20)奔獏の駒と土御門天皇

これまでに出土した13世紀以前の駒の中で、大将棋に固有の駒は、鳳凰(鎌倉の鶴岡八幡宮)と飛龍(平泉)の2枚だけだったと思います。出土した場所は、どちらも、時の権力者の土地です。では、問題の奔獏かもの駒が出土した川西遺跡は歴史的にどのような場所だったでしょう。先日の高松出張の折、帰りは川西遺跡にも寄りました。低い山あいの中、空が大きく広がっていました。

 

川西遺跡に関する報告集の文面では、鎌倉時代初頭の瓦が出土しているとのことです(瓦を使用していたすれば、この時代では、かなり高貴な人物がいる建物だった可能性あり)。また、川沿いに石積みの護岸施設もあったらしく(これまでに発見された河川の護岸施設では日本最古らしいです)、船着き場として使われていたと考えられています。

 

11)の投稿では、土御門天皇のことを書きました。土御門天皇は阿波の国、川西の、この瓦葺きの屋敷を住居としていたのかどうか。

 

たとえば、15)の投稿にて引用の大下氏の文献(3ページ目~4ページ目:明月記からの引用)では、1199年5月10日から5月20日の間に4回の将棋の記述があります。このとき、土御門天皇は4歳、すでに在位中です(在位期間:1998年~1210年)。幼少の頃から周辺には将棋をする環境があり、おそらく自然と将棋を好むようになったものと思われます。

 

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コメント: 4
  • #1

    長さん (火曜日, 17 4月 2012 10:51)

    鶴岡八幡宮出土駒は、鳳凰と香車と歩兵と認識しています。
    裏今金の歩兵はどの将棋か、特定困難ですが、香車は裏が
    不鮮明で、金や白駒とは確定しておらず、謎が残るので、
    駒数多数将棋の疑いのある出土駒へ入れてはどうでしょうか。
    なお、栃木県小山市神鳥谷(ひととのや)曲輪(くるわ)駒
    (JR小山駅と間々田駅の間の西線路脇遺跡駒)は14世紀
    とやや新しいですが、表角行裏「 ^ 」は、発掘報告書にも
    記載され、裏が「馬でない」は、ほぼ確定していると個人的に
    見ています。最後のも、日本将棋や近代の中将棋では無いよう
    ですね。(尚この駒は西暦1354?~1382生存の現地の
    御姫様を将棋駒が象徴していて、没後、尼寺で、弔いの道具に
    なっていた疑いがあり、現代的な科学的年代測定を待たずに、
    使われた年代、使った人間層:小山義政と隆政等息子?:が、
    そのうち完全に確定してしまう可能性もありえます。)

  • #2

    溝口和彦 (水曜日, 18 4月 2012 00:26)

    コメントへのコメントですが、「長さん」にお伺いしたいことがあります。
    小山市の駒は、弔いの道具になっていた疑いがあるとのことですが、それについての文献などがあるのでしょうか。櫛や小さな下駄が同時に出土していますが、カワラケ、箸、曲物なども大量に出土しているので不要なものを埋めたように思えます。個人的には、女性と将棋のつながりはあまりないと思っていたので意外でした。
    知識不足で初歩的な質問かもしれませんが、お教えくださると幸いです。また、高見先生のブログに勝手に書き込みご迷惑かもしれませんが、先生も関心がおありではないかと思います。

  • #3

    長さん (水曜日, 18 4月 2012 09:49)

     文献名を知りませんが、江戸時代の日光街道小山宿の旅行記に、
    発掘地点がまさに「昔は尼寺の青蓮寺」の記載があるそうです。
    青蓮寺自体は、発掘調査書にも名が出てきますよ。江戸時代末期
    には、男の住職の居た、真言律教系の寺だとみられます。今は廃寺。
    文献は有りませんが、事実として青蓮寺は、ここから至近の、今も
    ある寺、奈良の弓削の道鏡開祖のたしか真言宗の寺、持宝寺の末寺
    (関連寺)と伝わっており、この事も確実。
     結局この廃尼寺、奈良県の中将姫の当麻寺のコピーとしか、
    考えようもないんですね。持宝寺を室町時代前期に整備したのが、
    世阿弥と、能の「桜川」で繋がりのある、足利持氏のようです
    から。
     で、発掘品でありきたりのカワラケや箸を全部除いて、8号井戸
    跡で出た、この井戸跡でしか出てない特異な品を見直してみると、
    将棋駒、左三つ巴の紋が一つだけ確認できる手火鉢の破片、サイ
    ズが女物の下駄、櫛の破片の4点セットがあるわけです。現時点
    で文献に指摘は全く無いのですが、この4点のうち、後の3点、
    小山城の曲輪を守る男の兵士が、一般的に所持するのでしょうか?
     中将姫が死んだので、先達様の遺品として尼寺・青蓮寺に陳列し
    ておいていたとすれば、どうみてもぴったりでは。どうでしょ
    うか。ただし、ここの中将姫様、奈良の方と違い、藤原貴族の
    流れの女で、数え29歳で死んだという点ではいっしょだったん
    ですが、中将姫伝説の中将姫ではなくて、他の方をなぞらえたもの
    なので、将棋の駒が弔い対象なのですね。この小山版中将姫は、
    左三つ巴の家紋の家の出の方で、合戦のとき、争っている
    双方の、どっちに付くと勝ち組になるのか、判断に関し、小山
    では権威のある家、八田・宇都宮家の出とみれば、話が合います。
    この中将姫を拝んだのは、小山義政の乱で小山義政を討伐した、
    敵方討伐隊の下級武士でしょう。
     今のなまぐさ坊主といっしょで、小山義政の妻・小山よし姫の、
    おだて・そそのかしがたくみで、「頭の足利氏満など、たいした
    事が無く、家来のあんたらの活躍あってこそダンナが負けた。」と
    言いふらして、お布施を集めていたのが見え見えだと思うんですが
    どうでしょうねぇ。
     ただし、この姫様、只者ではなくて、実は宇都宮の出だったので、
    だんなが負けて落ちぶれたので、お布施ほしさのそのそそのかしが、
    ただの冗談ですまなかったのですね。討伐隊の家来が、姫様の言に
    驚いた、結城から迎えられた新制小山の殿様(小山泰朝)によって、
    以降、小山城の門番等としてお抱えになり、生活が安定したので、
    ありがたがって、本名を伏せながらずっと拝まれた、これでぴたり
    です。
    先祖がその門番らしい、それらしい旧家(大正時代・小山町町長を
    していたらしい)も、小山市内に発見されているようですしね。

  • #4

    長さん (月曜日, 22 12月 2014 15:38)

    付記
    ↑で冒頭の「江戸時代の日光街道小山宿の旅行記」は、「日光道中略記」です。