2014年

8月

17日

105)摩訶大将棋と陰陽道:ゲーム学会の研究会にて発表

最近、ずっと投稿できていません。そのせいで、投稿したい話題がたくさん溜まっています。どの話題から投稿したらいいのかですが、ひとまず、今月の2日にゲーム学会の合同研究部会(大阪電気通信大学 駅前キャンパス 6階小ホール)で発表した件からいきます。摩訶大将棋の研究(第2報)というタイトルでの発表でした。本来は、研究会の前に投稿すべき話題なのですが。。。

 

摩訶大将棋と陰陽道の関連についての発表でしたが、陰陽道を取り上げるのは今回がはじめてとなります。どの程度の賛同、どの程度の反対があるのか想像つきませんでしたが、持ち時間は20分、会場には21人の方がおられ、発表のときと、その後の懇親会の席上でもいろいろ訊ねてみたところでは、まあ好意的な感じだったように思います。

 

4ページの予稿別刷を、次の展示会(たぶん、10月5日に奈良公園)のときにパンフレット代わりとして置きたいと思っています。本稿では、最後の結論部分、5節の全文のみを。 

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5.おわりに

 摩訶大将棋の中に十二支の駒が揃っているという前提で考えれば、象棊纂圖部類抄の序文とも合致して、摩訶大将棋は陰陽道起源であることが濃厚である。古代日本の将棋は、遊戯という枠組みの中だけで発展してきたわけではないという考えを、将棋の歴史を考察する際には、意識すべきであろう。

 また、15 マスの大将棋から19 マスの摩訶大将棋が作られたとする考え方は、より複雑なものへとゲームが発展していくという、自然な発展過程のように思えるかも知れないが、本稿で述べたとおり、その結論は逆である可能性の方が高い。どの観点から考えても、摩訶大将棋が大将棋よりも早くに成立していたことへと導かれるのである。

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投稿101~103に予稿の内容と同じものを書いていますが、まだ、投稿していない内容もあり、早々に投稿したいと思います。これまでの投稿では、摩訶大将棋の十二支の駒について、図を載せていませんでしたので、本稿に置きました(仲人の行は省略しました)。青いマスの駒が十二支の駒です。きれいに並んでいます。ただし、現状、「未」については不明ですが、盲熊に割り当てています。12個のうち11個が対応、これで十分とするか、あと1個が未対応なのでダメとするか、どちらでしょう。
摩訶大将棋に並ぶ十二支の駒
摩訶大将棋に並ぶ十二支の駒

 

初期配置の下から2、3、4段目にある駒では、反車(奔車)、飛龍、桂馬は二中歴にある古い駒、猛豹と酔象も、江談抄に出て来る古い駒ですので、残るは、羅刹、力士、狛犬、金剛、夜叉、麒麟、師子、鳳凰の8駒となります。実は、これらの駒も、どうも陰陽道に関連しているようで、この3段にある駒はほぼ全部の駒の起源がわかりました(と思っています)。この件、早々に書きます。

 

これまでは、麒麟と鳳凰は四神からと考えていましたので、なぜこの2つだけを選んだのかわからなかったのですが、四神からではありません。それと、力士と金剛を、漠然と金剛力士像からと考えてましたが、これもそうではありませんでした。

 

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コメント: 15
  • #1

    mizo (月曜日, 18 8月 2014 08:57)

    陰陽道は基本的には仏教とは異なりますが、提婆・無明などはどうなんでしょうか?陰陽道なら十二天将はなぜないのでしょうか?二組の駒は占いに必要なのでしょうか?
    占いに使われたというお考えは、納得しがたい部分が多いです。

  • #2

    長さん (火曜日, 19 8月 2014 17:21)

