2013年

10月

25日

70)興福寺で出土の酔象:伝来当初の駒かも?

旧興福寺跡でついに酔象の駒が出土されたようです。奈良県庁の東側、バスターミナルの工事予定地からです。こういう公共工事がない限り、発掘は許可されません。どこでも好きに発掘調査ができるなら、将棋の駒はもっと日本中からざくざくでしょう。今回また「酔象」が出たということで、以前に出土の「酔象?」の字の練習書き木簡と合わせて、平安時代の酔象は確実となりました。


将棋の歴史を調べるようになってから、出土駒の報道に接したのは、今回がはじめての経験です。いいですね、リアルタイムは。今日の新聞各紙はひととおり読みましたが、記者の中に将棋の歴史ファンはいないということなのでしょう、あまりいい報道ではないように思います。


原初の将棋(二中歴の将棋よりも以前の将棋)では、敵の玉将に相当する駒は「酔象」だったという説が、すでに提出されています。将棋の歴史を始めてからまだ長くない私が知っていますので、多くの方がたぶんご存知かと思います。ところが、報道は、朝倉将棋(玉将の前に酔象)や、大将棋(玉将の前に酔象)、中将棋(玉将の横に酔象)と関連させての言及ばかりです。


むしろ、原初の将棋の酔象が出土した、と考える方が自然に思えます。二中歴の将棋は、今回の酔象の時代より100年以上あとですから、この間に、敵の酔象はなくなって、どちらも玉将になったという筋書きです。そもそも、伝来元と考えられる中国のシャンチーは、敵味方の駒の名前が違っています。


酔象が、大将棋以降で、なぜ玉将相当の駒の名前として存在したのかというと、それは、もともと酔象が玉将相当の駒だったから、という考え方です。いかがでしょうか?


二中歴よりも前の、原初の将棋では、
敵 陣は、香桂銀金酔金銀桂香
こちらは、香桂銀金玉金銀桂香
という配置だったと考えるわけですが、もっと想像をふくらましてもいいかも知れません。


以下、全く、根拠のない物語となりますが、
原初の敵陣は、シャンチーのように、駒の名前が全部違っていたとして、
大将棋の駒、飛龍、盲虎、猛豹、猫刄を持ってくるなら、


猫又・猛豹・盲虎・飛龍・酔象・飛龍・盲虎・猛豹・猫又


と並んでいたかも知れません。こちら側は、玉将・金将・銀将ですから、
つまり、人間対動物という構図です。


ところで、今回、現地説明会はないそうです。今回は南半分の調査ですが、次は北半分の調査が始まります。飛龍とか、盲虎とか、猛豹とか、出てこないでしょうか。北側の調査、とても楽しみです。

ただ、確率的には、可能性はかなり小さいです。前回の15駒(1058年)と今回の3駒(1098年)を合わせて、玉将3、酔象1、金将4、銀将1、桂馬2、歩兵7駒、と分布しています。敵陣に飛龍や盲虎がいたとすれば、すでに1個ぐらいはでているでしょうから。


それよりも、酔象という字に注目です。前回の木簡でも、今回の駒でも、報道では、「酔象」と読んでいますが、私には、酔象とはあまり読めません。「酔象」という先入観で読めば、駒で一番近いのは酔象かも知れませんが。北側にもっとはっきりした駒が埋まっていることを期待しています。

 
長くなりますが、もう1点、ありました。今回の出土で、酔象が不成りだったというのが、かなり重要です。二中歴の将棋では、玉将と金将は不成りで、それ以外は金将成りですが、このことからも、酔象は玉将相当ということになります。上述しました原初の将棋配置で、酔象の横に飛龍を想定したのは、酔象以外が全部、飛龍に成ることを考えたからです。平泉の表裏飛龍の駒を思い浮かべた次第です。

 

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コメント: 10
  • #1

    mizo (土曜日, 26 10月 2013 08:33)

