2014年

6月

17日

98)吉備大臣入唐絵巻:吉備真備説を追う

解明:将棋伝来の『謎』を読んでから、サロンという言葉があることを知りましたが、本稿のタイトル、吉備大臣入唐絵巻は、後白河法皇のサロンで作られたそうです。この絵巻は、大江匡房が、祖父の橘孝親から伝え聞いた話がもとになっているとのことです。

 

ここしばらくの間、吉備真備説を追っているわけですが、追うほどに、私の中ではどんどんと、たぶん将棋の伝来はここなのだろうという感が強くなる一方です。さて、大江匡房という人物ですが、将棋に関連して現れるのは、江戸時代の本朝俗諺志と象棋百番奇巧図式の2つの文献の中だけです。どちらも、国立公文書館にあります。内容については、以下のサイトを参照して下さい。

 

本朝俗諺志:http://www.bunzo.jp/archives/entry/001688.html

象棋百番奇巧図式:たとえば、以下のpdfで、猛豹を検索して下さい。

http://homepage3.nifty.com/appleorange/kouda-rohan/shogi-zatsuwa.pdf

 

どちらの文献でも、吉備真備に関しての記述があった後で、大江匡房の記述があるのですが、全く独立した文脈で書かれており、また、2人は別の時代ということもあって、吉備真備と大江匡房の関係性は特にないものだと思っていました。しかし、本稿の冒頭で書いたとおり、実はそうではありません。

 

吉備真備のついていろいろと語り継がれていたことを直接聞いていたのが、大江匡房、本人だったわけです。もちろん、ここに、将棋伝来の伝え話もあったのだろうと推測されます。ただし、吉備大臣入唐絵巻には、将棋の話は出てきません。これまでに、まだ誰からも、将棋についての記述が引用されていないことを考えれば、他の関連書物の、「吉備大臣物語」、「江談抄」(大江匡房の談話が集められている)等にも、おそらく重要な情報は書かれていないのだろうと思いますが、和名類聚抄の八道行成のようなことがないとも限りません。特に、江談抄は、一度、目を通しておかねばと思っています。この件、また後日に投稿します。

 

ともあれ、吉備真備説は、江戸時代の書物、本朝俗諺志にこんなうわさ話が載っていて、・・・・というだけでは、もはやなく、平安時代の最高傑作、吉備大臣入唐絵巻まで含みいれて考えるべき事柄ということになりそうです。荒唐無稽な話しとしてすぐ却下されるべきものでもないでしょう。橘孝親の先祖を遡ると、吉備真備の後見人だった橘諸兄にいきつきます。橘家代々の伝承として、吉備真備のことが大江匡房まで伝わったということなのでしょう。

 

江談抄には、吉備真備が陰陽道の始祖だったと書かれているそうです(この点は未確認)。吉備真備が将棋を陰陽道のツールとして使ったという考え方も、あまり不自然でないかも知れません。陰陽道と将棋の連携は、どうも摩訶大将棋の頃まで残っていた可能性もあります。

 

摩訶大将棋の左右非対称な並び、古猿、臥龍、蟠蛇、淮鶏の4駒は物語由来なのだろうかとずっと考えていたのですが、これは、そう見るのではなく、陰陽道の十二支が由来という可能性大です。この件長くなります。また別稿とします。

 

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コメント: 2
  • #1

    長さん (火曜日, 17 6月 2014 09:46)

    「奈良時代から平安時代初期までの間の文献に『将棋』が現れている」という裏付けが、吉備真備の居た時代から大江匡房の居た時代の間の空白を埋めるために、やはり、必須のように本文を読み感じました。吉備真備が唐時代の「日本の将棋と似た将棋」を伝来させたことが最大限有ったにしても、それが今の日本の将棋に確実に連続・直系しないと、江戸時代の2文献の記載には、意味が有るとは言えないと私はやはり思います。

  • #2

    T_T (火曜日, 01 7月 2014 00:06)

    コメントありがとうございます!

    ご指摘の点、むずかしいところです。和名類聚抄に将棋がない、だから、900年には将棋はなかっただろう、枕草子に出てこない、だから、1000年にも将棋はなかっただろう、こういう考え方は正当ではありますが、やはり、ひとつの説ではないでしょうか。将棋は別の名前で呼ばれていたのかも知れませんし、将棋は陰陽道の使い手だけが知る占いであって、アミューズメントでなかったかも知れません。

    きちんと書かれている文献が発見されれば、誰も文句なく解決してしまうのでしょうが、それはそれでがっかりです。今のように、少し霧がかかっている中を歩いていくのがちょうどいいロマンチックなのでは。