    個人的理解で、すぐ下のフレーズに誤解・歪曲があるかもしれませんが。
    十二支の動物名。陰陽道から見ると、webの情報の全体的な雰囲気に比べて、軽い存在のように昔(20~45年位前)は個人的には理解していました。十干十二支に、適宜、判りやすく身近な動物名をあてただけ、と暦学の一般啓蒙書で読んだ記憶が有りますので。
    よって、日本の十二支の動物名、または、ベトナムの十二支の動物名が、仮に揃っていたとしても、陰陽道の影響は否定できないものの、陰陽道の専門家が、摩訶大将棋を作ったようなイメージ、とまでは、言えないというのが、個人的な認識です。最近の学会では、ちょっと見解が違うのかもしれないですけどねぇ。
     なお揃っているかどうかですが。駒の表名にある程度は、アジアの十二支の動物名を集めようとした雰囲気は、確かに感じられますね。「「鼠」は、余り強そうではないが入っている」が、私の場合は根拠の大部分。
     この将棋。南北朝時代の異制庭訓往来よりは後、は、確かなんじゃないでしょうか。1年の日付を思わせる程度の、複雑な将棋を作ろうとしている事。そこでこの将棋を作成した時に「暦学と天文道」が、作者の頭の中にあったのは、どうやら、確からしいと思います。
     根拠は、淮鶏ですね。淮南子の主編集者がただちに連想され、淮南子の内容は多岐ですが、「宇宙」という単語の起源でも、良く知られていますし。あんまり強そうではない鶏を入れ、成りが淮南子の主編集者の別名の、仙人の意味の字が一字入った、仙鶴ですから。淮南子の単語が摩訶大将棋作者のの頭の中に有ることは、ほぼ確かなように思います。
     後期大将棋は、摩訶大将棋の作者と同じのくささがあると、個人的には感じていますが。鼠も鶏も取り除いて、暦、天文、宇宙の雰囲気は、少なくとも出ないようにしていると思います。博学な同一人物が、両方作成したんじゃないでしょうか。

  • #3

    T_T (水曜日, 20 8月 2014 00:48)

    mizoさんへ
    コメントありがとうございます!!

    陰陽道と言いましても、平安、鎌倉の時代は、仏教も神道も習合しがちですので、たとえば、密教系の陰陽道、日蓮宗系の陰陽道と呼んでいいような陰陽道があったのだろうと考えています。これまでは、提婆や無明の駒の存在を重要視して、法華経の周辺や鎌倉の周辺に起源を探していましたが、現状、古代の将棋に陰陽道が潜むことがどうも確からしいですので、今は、密教系あるいは法華経系の陰陽師だろうかと考えています。

    どのあたりまでを陰陽道と見るかによりますが、少なくとも、古代の将棋は呪術と関係していたことは確実です(今は、仮に、呪術と呼びます)。その呪術の意味する範囲も、占い、おまじない、お祝いまでも含めた神事だったのだろうと思っていまして、そう考えることで、ほんとにいろいろなことが、ひとつの観点で、説明できてしまいます。関連するいろいろな件、全部長くなる話しですので、後日の投稿とします。

    最後の占いの件、1点だけ書きますと、古事類苑には、古代や中世の文献から占いに関する記述を抜き出してくれていますので、便利です。方技部/易占のところです。

    http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E6%96%B9%E6%8A%80%E9%83%A8%2F%E6%98%93%E5%8D%A0

    源師時の日記「長秋記」、大治4年(1129年)の記述に、将棋の駒12枚を占いに使ったという記録があります。

    新院御方有覆物御占、覆以將棊馬、其數十二也、新院如指令占御

    この12枚を、どう選ぶかはいろいろな方法があるかと思いますが、十二支に対応させた駒を使うこともあったかも知れません。もちろん、香車を子、桂馬を丑、・・・という選び方もあったかも知れません。

    思い返してみれば、囲碁も双六も、当初は呪術のひとつでしたが、であれば、なぜ、mizoさんは、将棋は呪術のようなものではないと、将棋だけは遊戯だと考えられるのでしょう? 囲碁も双六も将棋も同じではないでしょうか。吉備大臣入唐絵巻では、吉備真備は、双六を呪術に使って、難を逃れています。この件も、後日に投稿しますので、またそのときに。起源を呪術的なものとみるかどうか(つまり、陰陽道と関連するかどうか)は、将棋の伝来には、非常に重要です。

  • #4

    T_T (水曜日, 20 8月 2014 01:45)

    長さんへ
    コメントありがとうございます!!

    陰陽道については、まだ一夜漬けと変わりない私が言うのも何ですが、十二支があれば、もうこれだけで陰陽道は確実だと考えますが、一般的にはそうではないようです(とは言え、2か月前の私が、どうだったかは・・・)。このことは、今月のはじめ、ゲーム学会での発表でもよくわかりました。十二支と陰陽道については、たぶん、本題に入る前に、かなり長い説明が必要な感じです。

    老鼠のような将棋らしくない駒があるので、十二支を意図したことがよくわかるというご意見、確かにそのとおりかと。ありがとうございます。

    摩訶大将棋の成立時期については、長さんの考えは私の考えとは全く違いますが、この件はおいおいじっくりとという感じでいます。摩訶大将棋と大将棋の成立が同じだという可能性もあるかも知れませんが、大将棋が先ではない、ということが重要な論点で、復刻に関係するのは、摩訶大将棋と中将棋の成立順の方となります。

