嗔猪之合腹」

大型将棋の盤面例がどのようなものだったかということを類推できる古文書の記述は、現状、普通唱導集(1300年ごろ成立)の中にしか見つかっていません。そこには、次のような記述があります。


反車香車之破耳 退飛車而取勝

仲人嗔猪之合腹 昇桂馬而支得


本稿で問題とするのは、「仲人嗔猪之合腹」の部分です。読み下し文「仲人、嗔猪の、腹を合わする」の意味は、仲人と嗔猪が横に並ぶという意味です。腹は駒の横側を指します(ちなみに、駒の前方は頭)。大将棋の盤面のようすが多少とも思い浮かぶわけですが、仲人と嗔猪がなぜ横に並ぶのか、この点をあとに続く桂馬の文章と関連させて、これまでもいくつかの解釈があるようです。たとえば、次の文献を参照下さい。


日本文化としての将棋、三元社、2002年発行

159ページに盤面の想定例があります。


ただし、上記文献中の盤面についての説明は、必ずしも納得のいくものではありません。なぜなら、仲人は前後に1目だけ動く駒として扱われているからです。ところが、前稿169)の1)と2)で示されるとおり、仲人が横にも動く駒だとすると、「仲人嗔猪之合腹」の意図は非常に明解です。つまり、仲人も嗔猪も両方とも横に動ける駒ですので、この2駒が横に並び、互いに支えるのはごく当然の陣形でしょう。この点の指摘は、2月のラウンドテーブルの折、近畿大学の山本先生から教えていただきました。


こうして、不明だった普通唱導集「仲人嗔猪之合腹」の意味と、仲人が前後だけでなく左右にも動く駒であるという事実が、ここで互いにきっちりと結びつくことになります。ちょうど仲人と嗔猪の駒のようです。


また、1592年に写本された象戯圖の記述が、1300年に書かれた本の記述を裏付けていたということから、象戯圖の信頼性の再確認ともなりました。象戯圖は、1443年の曼殊院の書物をきちんと引き継いでおり、その曼殊院の書物は、さらに150年遡った時代の将棋史まで細かな点を伝えていたわけです。


仲人が横に動くことの論拠の最後、4点目は、将棋の駒と動きとの間の一対一対応から来るものです。


4)象棊纂圖部類抄の土将と仲人

象棊纂圖部類抄には6種類の将棋が記載されていますが、それらの将棋が持つ大原則として、駒の名前が違えば動き方も違うという点があります。各将棋の中では、動きが同じ駒は存在しません。しかし、ただ1件例外があって、それが摩訶大将棋の仲人と土将の動きです。象棊纂圖部類抄では、ともに、前後に1目歩く駒ということになっています。


しかし、前稿169)から本稿のここまでで示したとおり、結局、仲人(前後左右に1目動く)と土将(前後に1目動く)は同じ動きではなかったわけです。したがって、将棋の大原則も崩されることはありませんでした。


ところで、仲人の動き、前後左右に1目という動き方は、かなり基本的で単純な動きではないでしょうか。しかし、この動きは、象棊纂圖部類抄の摩訶大将棋では、どの駒にも割り当てられていなかったのです。そもそも、このこと自体が不自然だったと言わざるを得ません。その代わりに、前後1目歩くという動きが、仲人と土将の2駒に割り当てられていました。大原則に従うなら、2駒のどちらかの動きが間違っているわけです。土将の動きが強力になるということは考えられませんので、残された選択肢としては、仲人が前後左右に1目という動き方だったという可能性のみです。


このように、象戯圖の大将棋の仲人に付けられた4個の朱点がなくとも、また、中将棋の仲人の注釈がなくとも、実は、仲人が前後左右に動くことは、十分に予測の範囲内です。前稿169)の論拠1)と2)は、この予測の確認、傍証とみてもいいでしょう。