2014年

9月

16日

112)中将棋と大将棋と摩訶大将棋:その成立順の考察

本ブログは、摩訶大将棋の復刻を第一の目標としていますが、復刻には、各種大型将棋の成立時期の問題と強く関係してきます。そこで、本稿にて、まず、その問題をはっきりさせておこうと思います。これまでに何度も取り上げてきた話題ですが、重要な問題ですので、現状の考えをまとめてみました。

 

古代の将棋は、文献資料が非常に少ないため、議論が空想の方向に膨らみがちですが、それを極力さけるため、ここでは、中将棋、大将棋、摩訶大将棋の3つの将棋だけに絞って、その成立順を考えてみます。なお、ここで言う大将棋とは、象棊纂圖部類抄に記載されている大将棋のことです。これまでの投稿のコメントでは、古文書に記載のない大将棋の存在を想定した上でのコメントもいただいていますが、その問題は、後日にゆずるとし、まずは、単純に、象棊纂圖部類抄の中にある3つの将棋だけでいきます。この3つの将棋の成立順だけを考えたいと思います。

 

私自身は、摩訶大将棋がかなり古式な将棋だと考えます。結論は、次のとおりです。

摩訶大将棋 --> 大将棋 --> 中将棋

 

もちろん、本ブログのこれまでの考えと全く同じです。むしろ、干支が駒の名称にきちんと現れていることで、一層強くこう考えるようになりました。年内に学会でも発表予定ですが、その前に、本ブログにて発表し、できれば、きびしいコメントをいただきたく思います。投稿101)にも類似の投稿をしましたが、そのときにいただきましたコメントも(私のコメントもそうですが)、それ以降に、いくつか発見的なことがありましたので、補足があるのではないでしょうか。一番大きいのは、駒の名称と伎楽面との対応がわかったことです。古代の舞と踊り駒が対応していたのです(投稿108に書いています)。神事であった可能性、古い時代での成立の可能性がさらに強くなったと考えています。

 

以下、理由を列挙します。摩訶大将棋の成立が、大将棋や中将棋よりも古いとした理由です。

 

1)陰陽道との関わりの強さ

古代の将棋には、干支(十二支・十干)との関わりが強く見られ、これは、当時盛んであった陰陽道の影響と思われる。摩訶大将棋には、陰陽道が強く現れており、中将棋には、陰陽道らしさが見られない。陰陽道は、中世では、次第に廃れていったが、中将棋の成立は、その頃だったのではないか。多少とも呪術らしさを残す大大将棋、泰将棋よりもさらに後の時代の成立かも知れない。

 

2)師子と狛犬のペア

師子と狛犬は、古文書を調べるにつけ、やはり、ペアで現れるのが自然である。大将棋や中将棋で、師子単独で導入されたと考えるよりも、導入当初はペアであったが、大型将棋が駒数を減らして発展していった段階で、狛犬が落とされたと見る。ペアが揃う摩訶大将棋が古式であろう。

 

3)神事としての整然さ

摩訶大将棋の駒には、十二支が揃い、伎楽面が揃い、走り駒が一列に並び、踊り駒が一列に並び、将の駒も系統的に並ぶという非常な整然さを見せている。これは、陰陽道の神様(もし、そういう存在が認められていたとすれば)への奉納のようにも思われる。舞楽や相撲や双六のような存在だったかも知れない。摩訶大将棋の立馬略頌は、奉納のための歌だった可能性もある。一方で、中将棋はピュアなボードゲームであって、初期配置には整然さが見られない。

 

4)桂馬がない

中将棋には桂馬がない。桂馬がある摩訶大将棋、大将棋の前に、中将棋の成立を想定するのはあまりに不自然である。駒がなくなるのは、発展の終着に限られ、発展途上でなくなった例がない。

 

5)酔象の成り駒

摩訶大将棋は王子、中将棋と大将棋は太子。平安時代、鎌倉時代の物語に使用される単語の頻度から確率的に考えれば、摩訶大将棋が古式である可能性が大きい(投稿103に書いています)。

