2014年

5月

27日

90)アジアの将棋の歴史に関する研究会

今月5月のはじめ、大阪商業大学アミューズメント産業研究所で、アジアの将棋の歴史と伝承遊戯に関する研究会に参加してきました(きちんとした研究会名は、また次の投稿のときにでも書きたいと思います。手元に当日の資料が見当たりませんので)。

 

ひとつのテーマとしては、将棋はどこからやってきたのか、ということを研究するプロジェクトで、私は傍観者的な参加という感じでしたが、そういう立場とは裏腹に、面白い研究会となりました。Sさんの言われるように、海は重要かも知れません。研究会のときには、それほど強くは思わなかったのですが、その後いろいろと文献を読んでみて、知らなかったいろいろなことがわかり、陸だけじゃなくて、古代も中世も海にもっと注目すべしと思いました。

 

5月は魏志倭人伝はじめその他いろいろ読んでいます。魏志倭人伝は象棊纂圖部類抄ほどではありませんが、とても面白い文献です。読んでいる人がすごく多く、かつ、いろいろな意見があって、そして、正しいのはもちろんその中のひとつだけですから(まだ正しい説が出ていない可能性もありますが)、この点、魅力です。

 

5月のほぼ3週間だけの感想ではありますが、中国の将棋シャンチーが、朝鮮半島で止まってしまったのが何となくわかったような気でいます。クメール王朝の将棋が、もしダイレクトに伝搬してきたとしてもあまりおかしくはないのかも知れません。ただ、これに関してのいろいろな件、あまり的外れなく投稿できるようになるのは、あと1年は先のことでしょう。思えば、摩訶大将棋のことも、ブログの最初のうちは、いろいろと思い違いがありました。


 

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コメント: 5
  • #1

    長さん (水曜日, 28 5月 2014 08:11)

    以下私的意見ですが。日本将棋は、南方の将棋の要素を取り込んでいるというのが大ヒントであって、伝来光景が私には目に浮かぶような気がします。
    日本に原始平安小将棋を伝えたのは、当時のベトナム(越南)将棋を持ってきた、宋時代の中国人廻船問屋商人で、西暦1015年の頃でしょうかねぇ~。来年あたり、将棋伝承1000年祭でもしたらどうかと、私見していますが。もともと中国使節団商人にとって、「価格ぼったくり立体駒」を売りつける相手は、藤原道長の一族だったんでしょう。貢物に1セット、藤原道長に献上して、ご機嫌取りをしたのか?。そのワンセットを、大宰府の小役人が、羨望のまなざしで見ていたとしたら・・・。なお九州からシャンチーの駒は出土してますから、日本に中国象棋も伝わってはいるんですね。でもなぜか、日本じゃ流行らなかった。ゲームとして洗練されていようがいまいが、当時の藤原道長気分に浸った方が、大宰府あたりの下級役人にとっちゃ、楽しかったんじゃないんですかね。立体駒の代わりに、五角形の書物の貸出札あたりで、実際のゲームのときには我慢していたとしても。

  • #2

    mizo (水曜日, 28 5月 2014 22:26)

    日本将棋の伝来のお話とあれば、私も一言

    長さん(さま)
    将棋伝承1000年祭の発想は素晴らしいですね。目から鱗でした。
    ところで、
    「当時のベトナム(越南)将棋」というのは、どのような将棋ですか?
    日本において、立体駒の出土例、存在を示す史料はないと思いますが、いかがでしょうか?
    お教えくださると幸いです。

    高見 さま
    「アジアの将棋の歴史と伝承遊戯に関する研究会」うらやましいです。続報を強くお願いいたします。

  • #3

    T_T (木曜日, 29 5月 2014 00:20)

    長さんへ
    1015年というのは、何があったときなんでしょう?
    北宋からクジャクが届いた年ですが、このときに、将棋も来たということなんでしょうか。
    たぶん、次の文献の中に答えがあるのでしょうが、まだ手元にありません。
    解明:将棋伝来の『謎』―一条帝宮廷サロン将棋発祥説の開陳―

    mizoさんへ
    このブログでは、具体的な話はちょっと無理な感じです。今月の研究会では1件すごい発見の話しを聞きましたが、それは、発見された方がまずどこかに公開してからということになります。この件またお会いしたときに直接聞いていただけたらと。。。次回は8月上旬、次々回は10月上旬です。

