177)大大将棋にも見られる摩訶大将棋の特徴:十二支の駒

本ブログでは、当初は、摩訶大将棋の復刻に関連する話題を主に取り上げてきました。ところが、考察を重ねていくうちに、ルールの復刻ということだけでなく、もっと他のいろいろな歴史が、将棋史の解読とともに見えてきた次第です。

 

たとえば、投稿174)にて、中将棋には猫又の動きをする駒がないことから、中将棋は大型将棋の起点となる将棋ではないだろうということを書きました。これは、単に、将棋をボードゲームとして見ての帰結です。ところで、中将棋が原初の大型将棋ではないことは、この点とは別に、いくつかの歴史的な視点からもわかることなのです。それは、これまで何度か投稿してきましたとおり、師子と狛犬の導入の件、十二支の駒の存在、仲人の動きが変更された点の解読、等々です。これらの傍証は、個々で見れば、多少のあいまいさがあったとしても、すべての傍証が同じ方向を向きます。どの観点から見ても同じ結論へと導かれるのです。本ブログの説でたぶん間違いないだろうと思う根拠はここにあります。将棋史が他のいくつかの歴史と矛盾なくリンクしており、導かれる時代推定は、どの場合でもほぼ一致しています。


大大将棋のことは、今まであまり触れてきませんでしたが、実はいろいろな歴史が見えます。ペルシアからの将棋伝来が見えるのが一番大きな点ではありますが、他にもいろいろとあります。もちろん、十二支の駒もあります。摩訶大将棋の玉将の行列の前で、狛犬舞と師子舞が舞っていたように、大大将棋にも同じような行列が見えています。以下、具体的に説明していきます。

 

まず、十二支の駒ですが、次のように見ることができるでしょう。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の順に並べています。摩訶大将棋と大大将棋の場合を対比させてみました。図1と図2には、初期配置での十二支の駒位置を示しています。


摩訶大将棋の場合             (未)

老鼠・猛牛・盲虎・驢馬・臥龍・蟠蛇・桂馬・盲熊・古猿・淮鶏・悪狼・嗔猪


大大将棋の場合  (卯)         (未)

老鼠・水牛・白虎・変狸・青龍・毒蛇・馬麟・変狐・盲猿・古鵄・悪狼・嗔猪

         猫又          猛熊

 

摩訶大将棋の十二支についてですが、これまでの投稿では、卯のところを、猫又(猫は東南アジアの卯に相当)と考えていましたが、本稿より変更し、卯は驢馬とします。馬には桂馬を充てました。字通では、驢:ウサギウマとあります。これまで気づきませんでしたが、驢馬は耳の長い馬であり、これが由来のようです。卯はこれで確定でしょう。将棋の駒としての驢馬には、多少の違和感をお持ちの方もおられたと思いますが、老鼠や淮鶏と同じく、十二支の駒としての存在だったわけです。残る未知の駒は、未のところだけで、まさに文字通りです。

図1.摩訶大将棋の十二支の駒.
図1.摩訶大将棋の十二支の駒.
図2.大大将棋の十二支の駒.
図2.大大将棋の十二支の駒.

大大将棋の十二支についてですが、卯と未が、今のところ、不明です。未のところに、摩訶大将棋と同じく、猛熊を充てるとしても、卯が見当たりません。しかし、12駒中10駒の対応であり、もはや十分な確度と考えます。ひとまず、卯と未には、変狸と変狐を充てました。実は、化けるのです。いかがでしょうか。古鵄の鵄は、字通では、とび、ふくろうとあります。ところで、十二支の駒の初期配置の対称性に注目下さい。図1、図2からわかりますように、摩訶大将棋、大大将棋ともに、きれいな対称的配置となっています。虎には選択の幅がありますが、対称性を意識することで、白虎と青龍に決まります。猛虎と青龍を選んだ場合、配置の対称性が崩れるからです。牛の駒の選択についても同様です。

 

ともあれ、摩訶大将棋の後に作られた大大将棋でも、再び、十二支の駒が使われていたことは間違いないでしょう。動物名の駒を多く取り入れていたら、偶然に十二支がほぼ揃ったということではありません。駒名は、十二支を意識して作られたということです。なぜなら、それらの駒の配置は、図1と図2のとおり、整然とした対称性を持つからです。また、十二支の駒は最下行には配置されないのです。「上は其の象を天文に観て、移すに日月星辰の度を以ってす」、象棊纂圖部類抄の序文のとおり、十二支は天に、つまり、上の方の行にあるわけです。