 

6)象棊纂圖部類抄の序文

下象其形於地理列以金銀鉄石之名(投稿102)とあり、鉄将、石将を持つのは摩訶大将棋と大将棋である。その他にも、「摩訶大大の陣面」、「桂馬を憩う」、「日月星辰」等の語句に見られるとおり、摩訶大将棋を中心にして書かれている。この序文は、将棋の本質、将棋の歴史を語ろうとした文面であり、もし、中将棋が原初の将棋だとするなら、このように中将棋を無視したような記載にはならないはず(この件、本稿にて初出)。

 

以上、主要な理由です。いかがでしょうか。

上記の6件につき、個々の反論はあるかも知れません。しかし、逆に、中将棋が摩訶大将棋よりも古式と見るべしという理由、それを積極的に示す事柄が、私には思いつきません。通説は、大将棋が中将棋に先行するというもので、通常取り上げられるいくつかの理由(文献のあるなし等)だけですと、通説は妥当でしょう。ただし、通説では、摩訶大将棋は考えの中に入れられていません。当然、後でできたものと思われていた(そう直観されていた)からです。摩訶大将棋に陰陽道(つまり、干支)が見られるという仮説はごく最近になって現れた考え方です。

 

上記の6件以外にも、玉将のちょうど前に狛犬舞、師子舞があることや、伎楽の力士舞の面の駒が全部、踊り駒であること、成り駒の問題等、摩訶大将棋が古式な方に傾くいくつかの理由がありますが、これらは、まだ未投稿ですので、省いています。

 

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コメント: 68
  • #1

    mizo (火曜日, 16 9月 2014 04:49)

    念のため、ここでいう「中将棋」「大将棋」「摩訶大将棋」は、記載順で、①「中象戯」、②「大象戯」、③「摩訶大〃象戯」のことですね。「大将基」のことではないですね。
    私の考えは、繰り返しになりますが、成立順は①②③です。ただし、①がもとになって②になったとは考えていません。別の、原②(『普通唱導集』から存在を推定)という大将棋があり、それから①(大将棋の系列ではない)が生まれた。原②に①の要素を取り入れて②ができた。②から③ができたと考えています。下に図示します。前後は省略し関係部分だけです。
    大将棋の系列 原② → ②(①の影響を受ける) → ③
           ↓
    中将棋の系列 ①(横8枡の小将棋の影響もうける)
    私の考えはともかく、先生のお考えですと成りの進化の説明が困難だと思います。
    ①では、それぞれの駒は必ず別名への成りを持ちます。(歩兵が金成り)
    ②では、「酔象」「鳳凰」「麒麟」についてのみ成りの記載があります。
    (私はその他の駒は、原則金成りだったと思います)
    ③では、金成り、奔×への成り、別名への成りの3種があります。
    先生のお考えでは、遊戯としての手軽さから縮小されていったとのことですが、③の簡便で面白い、奔×への成りはなぜ消滅したのでしょうか。「自在王」という、勝負を長引かせず不利になっても一発逆転が狙えるアイデアはなぜ消えたのでしょうか。
    また、先生のお考えですと、①になって突如「飛牛」「奔猪」「飛鹿」「鯨鯢」「白駒」「飛鷲」「角鷹」が現れるのでしょうか。特に「奔猪」は③にも表れますが、わざわざ『三方也』(転記の混乱により『ミユカ也』に見えますが、①で六方に走るとなっているため、それと混同しないように)と添え書きがあるのでしょうか。
    先に③があれば、①の創作時にわざわざ同名で動きの違う駒を創る必要はありません。こうなった理由は先に①があるにもかかわらず、③創作時に「嗔猪」の成り駒をルール通りに創るため「奔猪」の名称を付けざるを得なかったためというのが合理的な推定ではないでしょうか。
    論点はいろいろありますが、ひとつずつ疑問を提出します。

  • #2

    長さん (火曜日, 16 9月 2014 10:35)