    上のコメント#3のところにも書きましたが、将棋を呪術として捉えることで、不明なことのいろいろがひとつの観点から解釈できます。なぜなら、将棋は呪術だから、というわけです。

    この件のいろいろ、今後の投稿になりますが、いま1点だけ書くとしますと、だいぶ前の話で、投稿20)のコメントにて、神鳥谷曲輪の出土駒が話題になっています。摩訶大将棋の角行です。それがなぜお姫様といっしょだったのか、という問題です。なぜなら、将棋は呪術だから、というのが答えになります。平安、鎌倉のどの古文書だったか物語だったか、今すぐには出てきませんが、たとえば、姫君の周辺で、出産に臨んで、双六をするわけですが、その双六遊びの中で、何か占いのようなことをしているような一節を読んだことがあります。

    原初の将棋には、何かそのような、軽く言えば、占いのようなもの、重く言えば、神様との通信のようなものがあったのだろうと考えています。この件、十二支の駒だけでは、たぶん納得していただけませんが、摩訶大将棋には、もうひとつの集団がきれいに入っています。後日の投稿になりますが、この件、賛成してもらえましたら、将棋が神事の一部であった可能性や、摩訶大将棋の成立が、南北朝の時代ではなく、もっと早かったということも納得していただけると思っています。摩訶大将棋に並ぶそのきれいな集団は、平安時代に存在したもので、鎌倉時代には、なくなっていったものだからです。

  • #5

    長さん (水曜日, 20 8月 2014 15:53)

    コメントありがとうございました。
    当方は御指摘の通り、摩訶大将棋(成り鳳凰:奔王制摩訶大大将棋。聆涛閣集古帖の図の将棋)は、戦国時代との見解です。今まで本ブログでは、この摩訶大将棋は、ほぼ鎌倉時代成立との論だったと認識していました。それで平安時代の御発言にはかなり驚きました。二中暦の平安大将棋の時代にこの摩訶大将棋は無く、この摩訶大将棋はそれよりは後との御見解と認識していましたので。
    栃木県小山市の神鳥谷曲輪の「裏一文字金角行駒」は、出土品は1枚だけであり、知られている将棋では、摩訶大将棋(成り鳳凰:奔王制摩訶大大将棋。聆涛閣集古帖の図の将棋)でしかうまく使用できません。
    同時に出土したカワラケの形から、遺跡の年代を推定する研究も行われています。が当方の見解では、この地の小山義政館(跡)との古記録から、1380年前後の南北朝時代の城跡と、同じ場所からの出土と認識するのが判りやすく自然と思っています。
    つまり、摩訶大将棋がいつの時代かという論を建てる際、とりあえずは南北朝時代としてみるのが、この出土品1品だけ見ると、まっとうな見方との状況かと思います。実際には私は、出土した将棋の駒は、江戸時代末期の時点で存在した記録に基づく、小山市の現廃寺青蓮寺にて作成された、江戸時代末期の復元品ではないかと思ってはいますが。少なくとも江戸時代末期の識者は、異制庭訓往来の「駒数が多いのは」の部分と、麒麟抄の南北朝時代とみられる将棋駒の成りの書き方に関する加筆部、聆涛閣集古帖の図の3点は、将棋の歴史に興味が有れば知っていて、南北朝時代の将棋と言えば、ここで言う摩訶大将棋のイメージが有った可能性が強い事ため、レプリカも摩訶大将棋の駒であった可能性もある事までは、確かなのではないかと思います。
    さて小山義政館には、正室の小山よし姫がおり、記録に残る限り、この戦陣で女っけはこの方だけ。よって女性が髪を梳くクシと井戸跡まで同じ場所から出土した将棋駒が小山よし姫関連なのは、個人的には明確と考えています。
    ただしこのケースに限っては、呪いの可能性は薄いです。「合戦の形勢判断が、江戸時代末期には存在した将棋の棋士が、盤面からゲームの形勢を瞬間的に割り出すかのように、巧みにできた女性」の意味とみられます。「寒河尼のごとくに、それが出来た女性」という事です。小山義政の正室の小山よし姫と、小山政光の正室の寒河尼は、ともに下野藤原姓宇都宮家の出。父親が、小山よし姫は宇都宮義綱(京都。南北朝時代の)、寒河尼は宇都宮宗綱(平安時代末期)です。寒河尼は、小山一族が源平の合戦の際、志田先生義広(木曽義仲の仲間)と源頼朝の、どっち側に付くかで迷っていた時、源頼朝方優勢と形勢判断して、頼朝に付く事を決定した女性。小山よし姫は、「南北朝時代の小山義政の乱のときに、義政軍敗戦の原因を、坂東武蔵武士の足利氏満への加担が主要因」と分析したと見られる、宇都宮家出の女性という訳です。もともと小山よし姫が小山義政の所へ嫁いできたのも、西暦1363年の芳賀高名の乱のときに、宇都宮氏が小山氏から受けた、恩賞の見返りとして、寒河尼になぞらえられての姻戚がもとという、因縁があるようです。そして小山よし姫は、小山市の青蓮寺で、室町時代から江戸時代まで祭られたわけですが、祭ったのは、その発言が原因で小山城に、室町時代初期から戦国時代中期までお抱えになった、武蔵武士と見られています。以上の記録が残っていれば、江戸時代末期にも、まだ有った青蓮寺で、将棋駒のレプリカが作られ、明治時代初めに、廃寺になるまで、保管されていたと見るのは容易です。
    なお摩訶大将棋が南北朝時代ではなくて戦国時代と言うのは私見です。南北朝時代にも、いわゆる一向一揆のような思想の僧兵など、たとえば奈良の東大寺方面等では普通であったというのが、歴史学の常識という事なら、将棋の駒に金剛力士が含まれるのは自然な為、私も今から、摩訶大将棋は南北朝時代説に鞍替えしようと思います。

