2012年

3月

10日

11)大大将棋の駒「奔獏」が出土した可能性について

 奔獏の駒が出土したという報道はこれまでにありません。ただ、「本横」という駒が、徳島市の川西遺跡にて出土したという報道が3年前にありました(2009年3月13日:徳島県埋蔵文化財センター発表)。13世紀の駒らしいです。駒の写真も公開されています。

 

 写真を見ますと、「本」の字と思われている部分は「奔」と見れないこともなく、「横」の部分は確かに横なのですが、これを「獏」の書き違えと見ればどうでしょうか、というのが本稿の提案です。そうすると、奔獏の駒が出土したことになります。本横に対していくつかの解釈が発表されていますが、本横が文献にない以上、話しは広がりを持ちません。

 

 ところで、象棋六種之図式(江戸時代後期?)には、次のような記述があります。

 

・・(前略)・・、余たまたま一巻を得てこれを見るに伝写の誤り少なからず、或いは古鵄を右鵄につくり、或いは奔獏を奔横に誤るの類なり、・・(後略)・・

 

かつて存在した古文書に、奔獏が奔横になっていたものがあったようです。というわけで、徳島で出土した駒を、奔獏と見てもよい多少の根拠もでてきました。

 

 奔獏が13世紀の駒として出土したとすれば、話は面白くなります。奔獏は大大将棋か泰将棋の駒ですので、この時期、すでに摩訶大将棋が成立していたことが確定します。台記や明月記に書かれている大将棋が、摩訶大将棋である可能性もでてきました。

 

 なぜ、大大将棋の駒が、徳島(阿波の国)で見つかったのか。これは、将棋という遊びが京都から徐々に広がっていったというよりは、たぶん、承久の乱(1221年)の後、土佐から阿波へと移った土御門天皇によりもたらされたものでは、と想像しています。土御門天皇が阿波の国に滞在したのは1223年~1231年の9年間、この時期に奔獏の駒が使われ、大大将棋が指されていたかも知れません。いまだ中将棋は現れておらず、文献に中将棋が現れるのはこれより200年先のことになります。

 

 本ブログの10)稿に、将棋の成立順について書きましたが、大将棋が分岐点となって、将棋は中将棋と摩訶大将棋/大大将棋へと分かれます。それぞれの将棋が目指すところは、同じではなかっただろうと考えており、なぜなら、その様子が古文書の記述に一部見え隠れしているからです。次稿はこの件について書くことにします。

 

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コメント: 2
  • #1

    溝口和彦 (日曜日, 11 3月 2012 07:24)

    「本横」≒「奔貘」は文字の面では可能性がありますね。
    ただ、そうするとご指摘のように、最低5種類の将棋が13世紀にあったことになります。個人的にはおもしろすぎる説と感じました。17世紀までの大将棋を指したという記録はいくつかあるのに、「大将棋」「摩訶大大将棋」「大大将棋」の区別がないからです。

    「本横」≒「奔王」(音が同じ)定説、増川先生のご意見。
    私見では、「王」より画数が多い「横」を使うのが難点
    「奔横」=「奔車」+「横行」⇒「飛車」
    私の考え、ブログ「日本将棋成立の謎」(tamago915)でコメントしました。「飛車」が創られるまでのミッシングリンク。

  • #2

    長さん (月曜日, 12 3月 2012 11:49)

    言われて気が付いたのですが、猛獏とか吼獏とか竪獏とか走獏とか、他に獏
    の付く駒、大局将棋の大獏以外、他には多種は無いのも不思議ですね。
    獏という動物、日本ではマイナーだったんでしょうかね。それと、間違い字
    の駒って、そういえばあんまり出土したっている話が無いのも、根本的に
    不思議ですね。そういう駒を作ってしまった場合、縁起が悪いので、その場
    で燃やす習慣でも、我が国にはかつて有ったんでしょうかねぇ。