大型将棋が、純粋に遊戯であるなら、十二支の駒が現れることはなかったでしょう。十二支の駒は、将棋が遊戯だけには収まらない役割を持っていたからであり、将棋が呪術や、占いや、陰陽道や、神事に関連した何かであったことを意味します。これは、鳥羽上皇が12枚の将棋の駒で占いをしたという、長秋記の記述に残されているとおりなのです。


十二支の駒が使われていたのは、12世紀の前半です。この頃には、まだ、純粋に遊戯としての大型将棋はなかっただろうと考えます。摩訶大将棋や大大将棋が使われていた頃は、まだ前時代の大型将棋と言えるでしょう。次いで、十二支の駒の一部だけが含まれている大将棋が生まれました。これまでの投稿で何度も話題にしましたとおり、大将棋は摩訶大将棋から駒数を減らして作られた将棋ということになります。この頃が、純粋に遊戯としての将棋の始まりだったのではないでしょうか。大将棋からさらに駒数を減らして、中将棋が作られましたが、ここでようやく遊戯としての大型将棋の完成を見たということでしょう。14世紀のことになります。


長くなりました。別投稿として、続きを書きます。

 

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コメント: 7
  • #1

    mizo (木曜日, 17 12月 2015 22:44)

    》十二支の駒が使われていたのは、12世紀の前半です。この頃には、まだ、純粋に遊戯としての大型将棋はなかっただろうと考えます。

    遊戯ではない大型将棋というものが、私には想像がつきません。
    19×19の升目をきった盤に大量の五角形の将棋型の駒(漢字2文字、裏面にも文字があるものもある)を並べて占いや呪術が行われたのでしょうか?
    外国からの伝来ではなさそうですが、突如生まれたのでしょうか。
    史料・遺物はなくても、絶対なかったとは言えませんが…。

    ご研究中かもしれませんが、どのようなものから呪術的な大将棋?は創られたとお考えですか?

  • #2

    T_T (金曜日, 18 12月 2015 01:17)

    mizoさんへ
    コメントありがとうございます!

    本稿、神事や呪術であっただろう将棋が、具体的にどのような将棋だったかということまでは深入りしていません。この件、一度研究会の発表時に漏らしてみましたが、一同ポカーンとした感じになりましたので、論拠はまだ希薄なのでしょう。ですので、本ブログでの投稿も先送りしている次第です。

    ここでの論点は、まずその前段階を固めようというものです。それは、鳥羽上皇が占いに使ったという十二枚の駒、その「十二」に対しての深入りです。長秋記のここの記述は、十二支との結びつきから来た十二という考え方でほぼ異論なしではないでしょうか。十二支の駒があったということを裏付ける記述なのです。

    そして、当時の将棋には、その記述どおり十二支の駒が含まれています、というのが本稿の内容です。十二支の駒があるわけですから、当時でもある程度の駒数を持った大型将棋は存在していたのでしょう。実際、摩訶大将棋にも大大将棋にも、1枚あるいは2枚の不明があるとは言うものの、十二支の駒がほぼ揃っています。異なるふたつの将棋の中に別系統の十二支が見られるわけですから、これは偶然に揃ったわけではありません。揃えるべく仕組まれた将棋でしょう。

    当時の将棋もやはり遊戯ですが、一方で、占いという要素も持ち合わせていました。ですので、純粋な遊戯ではなかったという意味で、「純粋に遊戯としての大型将棋はなかっただろう」と表現しました。mizoさんが上のコメントで書かれています、「遊戯ではない大型将棋」というものは存在しないと思います。

    何よりも、将棋が神事であるためには、将棋は遊戯である必要があります。遊戯ではない将棋を、神事に使うことはあり得ません。それは、当時の他のいろいろな遊戯が神事であったことと同様でしょう。このことを、逆に、時代考証的に使うことができるのかも知れません。神事でもあった大型将棋は平安時代のものであるというふうにです。

    神事を離れて純粋に遊戯となった将棋、それはどういう将棋だったか。十二支の駒の不在というのがその答えではないでしょうか。つまり、知られている大型将棋の中で言えば、大将棋です。大将棋には、十二支の駒の半分だけが含まれています。この大将棋からが、純粋に遊戯としての将棋の始まりと見ました。

  • #3

    mizo (金曜日, 18 12月 2015 02:22)

    》鳥羽上皇が占いに使ったという十二枚の駒、その「十二」に対しての深入りです。長秋記のここの記述は、十二支との結びつきから来た十二という考え方でほぼ異論なしではないでしょうか。十二支の駒があったということを裏付ける記述なのです。

    ここの部分、私には論理の飛躍がある気がします。『長秋記』には「十二」と書いてあるだけです。「十二支」とは書いてありません。

  • #4

    T_T (土曜日, 19 12月 2015 00:40)

    mizoさんへ
    コメント(#3)ありがとうございます!