  • #6

    mizo (木曜日, 21 8月 2014 06:49)

    高見 さま
    〉〉囲碁も双六も、当初は呪術のひとつでしたが
    呪術の道具→遊戯の道具化、という流れで考えられていることがわかりました。
    私は、遊戯の道具→呪術への転用、と考えています。
    有名な藤原道長への将棋の駒による占いも12枚の駒しか使用していません。一組の将棋には32枚(36枚、40枚)の駒があったはずです。

  • #7

    T_T (木曜日, 21 8月 2014 11:19)

    長さんへ
    コメント#5ありがとうございます。

    摩訶大将棋の成立時期を戦国時代と思われている件ですが、曼殊院お持ちの1443年写本が存在する以上、戦国時代に成立というのはあり得ないわけですが、つまり、これは、上記コメント#5に書かれている角行レプリカ説と同じように、1443年という年号が間違いなのだとお考えなわけですね。1443年は別件ですので置くとしまして、レプリカ説の方、こちらも、やはり、全く賛同できません。以前の投稿のコメントのところで紹介いただいた説、王子は太子の書き間違えではないかというのと同じ種類の考え方ではと感じます。レプリカか本物かが検証できないとして、では、どちらの説に基づいて考えを展開していくかですが、可能性の高い方、つまり、14世紀の駒ということで考えたいと思っています。

    ところで、摩訶大将棋の成立時期の問題、私が平安時代説を取っているように書かれていますが、そう書いたつもりはないのですが。。。もっとも可能性の高いのは、1200年代の中ごろです。これは、駒の名称と文献に出てくる出現頻度からです。それと、まだ投稿していませんが、平安時代に盛んだった事物の名称が、摩訶大将棋の駒に多数取り込まれていますので、13世紀後半や14世紀の創案という可能性は非常に小さいと考えています。逆に、早い側はあり得ますので、12世紀後半も考えてよいかも知れません。この件、後日投稿いたします。

    今まで陰陽道として取り込まれていた将棋が、天皇家から公卿へと広まり(民間陰陽道、阿部清明のような)、さらに、庶民まで陰陽道が広まったあたりで、遊戯としての将棋が広まり出したというシナリオを想定しています。将棋の広まりを、陰陽道からの遊離という観点で考えると、摩訶大将棋の成立時期は遅くとも13世紀の半ばでしょうか。

  • #8

    T_T (木曜日, 21 8月 2014 11:54)

    mizoさんへ
    コメント#6ありがとうございます。

    囲碁、双六、将棋と、どれも盤面を使う3つの遊び・賭けごとですが、3つとも、呪術に端を発し、遊戯へと発展したというシナリオを想定しています。このうち、囲碁については、呪術から遊戯へと発展したという考え、定説に近いのではないでしょうか。

    mizoさんが、遊戯の道具→呪術への転用という、逆向きの展開で考えられる理由は、どういうところにあるのでしょう。それは、将棋だけがそうだと考えられているのか、囲碁、双六、将棋の3つとも、同じくそう考えられているのか、という点も気になります。