    了解しました。私は①が最初。かなり遅れて③②で行って見ます。
    基本的にはmizoさんの考え方に賛成。
    根拠としては文献初出が、中将棋は南北朝時代。後期大将棋と摩訶大(大)将棋が、象棊纂圖部類抄の記載(室町時代が通説)で確定と、認識しているからです。まあ、中将棋は比較的簡単なものなので、図が無くても、少なくとも駒の表の名前と初期配列についは、変化がない物なのでしょう。西暦1400年を境に、「趣味としての将棋」が急に勃興したようですしね。

  • #3

    T_T (水曜日, 17 9月 2014 01:16)

    mizoさんへ(#1)
    コメントありがとうございます!!

    将棋の種類の件、大将棋(15マス)と書くべきでした。象棊纂圖部類抄では、泰将棋/延年大将棋のことも、大将棋と書かれてますので、まぎらわしかったですね。

    いただきました論点、成り駒を手掛かりに成立順を推定するという試みですが、この論点は、どちらかと言えば、中将棋の成立が遅かったという方向に傾くのではないでしょうか。この件、投稿77)と、そのコメント#2にても取り上げています。以下は、そこに書かれていない、多少とも心情的なことについて書いてみます。

    駒が「成る」という意味あいは、すでに将棋世界に存在する(つまり、盤面上にある)、強い駒、立派な駒になるということでしょう。ですので、基本的には、成ろうとする対象(成り駒)は、表の駒として存在していなければなりません。麒麟が師子に「成る」ということは、成ろうとしている、強い師子がそこにいるからなのです。

    鳳凰が奔王に成る、歩兵が金将に成る、同じくそういうことです。師子、奔王、金将は、つまり、一般の駒々にとっては、目指すべき駒であって、だから、その駒が終着点、つまり、師子、奔王、金将は、本来的に、どれも不成りの駒です。このことにもすごく納得がいきます。古代や中世初期の将棋には、このように、はっきりとした将棋の世界観が感じられるのです。

    ただ、いくつかの例外はあって、摩訶大将棋には、蝙蝠や仙鶴等への成りがありますが、これは、表の駒からの自然なパワーアップと考えられますので問題にはなりません。また、王子/太子への成りも考えにいれなくていいでしょう。奔駒は、成りの簡略化で、これも本質ではありません。

    さて、ここで、中将棋の駒の成りを考えます。たとえば、飛牛、鯨鯢、白駒、飛鷲、角鷹への成りを、この何の脈絡もない唐突さを、どう説明するのかということになります。ここには、世界観や、将棋の整然さというものが、ほとんど感じられません。しかし、それは、別にかまわないのです。中将棋は、アミューズメントとして、ボードゲームとして、成立したものと考えれば納得がいきます。私は、古代の将棋が何らかの神事、奉納に関係したものと、考えていますので、そういう雰囲気を見せていない中将棋は、ずっと後世のものだろうと思うわけです。上記本稿で、理由として挙げました1)陰陽道との関わり、3)神事としての整然さも、本コメントの内容とつながるものとお考え下さい。

    なお、飛牛、鯨鯢、白駒、飛鷲、角鷹の名前は、成立当時にすでにあったと思われる泰将棋の駒です。これらの成り駒も、やはり、すでに存在していた表の駒から選んだものと思われます。泰将棋は延年に使われた将棋でしょうから(指すための将棋ではなかったので)、駒の動きは、どうにでもなったのでしょう。この駒の成りは、こういう名前にしてみよう・・・、そんな決め方ではなかったはずです。逆に、中将棋で、はじめて、飛牛、鯨鯢、白駒、飛鷲、角鷹の駒が創案されたとした場合、そう主張する論拠が何かありますでしょうか。

    以下、個々の件への返信です。摩訶大将棋から駒数を減らしたのは単純化ということです。中将棋で成りや師子のルール等いろいろと策定したのは複雑化です。どちらも、面白くしようという試みでので、単純化と複雑化が混じっても、特に矛盾は感じないです。奔駒がなくなったことも同様で、特に、問題は感じません。自在王については、実際の対局上、勝負に無関係ですので(自在王になって大逆転という勝負、ありません)、これも論点にならないように思います。

    1点、奔猪の件のみ、十分納得がいきます。今すぐの反論はできません。ただ、私の主張の大筋は、摩訶大将棋と中将棋、どちらが陰陽道に近いかという点にありますので、奔猪の件だけで、この大筋が崩れてしまうというものではありません。

  • #4

    T_T (水曜日, 17 9月 2014 01:38)

    長さんへ(#2)
    コメントありがとうございます!!