  • #4

    長さん (木曜日, 29 5月 2014 09:11)

    mizoさんへ。どちらも根拠となる資料無いですよ。状況からの類推ですね。少なくとも私には、現存する国内外資料に関する知識は無いですね。前者は当時越南にはタイ人がおりましたから、マークルックないし、その原型、ひょっとすると、そのローカルルールゲーム、の何れかが、現地で指された事は、確かでしようが。ちなみにここでは、原始平安小将棋=当時のベトナム将棋のつもりで書いてます。(当時の日本人の理解が正しければ。) また、この時代の立体駒は出土してませんね。藤原一族の書いた日記等の記録としての話も、私は聞いていません。大宰府からも記録・現物出土は無いですね。少なくとも私の感覚からすると、チェスのような外観の、私が上で献上品として表現した立体駒は、「高すぎるので、貰えるなら貰うが、買ってまでは。」という商品だったのではないでしょうか?。日本に輸入された立体駒将棋のセットの数は、大したことがないんでしょうね。そしてその少ない例の輸入品に関して、大宰府等の公的記録に無いのは、たまたま藤原一族の誰かの、私的貿易での取引品だったから。また藤原道長の日記等、貴族の日記に記録が無いのは、「ゲームとしては難が有る」という情報が、既に西暦1015年のこの時点で藤原道長等にも知れており、贈られると同時に、土御門殿の床の間の飾り物の一つでしか無くなっていたため、関心も向けられなくなっていた。以上の程度で、説明ができるような気もします。なお「『ゲームとして難のある原始平安小将棋指し手の象徴の一族』と、藤原家が見られるのは気に食わない→藤原道長の一族の子孫は、そのイメージを払拭するため積極的に大将棋を指し、将棋改善の研究をした。」と、論をつなげるというのは、どうでしょうね。飛躍がきつすぎますか?

    高見先生へ。
    御指摘の通り、西暦1015年は孔雀の年ですね。ただ「伝承西暦1015年絶対説」には、くみ無理ですね。つまりその証明、無理では。「藤原氏全盛時代のどこかで、藤原氏へ将棋の道具を送る目的で将棋が輸入」の説で、私は行きます。藤原氏がこののち将棋一族になるという事実と、こうするとつながりが良い、という事から来る私の類推です。将棋伝承年がたとえば西暦995年(この年も、宋船の入港が盛ん)なのか、西暦1015年なのかは、少なくとも私には証明できませんねぇ。ただ強いて西暦995年と西暦1015年とでどっちを選ぶか、と言われたら、1015年ですよね。何せ孔雀は南方の鳥ですから。「孔雀といっしょに」というのは、話としては面白いですね。なお「一条帝宮廷サロン将棋発祥説」には、私も驚きましたね。ただし個人的には、あんまり賛成してません。どうして一条天皇関係者や後の後一条天皇は、チャンギのようにシャンチーを変形して和製将棋を作り、民族主義を高揚しないのか。タイの将棋の改良という、より困難な「気高い道」を選んだのがが謎と思えますね。国家レベルで、将棋のゲームとしての確立という政策を取り上げてしまうと、その政策に頓挫したなら、政策の失敗と言う国家の大問題になってしまうのではないかと思いますが。安全確実な道ではなく、冒険を敢えてしたように見える点が、私には謎だと思いますね。つまり私が冒頭で述べたとおり、「日本の本将棋は、なんとなく、タイのマークルックに近い」という南方伝来説にも有利な指摘は、将棋の歴史を考えるうえで、私には一応の重みがある意見なんじゃないかと考えているという事です。つまり「『シャンチー駒よりマークルック駒の方が、手がこんでいて利ザヤを稼げる』という商人感覚がその起源」という私の仮説は、少なくとも仮説の一つにはなりえるように、私には思えますが、どうでしょうね。

  • #5

    長さん (木曜日, 29 5月 2014 15:53)

    訂正。良く調べずに、「お手付き」してしまいました。
    「前者は当時越南にはタイ人がおりましたから、マークルックないし、その原型、ひょっとすると、そのローカルルールゲーム、の何れかが、現地で指された事は、確かでしようが。」は、次のように訂正します。
    「前者は当時越南にはタイ人がおり、現在タイ領のモン族とタイ人との混血が始まった時代ですから、マークルックないし、その原型、ひょっとすると、そのローカルルールゲーム、の何れかが、現地で指された事は、確かでしようが。」
    以下解説。
    西暦1015年頃古マークルックを指していた、「地理的なタイ領」に住んでいた主要民族は、タイ人(族)じゃなくてモン人(族)なんですね。なお、ここでいう「タイ人(族)」は、漢族でない中国人のうちの一族(もともとは中国人の一部だった!)が正しいようです。東南アジアの人種の歴史って、結構複雑なんですね。