2014年

9月

12日

111)平安大将棋の飛龍と桂馬の動き:二中歴の記述から

投稿予定では、本稿にて、平安大将棋の飛龍の由来と、五行相剋のことを話題にすることになっていましたが、後日の投稿に廻します。投稿109)のコメント#19にて、飛龍と桂馬の動きが話題となりましたので、まず、こちらの方から書くことにしました。このコメント#19を受けての本稿、という流れで、ご一読下さい。

 

大型将棋の桂馬の動きについては、本ブログでは、前のななめ2目(今の動きとは違う)と考えています。この件、投稿50)にて詳しく取り上げていますが、二中歴の記述に関する部分は、ほとんど書いていませんでした。

 

桂馬前角越一目、これが、二中歴にある桂馬の動きですが、記述があいまいです。ですので、結論ありきで、無理やりに筋を通してしまうことも可能でしょう。つまり、私の場合なら、前のななめ二目に超すと書いてあるということで、納得していますし、上記のコメント#19では、今の桂馬の動きと同じと読めるということで、納得しているというわけです。

 

ですので、昔の桂馬の動きを議論する場合、二中歴からはこう解釈できる、という主張は、あまり意味を持たないように思います。二中歴の原文はどうにでも読めるわけですから。そこで、二中歴以外から、動き方の材料をさがすことになりますが、前のななめ2目説(今の動きとは違うという説)については、投稿50)に列挙したとおりです。

 

いちおう、私の解釈(前のななめ2目)ですが、「前角」で、桂馬の動きの方向は、ななめ前だけに限定、一目越しますので、2目に着地、となります。象棊纂圖部類抄の朱色の点とも一致します。ただし、平安将棋の段階では、桂馬は踊りの動作を持たなかったものと考えます。

 

ところで、桂馬と類似した動きを持つ飛龍の駒も、二中歴に出てきます。動きは「行四隅超越」、これを角行の動きだとするのが通説のようです。平安大将棋では、桂馬の上にあった飛龍(=角行の動き)、それが、後になって、桂馬の上に角行、というおなじみの形になるわけで、飛龍の動き=角行の動き、と解釈したのも納得はいきますが、私はそのように考えていません。

 

「行四隅超越」については、前後ななめ二目の踊り、と考えています(踊りについては、投稿76にまとめていますが、踊りの件、これ以降にも多少の進展があります。この件、まだ未投稿ですが、早々に投稿します)。ともあれ、「超越」という記述が絶妙かも知れません。

 

超と越の漢字の意味ですが、次のとおりです(たとえば、漢辞海を参照下さい)。だいたい同じなのですが、越え方が違うようです。

超:飛んで超える

越:飛ぶのではなく、踏んで越える

 

ですので、角行のように、ななめにどこまでも進むという解釈はむずかしいでしょう。もし、超の一文字だけで、行四隅超、のように書かれていたら、ななめ後ろにも飛べる桂馬のイメージでしょうか。しかし、行四隅超越、と書かれている。なぜでしょう。越を使うことで、踊りの動作を表わしたかったのかも知れません(投稿76を参照下さい)。まず、ななめ一目の駒の上に乗る感じです(つまり、駒をとることができるわけです)。乗った上で、越えていくのですから、二目まで進みます。超越は、超す、または、越すという意味で、味方の駒なら超す、敵駒なら越すということなのでしょう。全く踊り駒の動きそのもの、象棊纂圖部類抄に書かれている飛龍の動きそのものです。

 

ここで、平安大将棋の初期配置を思い出して下さい。香車の上に奔車、桂馬の上に飛龍です。香車の上に、後ろにも行ける香車(=奔車)を置いた、桂馬の上に、後ろにも行ける桂馬(=飛龍)を置いた、ということです。この整然とした配置!

 

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コメント: 1
  • #1

    長さん (火曜日, 16 9月 2014 09:16)

    この件、この3連休中に大分考えました。通説で良いと、私は結論しました。
    桂馬。「角につき頭2方2目。但し1目めは行かない」の(象戯図式の書き方での)鳳凰斜め方向型の動きだとしたら、二中歴の著者なら「桂馬上二方超一目」と書く(金将の説明から見て「角上二方」の「角」は省略する癖がある。)と推定されました。このケースは「方」等の字をどこかに入れないと、向きを表すのは困難だと、私は思います。「前」は、他の駒の動きの一文字の書き方からみて、やはり、「前升目」の省略じゃないのでしょうか? 次の「角」は、角頭二目の「頭(上)二目」が、御説のように省略されています。ここで「究(下)二目」を考えなくてよいのは、「超」で向こうに行かなければならず、「究二目」だと、「両脇」の升目に戻ってしまうので、考えなくて良からだと私は思います。なお「超」は、「山を持って川を超える(のは無理)」との意味の諺の使い方から、跳び超えるではなくて、「それより向こうへ行く」を意味する動詞と解釈しました。「前の一升目よりは向こうへ行く」の意味ではないか。よってやはり、通説で一応合っているのでは。このケースはむしろ、シャンチーやヂャンギの馬のように、「塞馬脚ルール」が、日本の将棋にも昔は本当に無かったのかどうか、普通唱導集の小将棋の棋士の喜びようから、むしろ心配した方が良いかもしれないと思いました。
    飛龍。「四角」では無くて「四隅」として、方角を表そうとしているのではないでしょうか。そして超越の「越」は目的語で、「その方角にある(真っ直ぐに走って行ける)任意の升目」の事だと、私はやはり思います。「越」は「走り越える者ども(例:越人)」の意味ではないのでしょうか。したがって「超越」は「その方角にある(真っ直ぐに走って行ける)任意の升目を更に超える」では。要するに、無限大の定義と同じで、どんな真っ直ぐに走る升目も超えて、「それより向こうへ行け」るのですから、「幾らでも走る」と言っているような気がします。こっちも、通説の訳し方で、合っているように、私には思えましたが。