2014年

6月

07日

96)長安の都はシャンチーの盤:将棋と陰陽道

ご存知の方もおられると思いますが、長安の都はシャンチーの盤です。たとえば、Wikipediaの図を見て下さい。Webには他にもいろいろ出ています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%89

 

南北にきちんと並んだ碁盤状の道がついています。このことは、平城京と平安京がこれに倣ったのですよと、中学か高校のとき教えてもらったような記憶もあり、たぶん有名だと思います。しかし、長安の道の区切りが、シャンチーのマスにそっくりだということは、私は最近まで知りませんでした。びっくりしました。

 

横に(東西に)全部で8マス並んでいます。北側の中央にお城がありますが、この部分は、縦横2マス(計4マス)と見ます。このお城の部分が、シャンチーの盤の九宮に相当しています。

 

果たして長安の都作りが先なのか、シャンチーの盤が先なのか、どちらにせよ、7世紀から9世紀に唐があったわけで、その後は長安のような都(シャンチーの盤を表現している都)は作られていませんので、遅くとも9世紀には、シャンチーが成立していたと考えていいでしょう(シャンチーの歴史の件、たぶん、このような観点でも議論されているはずでしょうが、Webではすぐ見つけられませんでした。正しいかどうかは、私の中ではまだ不明です。本稿では、このまま、議論を先に進めます。)

 

ところで、本稿、チャトランガからどのように派生してシャンチーに至ったかは重要でありません。本稿の論点は、シャンチーの成立の時期だけです。中国から日本への文化流入が非常に活発だったことを考えれば、日本にまだ将棋がなく、中国にシャンチーがあったなら、それは当然、渡来して、そして日本にも根付いていたに違いありません。しかし、そうはならなかった。つまり、シャンチーが成立したとき、すでに日本には将棋があったのです。シャンチーは何度も渡来してきたはずですが、将棋があったために広まらなかったのでしょう。

 

シャンチーの最も遅い成立時期が9世紀ですから、将棋の定着期間を、ある程度の期間だけ見積もるなら、将棋の成立は大雑把に8世紀でしょうか。吉備真備の持ち帰った将棋の時期とかぶるのです。つまり、吉備真備説は、それほどに荒唐無稽な説ではないかも知れません。だとすれば、江戸時代まで残ったうわさ話の、大江匡房の方も侮るべからずでしょう。

 

将棋が成立してからも、シャンチーは何度も渡来してきました。将棋がシャンチーに替わることはありませんでしたが、それでも、将棋の中身は少しずつ変化していったものと思われます。この件、また、近いうちに投稿します。

 

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コメント: 4
  • #1

    長さん (月曜日, 09 6月 2014 08:26)

    前に日本に将棋が有ったとしても、多少後から来たとしても、シャンチーの方が優秀なら、普通なら、シャンチーに、原始的な日本の将棋が置き換わるのが自然じゃないのかと、私は、この文を読んで、やはり感じましたが。実際には日本では、マークルック系原始平安小将棋がシャンチーを押しのけて席巻する、何か、どえらい要因が有ったんじゃないのでしょうかねぇ。

  • #2

    mizo (月曜日, 09 6月 2014 22:31)

    高見先生のブログですので、自説を長々と開陳してはいけないと思いますが、なぜシャンチーが日本では広まらなかったのかという点については、別の仮説(私の考え)も成り立つことを書かせていただきます。
    中国の将棋=シャンチーのみ、二中歴の将棋=日本独自の将棋という前提が間違いなのではないでしょうか。唐末の「玄怪録」の記事からは、中国に複数の将棋類が存在したように思えます。そのうち一つが日本に伝来。それは駒の力は弱く魅力が少なく思えるものの、持ち駒再使用というルールのためそれなりに面白いものであった。(長さんのご指摘の要因です)
    中国では宋による統一の過程で、南方沿岸諸国の将棋類は滅びたのではないでしょうか。

  • #3

    長さん (火曜日, 10 6月 2014 08:10)

    mizoさんへ。
    なるほど。「持ち駒ルールを、たまたま偶然、きわめて早い時期に日本人ないし、輸入元の中国南部で日本に来る直前に、だれかが発見してしまったので、シャンチーも古ぼけて見えた。」というのが、マークルック系日本小将棋隆盛の原因という仮説も、考えようと思えば考えられるというのですね。

  • #4

    T_T (火曜日, 01 7月 2014 00:59)

    コメントありがとうございます!

    将棋発祥の件、私自身の中では、最近になって、陰陽道と将棋ということでしか考えられなくなっています。もとはシャンチーでもマックルックでも、それら8駒の並びは、日本には全く根付いていないはずです(言い切ってしまって、すいません)。

    つまりは、当初の将棋は遊びではなく、陰陽道だったからです。陰陽道で天の数、36というのは、非常に重大です(この件については、現在調査中)。8駒の並びを9駒にしたのは、9個×4列=36個を作りたかったのだろうと考えています。この独断、いろいろな点から補強中ですが、そのひとつが将棋の駒の五角形の理由ということになります。もし、奈良時代の伝来なら、なかなか表に現れなかったことから考えて、陰陽道関連でほぼ納得がいきます。この件後日投稿します。