    「論理の飛躍がある」とのご指摘ですが、なぜそう思われるのか、私には見当がつきません。この点、逆にお尋ねしたく思います。

    もし長秋記に「十二支」と明記されていたとしましょう。mizoさんは、そこでようやく、十二支の駒で占いをしたと認めると、そういうことなのでしょうか?

    十二支と書いてあるから十二支だというのであれば、そんなことは誰にとっても明らかで、論点にさえなりません。「十二」という語句から「十二支」を見通す考察のプロセスが、古文書の解読だと考えます。「十二」と書いてあるだけです、「十二支」とは書いてありません、と言われましても、何を反論の根拠とされているのかがわかりません。

    長秋記の問題の箇所ですが、「十二」だけが出てきているわけではなく、「院(=上皇)」が「占い」をしたという記述も合わさって、考察の材料となっています。これらの点だけでも、「十二」が「十二支」を想起させるに十分ですが、さらに、その上で、摩訶大将棋の中にも、大大将棋の中にも、十二支の駒が見つかっているわけです(本稿、この点が論点でした)。

    十二支は単純な言い方をしますと、陰陽道のアイテムであり、平安時代の占いと直結していたことでしょう。長秋記と摩訶大将棋の同時代性もあります。遊戯が占いやお祈りに用いられていた時代だということもあります。単に、「十二」=「十二支」というのではなく、いろいろな点を総合した帰結とお考え下さい。「十二枚の駒」を「十二支の駒」とする見方が妥当だと考えます。

    「十二」を「十二支」だと考えるべきではないとする、何か積極的な理由があるのでしょうか?

  • #5

    mizo (土曜日, 19 12月 2015 21:52)

    》逆にお尋ねしたく思います。

    以下私の考えです。
    源師時の「長秋記」の大治4年(1129年)5月20日の条に、次の記述があります。
    大治四年五月廿日丁酉、新院御方有覆物御占、覆以將棊馬、其數十二也、…

    「其の數十二也」とありますから、使用した「將棊馬」の枚数の説明と考えるのが普通だと思います。
    勿論、十二枚が十二支を表す別々の駒であったというお考えも成り立ちますが、十二枚の内容について別の考えも成り立つと私は考えます。

  • #6

    T_T (火曜日, 22 12月 2015 01:50)

    mizoさんへ
    コメント(#5)ありがとうございます!

    ですが、#3のコメントとほぼ同じ印象を受けます。
    「其數十二也」なので、駒の枚数の説明であるということですが、それでは、漢文を現代訳しただけということになります。それだけで検討が終了になるような記述ではありません。

    まず、考えるべきは、占いに用いた枚数が十二枚だと明記されている点です。これは、十二という駒数が重要な意味を持つからです。使った駒の枚数を単に書き留めたわけではありません。

    このことは、用いた占いの種類とも関連しています。占いは、覆物、つまり、易占の射覆(せきふ)です。断易だとすれば、十二支が前面に現れることはごく自然でしょう。この十二支の配当に、将棋の十二支の駒を使ったという類推も妥当な解釈です。

    その上で、当時の大型将棋に十二支の駒が揃っていたという点が、かぶってきます。こういうふうに、何重もの十二がかぶっているのに、それを、単に十二枚です、それだけのことですと、お考えなのでしょうか。

    長秋記の記述は、ある日、鳥羽上皇が戯れに占いをしましたという、そういうどうでもいい記録ではありません。占いは本気の占いだっただろうと私は想像しますが、もしそうでいとしても、儀式色の濃い行事だっただろうと思います。

  • #7

    mizo (火曜日, 22 12月 2015 05:46)

    》使った駒の枚数を単に書き留めたわけではありません。

    私には、そう考えられる理由がわかりませんが、水掛け論だと思います。

    》易占の射覆(せきふ)です。

    覆って見えなくしたものを神秘的な能力で当てるというだけの話ではないのですか。

    》当時の大型将棋に十二支の駒が揃っていたという点が

    循環論法に陥っている気がします。当時十二支の駒がある大型将棋があったということの証拠として『長秋記』の記事を出されたのではないですか。