    原初の将棋(二中歴の将棋よりも以前の将棋)では、敵の玉将に相当する駒は「酔象」だったという説が、すでに提出されています。
    ←この説について、どのようなものか教えていただけないでしょうか。
    もしそうだとすると、動きは「玉将」と同じであったものが、その後弱くなったということになりますね。

    また、敵味方で駒の名称が違うのは、日本の将棋としては、違和感があります。王将/玉将説は近代の物です。
    なお、シャンチーは日本の将棋の伝来元ではないというのが通説だと思います。影響を与えた可能性はあると思いますが…。
    見た目では、「酔」ではなく「醉」のようですね。

  • #2

    T_T (土曜日, 26 10月 2013 22:17)

    mizoさんへ
    コメントありがとうございます!

    原初の将棋では、「敵の玉将が酔象だった」という説ですが、文面どおりの内容でこれ以外はありません。どこかで読んだか、何らかのミーティングのときに聞いたか、メールのやり取りの中で知ったか、というあたりだろうと、いろいろ思い出して探してみたのですが、見つかりません。

    ずっと思い違いしていたかもです。誰かの仮説と思ってましたが、もしかすると、私自身が言い出した話の可能性も。。。
    酔っぱらったような話ですいません!
    お恥ずかしい限り。説が出てきた経緯をきちんと思い出せません。どなたかの仮説である可能性も大きいと思いますので、類似の文面がどこかに書かれていましたら、何かの機会にお教え下さいませ。

    当初の酔象の動きは、玉将と同じだっただろうと考えています。同じように、横行、飛龍、桂馬、猛虎の駒の動きもその後、変わっています(桂馬の動きの件、異議お持ちかと思いますが、、、)。ですので、平安時代の酔象の動きが違っていたとしてもあまり不自然ではありません。

    シャンチーの歴史がどうなのかにもよりますが(何しろ中国は広く、1種のシャンチーなのかどうか)、伝来してきたシャンチーの玉将相当駒が敵味方で違うなら、原初の将棋は違っていたということで問題ないように考えています。

    二中歴(平安酔象の駒より100年後)の記述に信頼を置くという立場に立ちますと、二中歴にない駒がすでにあったと考えるよりは、二中歴の時代にはすでになくなっていた駒と考える方が自然です。なくなった理由はともかくとして、この線で話を進めますと、次のA案、B案で、B案がもっともらしく思えます。
    A案:玉将の上に酔象があり、その酔象がなくなった
    B案:玉将相当駒が、敵味方とも玉将になった(敵の酔象も玉将に変わった)

    主流の将棋からいったん消えた酔象は、その後(13世紀前半と推定)、大将棋に取り込まれるわけですが、何しろ、かつての玉将ですので、現状のポジションになったのでしょう。

    ところで、将棋の伝来ですが、どちらかと言えば、中国からの伝来説が多数派だと思っていました。もちろん、結論はまだまだでない状況ですが、「中国からの伝来ではない」が通説とは思いにくいです。個人的には、次の文献が最も新しく、かつきちんとした解説であり、信頼しています。

    清水康二、2013、「将棋伝来再考」、橿原考古学研究所紀要 考古学論攷 第36冊

    この論文では、中国からの伝来説を取っています。

  • #3

    mizo (土曜日, 26 10月 2013 23:42)

    誤解されているようなので…。
    中国伝来説=シャンチー伝来説は少数だと思います。シャンチーと日本の将棋の差異は大きく、シャンチーが最初に伝来したとすれば、朝鮮や沖縄、ベトナムのように、その変形になったと思われるからです。
    中国には複数の系統の違う将棋類がかつて存在し、「そのうちのシャンチーではない系列が日本に伝来した」というのが私の考えで、多くの人の考えだと思います。その後、中国ではシャンチーが他の将棋類を駆逐したという考えです。私は「玄怪録」がその証拠になると考えています。