    この件、早々にあらためて投稿いたします。

    それと、道長が、将棋の駒で占ったという件ですが、これは、どの文献からでしょうか。知りませんでした。長秋記1129年の記録は、鳥羽天皇の占いで、将棋の駒による占いの記録は、これだけと思っていました。

    なお、駒を使った占いのことですが、私の想定している将棋=呪術というのは、この占いのことを指しているのではありません。将棋という遊戯全体が呪術の一部ということです。この件も、早々に投稿いたします。双六も、双六という遊戯の中で、呪術的な行為がなされたと想像していますが、将棋よりは、緩やかな呪術だったかと思います。何しろ字がありませんから。

    駒12枚での占いは、将棋でいえば、はさみ将棋のようなものです。摩訶大将棋は、もちろんきちんと対局したはずです。この対局それ自体が呪術の一部です。平安小将棋の方ですが、これが公卿の呪術だったかどうか、まだ考えをめぐらしていませんが、陰陽道起源が濃厚かと思っています。まだ少し時間が必要です。

  • #9

    長さん (木曜日, 21 8月 2014 14:23)

    高見先生。コメントありがとうございます。
    西暦1443年の件ですが。はい。この年号、少なくとも摩訶大将棋の構成駒種の内容との整合性が、充分には取れていないように見える、というのが、私の本音です。
    王子の件ですが。これについては、「お釈迦様の連想を避けた」で、ほぼ私的には固まっています。記録間違いの可能性の方が、少ないと思います。
    裏一文字金角行駒がレプリカの件ですが。レプリカだと思います。根拠は、同じ井戸から出土した、関連すると私が思っている遺品の質にあります。クシは既に紹介しましたが、ご存知かもしれませんが他に2点あります。女物の下駄と、左三つ巴の宇都宮氏と同じ家紋の入った手火鉢です。問題は手火鉢。家紋がスタンプ品で、下野守護の奥方様の物にしては、安っぽすぎるのです。実はほぼこの点だけから、以上4出土品は、廃元尼寺栃木県小山市の青蓮寺で、寺の由緒を説明する為に江戸時代に寺で作った模型と、私はほぼ断定しました。なお手火鉢の紋が、スタンプで安っぽすぎる点についてだけは、小山市教育委員会の発掘担当者と私の間で、見解は一致しています。
    なお、宇都宮の栃木県立博物館の学芸員から、「将棋駒については2枚目以上が、今後発掘される可能性は、発掘が徹底的であったため、ほぼ絶望的」との情報をもらっています。これも、レプリカ説の間接的根拠と考えています。摩訶大将棋の駒192枚のうちの1枚が、偶然見つかったという話が、かなり不自然と思えるからです。1枚だけで足りるため、廃元尼寺栃木県小山市の青蓮寺で弔われた小山よし姫の説明のために、これだけ後で作成したと見るのが、どちらかと言えば自然と考えます。南北朝時代の遺品そのものではないとすれば、はなはだ残念な事なのですが。

  • #10

    mizo (木曜日, 21 8月 2014 22:58)

    >>6
    有名な「藤原道長」への将棋の駒による占い
    申し訳ありません。勘違いです。
    ご指摘の通りです。「藤原道長」ではありません。「鳥羽上皇」です。
    >>8
    囲碁、双六、将棋、すべて遊戯だと思います。
    囲碁が創案されるもとになったものが、呪術で使われた道具であったり呪術の所作であったりする可能性はあります。しかし、それは囲碁ではありません。
    将棋が創案される前に、軍隊の配置を駒で表して作戦を練ったというお話に近いと思います。それは将棋ではありません。プレ将棋です。
    私は日本においては、すべて遊戯となった後で日本に伝来したと考えています。

  • #11

    T_T (金曜日, 22 8月 2014 22:03)

    長さんへ
    コメント#9ありがとうございます。

    1点疑問なのですが、仮にレプリカ説を取るとした場合、では、江戸時代、そのレプリカを作った人は、なぜ、摩訶大将棋に固有の駒(角行の裏が金の駒)を選んだのでしょう。

    中将棋の駒でも他の大将棋の駒でもよかったのではないでしょうか。この点、理由がかなりむずかしそうに思うのですが。。。

  • #12

    T_T (金曜日, 22 8月 2014 22:30)

    mizoさんへ
    コメント#10ありがとうございます。

    将棋が遊戯として伝来とのお考え、了解いたしました。私も囲碁と双六についてはそのように考えていますが、将棋の場合も同様かというと、そうは考えにくい点が多々あります。この点、後日投稿いたします。呪術なのか遊戯なのか、これは伝来を論じる上で、最優先すべき重要点と考えます。

