2014年

6月

04日

93)八道行成=マックルックの可能性:和名類聚抄

*(平成27年11月27日追記: 本稿の内容には間違いが多く含まれています。個々の訂正はしませんが、とりあえず、摩訶大将棋のブログ_03の投稿181)を参照下さい。)


前稿92)からの続きです。それでは、吉備真備による将棋伝来説を展開していきます。この場合、伝来の将棋は、原初のマックルック型であり(今のマックルックとほぼ同じかも知れませんが)、シャンチーではないという結論になります(シャンチーは8世紀にはまだ完成していないはずです)。

 

将棋が10世紀の日本にはまだ伝来していなかったという説で、一番よく引き合いに出されるのが、当時の辞書とも言うべき、和名類聚抄(938年に成立)です。和名類聚抄の語句リストには、囲碁はあるのに、将棋がでて来ない、だから、まだ伝来していないのだろうというわけです。たとえば、早稲田大学図書館のデジタルデータでは(巻第四・術芸部第九)、・・囲碁、弾碁、摴蒱、八道行成、双六・・・の順で並んでおり、確かに、将棋に類似する単語は現れていません。しかし、「八道行成」、この単語は原初マックルックの可能性があります。この件、いろいろありますので、また後日投稿しますが、八道行成がどんな遊戯なのかは不明なようです(十六むさしに相当するという記述が後世にはありますが、単に類推です)。ひとまず、ここでは、八道行成を表意文字的に解釈するなら、まさに、マックルック(8つのマス:敵陣まで進んで成る)ですね、と書くだけに留めたいと思います。中国の文献を見ると、たぶん、牽道八道行城が、八道行成に相当しそうですが、もう少し、調べないといけません。

 
ここまでを前提としますと、10世紀には、もう将棋は、日本にあったわけです。駒のことや、なぜ情報が少ないか、それはともかくとして、まず伝来の件のみ書き進めます。誰が持ってきたか。それは遣唐使だろうという思い込みが私には強くあります。物であれば、貿易をしている商人が運んでくることもできますが、将棋は物であると同時に、その面白さ(実際に対局した経験)がいっしょでないと伝わらないでしょう。ルールを知っているというだけでは、伝来は無理です。このことは、摩訶大将棋の展示会をしているとよく実感できることでもあります。将棋を伝える第一候補は、中国に長く住んでいた人物に違いありません。
 
遣唐使のうち、なぜ吉備真備なのか。ひとつの理由は、そういううわさが脈々と後世まで残っていたからですが、もし伝来した将棋がマックルックだと限定すれば、このうわさに少し信憑性を持たせることができます。
 
まず、古代カンボジア(初期のクメール王朝)から、唐への朝貢がいつだったかを調べてみました。インドは2世紀から朝貢がありますが、カンボジアの朝貢は、7世紀以降となります。その朝貢は813年が最後です。この当時、中国でも、まだ将棋はそれほどに遊ばれていなかったでしょう(出土駒がないことからもわかります)。ところで、カンボジアからの朝貢と、日本からの遣唐使が同じ年になるのが、1度だけあって、それが717年の遣唐使でした。この年が吉備真備(遣唐使1回目)だったというわけです。
 
マックルックは中国にはありません(広まったこともなかったでしょう)。しかし、カンボジアにはマックルックがありました。吉備真備は、カンボジアからの朝貢の使いに会っていたのかどうか。会って、原初のマックルックを対局したのかどうか。ドラマチックな展開をよしとしました。吉備真備と将棋伝来のうわさ、和名類聚抄に残る八道行成の言葉、717年の一致。本稿、この3点です。
 

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コメント: 3
  • #1

    長さん (水曜日, 04 6月 2014 09:17)

    御説の通り吉備真備は、当時のカンボジアに存在した国の将棋を指し、指した事を、その後、結果はともあれ、国内方々に伝えてまわってはいたのかもしれませんね。御説の通り八道行成、将棋の類かもしれません。なお、私は全般的に西暦1000年まで、将棋の記録が無い事に注意を向けており、個別の文献、和名類聚抄での記載は、絶対視しないよう、今後は注意する事にします。
    所で確かに、本朝俗諺志では、「吉備真備が伝えた将棋を、大江匡房が日本の将棋に直して完成。」と、つなげて書いてあるようですね。しかし常識的に考えて、大江匡房は、遣唐使の奈良時代から、北宋とつながりを持っていた大江匡房の平安後期の時代までの、現実には吉備真備以外の寄与も無視できない伝来のチェス・将棋系ゲームの知識を総動員して、日本の将棋を作るはずなんじゃないでしょうかねぇ。作るとすれば。
    大江匡房の時代は確か、北宋からシャンチー駒が出土し、シャンチーがほぼ現在のゲームに近くなった時代なんじゃないんですか。それって、北宋が交易を国策としていたとされるにもかかわらず、日本には伝わらないものなんでしょうかね。そうだとすればきっと何かありますよ。
    つまり「日本将棋を作った大江匡房」にとって、シャンチーのように、九宮が有り、線の交点に駒を置く将棋型ゲームは、完成していないから思考から外して良いという御考えには、個人的には、手放しでは賛同しかねるような気もしますがどうでしょうかね。まあこのへんの議論は、多少シビヤな年代検証が要るようですね。

  • #2

    mizo (金曜日, 06 6月 2014)

    先日の遊戯史学会で、将棋についての絵画資料の研究の発表をT先生がされました。
    その中で、鳥獣戯画の将棋の図について、八道行成ではないかという説を紹介されていました。T先生は、江戸時代の八道行成の図と比較して、やはり将棋であろうという結論されていました。
    和名類聚抄の八道行成が将棋であるとすると、江戸時代の八道行成はどのようにして生まれたのかという疑問が出てきます。また、八道行成という名称が将棋という名称になぜ変わったかという疑問が生まれます。
    一つの疑問を説明する仮説がより多くの他の疑問を生む場合は、その仮説が正しくない可能性が大きいことを示すと思います。

  • #3

    T_T (土曜日, 07 6月 2014 01:34)

    コメントありがとうございます!

    長さんへ(#1)
    この件の返信、投稿96)を返信とさせていただきます。途中までの投稿ですが、残りはまた後日に。

    mizoさんへ(#2)
    仮説が多くの疑問を生むと言われますが、それはご自身の説に執着されすぎということの反映のように思います。または、問題点の優先順位が、mizoさんと私とでは違うのかも知れません。八道行成がなぜ将棋という名前に変わったか、江戸時代の八道行成はどのようにしてできたか、これらの点、私には、あまり重大なことに思われません。あとで考えてもいい小さな問題なのでは、と思ってしまいます。それよりも、八道行成は将棋ではないか、そう読めるかどうかの可能性をまず探ることが重要と考えます。もし将棋だとしたら、その波及は非常に大きいからです。