  • #4

    T_T (日曜日, 27 10月 2013 00:39)

    そうでしょうか?
    玄怪録が証拠だとしますと、むしろ、日本の将棋にかなり近く、中国伝来説(玄怪録が伝来)になるのではと思うのですが。それと、シャンチーが伝来したとして、その後、独自の発展を見せるわけですから、将棋がシャンチーと似ていないことが、シャンチー伝来でないという結論にならないように思うのですが。

    中国にあった将棋類のうち、シャンチーではない系列が日本に伝来した、という説ですが、この説を根拠だてている文献やWebサイトの論説はあるのでしょうか。

    上記しました、将棋伝来再考は、18ページの論文で、なかなか反論もむずかしいと思います。現状の出土品と文献からは、当面は、将棋伝来再考の結論に落ち着くだろうと、個人的には考えています。

  • #5

    T_T (日曜日, 27 10月 2013 12:42)

    本投稿の内容、一部がいいかげんな記述となっていまして、大変お恥ずかしい限りです。投稿しました玉将-酔象の話しですが、本ブログの中で、私自身が去年の9月に取り上げていたものでした。摩訶大将棋とはあまり関連のない内容であり、言いっぱなしであまり気にも留めてませんでしたので、他のどなたかの意見だと思っていました。このときにも、mizoさんとは、コメントの交換をしています。そもそも宝応象戯の物語は、かなり以前、京都でワークショップを開きました折、mizoさんから教えていただきました。いろいろなつかしく思い出しました。

    以前のブログ(摩訶大将棋のブログ 01)のリンクの中の、投稿27)です。ここに同じ内容の投稿をしていました。すっかり忘れていました。タイトルは、次のとおりです。

    27)宝応象戯の伝来仮説と習書木簡の酔象

    この頃、実際の酔象の木簡を見たくて、橿原神宮の近くにある、橿原考古学研究所の博物館を訪ねました。この頃は、もし酔象があったとしたら、ということで考えをめぐらしていました。将棋が「物」として伝わったのではなく、「物語」として伝わったとしたら、そういう伝来の仕方もいいなあ、ということを空想していました。

    研究所の方に、木簡の酔象の赤外線写真の閲覧をお願いしていましたが、忙しいまま1年がすぎ、まだご訪問できずにいます。ご用意いただいていますのに、申し訳ございません!

  • #6

    mizo (日曜日, 27 10月 2013 12:49)

    玄怪録についての私の見方を補足します。
    私は「宝応将棋」という物が存在し、玄怪録の記述はそれを表しているという意見に懐疑的です。(少数意見かもしれません)
    玄怪録はあくまで怪奇譚で、奇っ怪なことが起きたがそれは地下の墓場の将棋類の駒の仕業であったという話だと思います。
    これから、当時の中国には将棋類が普及していたので、読者の共感が得られたことがわかります。
    内容を見ると、逃げ城を思わせる記載など、単純に一つの将棋(宝応将棋?)を前提としているとは思えません。
    私は、当時の中国には複数の将棋類が流行しており、作者は読者に気づかれないようにつまみ食いをした記述をあえて行い、最後のオチでなるほどと納得させたかったと思います。
    この考えと同じ考えは残念ながら他では見たことがありません。
    増川先生の「将棋の歴史」平凡社新書で、シャンチー伝来説を否定される中で、東南アジアからの直接伝来ではなく中国沿岸を経ての伝来を暗示されていると思います。

  • #7

    長さん (月曜日, 28 10月 2013 14:58)