    新たな古文書の発見や新たな出土駒がない限り、現状では、黎明期の将棋の歴史全般は、どう考えても自由、という状況でしょう。ただ、摩訶大将棋の周辺だけを見る限りは、成立当初の摩訶大将棋は呪術だったと考えざるを得ません。では、その後の大将棋はどうだったのか、その前の平安将棋、平安大将棋はどうだったのか、ということになるわけですが。。。

    呪術が遊戯に展開していく過程を、摩訶大将棋、大将棋、中将棋、小将棋の流れに見ることができます。このように、摩訶大将棋以後はかなり見通しがいいのですが、摩訶大将棋以前は、いまだ混沌です。

    糸口は、八道行成(または、中国の八道行城)だと考えています。現状、私の考えは、平安将棋は、呪術から漏れ出てきた将棋、というものです。もはや、呪術としては通用しなくなった将棋でしょうか。将棋の駒を使っていたのは確かですが、果たしてそれは将棋と呼ばれるべきなのかどうかです。

    やはり長くなります。次々とあります。この件もまた後日に投稿いたします。

  • #13

    長さん (月曜日, 25 8月 2014 09:44)

    高見先生。御質問に御答え致します。
    「南北朝時代の将棋と言えば『異制庭訓往来』の将棋」と、江戸時代後期に、栃木県小山市市内の小山義政館と、ほぼ同じ場所にかつて存在した、青蓮寺の和尚さん等が、イメージしたのだと私はほぼ断定しています。36枚の獣の姿を象る(平安小)将棋と、360日の1年の日付けの数ほどもある、複雑な将棋の2種しか、異制庭訓往来には露わに言及されてません。また、異制庭訓往来以外で、360日の1年の日付けの数ほどもある複雑な将棋が言及された例が、ほぼないのもユニークです。つまり、「南北朝時代」の将棋を表すには、36枚制小将棋か、摩訶大将棋のような360日の1年の日付け関連の将棋の駒を置くしかないと思います。そこで更に、藤原頼長と同じく藤原が姓の藤原貴族の末裔の武家、「小山よし姫(藤原北家道兼流・下野宇都宮氏)ないし、小山義政(藤原秀郷後裔・下野小山氏)」の所有物を表現するには、摩訶大将棋の駒しかないと考えます。「異制庭訓往来の記載から、泰将棋や摩訶大(大)将棋は、南北朝時代には指されたと思われる。」と、たいがいの現代の将棋歴史の成書には記載されていますが、江戸時代から現在まで、研究者の認識の大勢は、この点に関し一定一致の状況なのではないと私は思っています。

  • #14

    松岡秀達@北斗柄 (月曜日, 27 4月 2015 22:59)

    十二支の命獣に熊や猫はいないので、十二支の駒が揃っているとはとても言えないと思います。

  • #15

    T_T (火曜日, 28 4月 2015 02:30)

    はじめまして。高見です。
    コメントありがとうございます!

    猫は卯(東南アジアの十二支)ですので、現状、熊が唯一不明です。十二のうち、十一が揃っていますので、おそらく十二支だろうと考えた次第です。十二支の駒で占いをしたとの記述も長秋記に記載されていますし、駒で十二支が構成されていた可能性はかなり大きいのではないでしょうか。また、摩訶大将棋そのものに十二支が含まれたということではなく、その痕跡がある、という程度に考えてもいいかも知れません。つまり、何らかの事情で、羊の駒が熊に変わった将棋(=摩訶大将棋)が、現代に伝わっているというふうに。

    黎明期の将棋は、占いと遊戯が渾然一体のものだっただろうと考えています。将棋は、その頃、神事です。神様への奉納です。白川静の言葉を借りますと、将棋を遊ぶのは神様ということになります。将棋の歴史は、意外なことに、まだほとんどわかっていないのが現状で、そもそも、伝来当初から将棋が遊戯であったという考え方では(通常、皆さん、そのようにお考えだと思います)、いろいろ説明がつきません。

    本ブログでも何回か話題にしていますが、新猿楽記の陰陽師の記述のところ(陰陽師が十二神将を従わせているという記述です)、ここを、松岡さんはいかがお考えになられるのか、是非お聞きしたいところです。お会いできる機会やってきますでしょうか。その機会、楽しみにしております。