     発見は川西駒以来の快挙ですね。出土駒の画像ですが。
    ”酔”は読めましたが下の”象”は、正直私には読めませんでした。
    草書の”象”なのでしょうかね。
     これだけ出土例が増えると、酔象は小将棋系の道具である事が、
    他のエキゾチック駒が、11世紀の興福寺遺跡から出ない所からみて、
    確率的に確からしくなってきたと私にも思えました。ごく初期の
    小将棋に、少なくとも酔象駒が有ったんですね。
    玉将の1枚へ、それが後に変化したというのも、一応有りえるかと
    私は思います。
    他には小将棋では2段目がスカスカなんで、ひよっとして、朝倉小将棋で
    飛車、角行なしの将棋が一時期指されたんでしょうかねぇ。新聞の
    古作登氏の「日本の将棋としての進化の始まり」というコメントも、
    この場合は、朝倉小将棋と同じ置き方の酔象有り小将棋ゲームが
    有ったという意味の、たぶん発言なんでしょうね。
     小将棋から、江戸時代に盛んに文献に記された「後期大将
    棋」、更には摩訶大将棋への進化の萌芽(「玉将の直ぐ前に置く酔象」
    の始まり)という意味で、案外的を得ているかもしれないコメント
    と思いました。いろいろな将棋を作成してみるという、中国の宋の時代
    の試みのマネ(?)は、平安時代、原始将棋が輸入されると直ぐに
    始まった事を示すのかもと思います。
    だとすると、鎌倉時代初期の二中歴の大将棋では、どういう経緯で
    それが「横行」に、一時期(?)置き換わったんでしようかねぇ。

  • #8

    mizo (火曜日, 29 10月 2013 07:41)

    >7
    鎌倉時代初期の二中歴の大将棋では、どういう経緯でそれが「横行」に、一時期(?)置き換わったんでしようかねぇ。

    「玉将」の上に「酔象」がある小将棋。私は「二中歴将棋」との区別のため「興福寺将棋」とよんだことがあります。(両者とも平安時代に存在)
    「二中歴大将棋」は「二中歴将棋」を貴族向けに発展させた物であり、「興福寺将棋」とは直接の関係がなかったためだと思います。
    なお、「二中歴大将棋」の「横行」の位置は、「玉将」の一つ上だったと思います。歩兵は4列目です。

  • #9

    長さん (火曜日, 29 10月 2013 08:23)

    ↑なるほど。
    「新説平安大将棋」で、玉と同じ列の2段目に、酔象の有るものも
    ひよっとして指されたのかもしれませんね。「新説平安大将棋」の
    ケースも、初期配列で、玉将の頭が何となく寒いですし。

  • #10

    長さん (火曜日, 29 10月 2013 10:53)

    なお、仏教用語で醉像は、提婆達多が、インドの古代王アジャータシャトル
    をそそのかして、釈迦を殺すために放った、荒ぶる心の意味だそうですね。
    玉将の玉を、興福寺の平安時代の僧の思考感覚で、釈迦の心とでもすれば、
    もし酔象が、一方の玉駒とすれば、善と悪の戦いを模したゲームなので
    しょうかね。まあ普通は。善が戦争を仕掛けるのは、やや不自然なので
    しょうから。玉駒が一方が玉将、他方が酔象のゲームでは、酔象側が
    ひょっとして先手、玉将側が後手と決まっていたのでしょうかね。
    関連して、どうぶつ将棋の類で、日光神戦将棋というのがありますね。
    そのゲームでは、玉駒がムカデとリュウ(大蛇)で、違っているのです
    が。これとパターンが同じ。現行では日光神戦将棋の場合、先手後手は
    決まっていないそうですが、企画関係者の栃木県日光市の方に、
    「伝説に基づいて、ムカデを先手にしては。」と、
    当方が、口頭で提案した事があったのを思い出せます。
    また、それとは別に。将棋の駒に、仏教関係者の近くに居る将棋指しが
    提婆達多に関連する駒を加えたとすれば、「提婆」という江戸時代
    以前の将棋では、摩訶大将棋に使われているのが判っているだけの名前の
    駒が、将棋の駒として加えられる下地は、既に平安時代に有ったことに
    なるのかもしれませんねぇ。