    文献にあるなしから中将棋が先に成立とのお考え、了解いたしました。ただ、文献に出てきたとき=その将棋が成立したとき、という考え方が全くわかりません。

    写本ではありますが、仮に原本も1443年だとして、1443年に、摩訶大将棋が存在したことは確かです。しかし、摩訶大将棋の成立が、そのあたりだとお考えになるのは、なぜでしょうか? 1443年の段階で、その本の著者が全貌を知らず、口伝として書いているぐらいですから、ずっと以前と考えていいだろうと考えます。

    また、摩訶大将棋の駒には、伎楽面の名称が駒に使われていますので、その痕跡がなくなっていたと思われる室町時代での成立はあり得ないと考えます。同様に、十二支の駒が、陰陽道を非常に強く感じさせますので、この点からも、陰陽道の希薄な室町時代での成立はあり得ないのではないでしょうか。

  • #5

    長さん (水曜日, 17 9月 2014 08:42)

    コメントありがとうございます。
    大将棋は、ちびちび変化し、大将棋という名称を保ったまま、いくつもの別の大将棋に変わったと私は考えています。普通唱導集の時代の大将棋が指され、ついで、廃れた時代の直後には、棋士が普通唱導集時代の大将棋をまだ覚えているので、後期大将棋には「大将棋」という名称が付けられないと考えます。つまり、西暦1300年頃より100年位は、皆が13升目の大将棋を忘れるように、(13升目か15升目か、思い出せない程度に)ほとぼりを覚ます必要があると考えます。そこで後期大将棋の発明は、どう早く見積もっても、西暦1400年よりは後で間違いないと思います。私は摩訶大将棋は後期大将棋と類似型であり、ほぼ同時期発生と見ているので、摩訶大将棋も、発明は西暦1400年以降と考えます。
    それに対し、西暦1400年には、楽しみとしての将棋が流行り始めており、初期配列で獅子の有る中将棋の成立が原因の隆盛と考えれば、中将棋(原型)の発明は、西暦1350年程度で、西暦1400年より前だと見られます。西暦1300年頃に普通唱導集の大将棋があり、西暦1350年にはまだ、ほとぼりが冷めておらず、12升目は13升目より1升目小さく、駒数92枚は駒数108枚よりは16枚少ないため、その新型将棋は大将棋とは別の名称「中将棋」になったのだと思います。
     よって、どう早く見つもっても、摩訶大将棋の発明は、西暦1443年より、非常に早くはないと私は考えます。

  • #6

    mizo (水曜日, 17 9月 2014 09:05)

    先生のお考えに対する疑問
    「1)陰陽道との関わりの強さ」
    そもそも、陰陽道とは、呪術・占術の技術体系です。その道具として式盤を使ったようです。方形の地盤の上に、回転する天盤をおいて、占いや呪いにに使ったようですが、将棋盤とは関連がなさそうです。指南と呼ばれる匙形の磁石を置いたりしたようですが、八将神なども、将棋の駒とは関係がなさそうです。十二支を動物名に当てはめたもの(身近な動物)が駒名にあるからといって陰陽道で使われたとはにわかには信じがたいです。身近な動物名ですので、偶然の一致ではないかと思います。

  • #7

    長さん (水曜日, 17 9月 2014 10:08)

    伎楽面の名称。陰陽道・・、というのが、私宛の返信にもありましたね。
    追記します。
    「伎楽が室町時代の特に前期には、既に廃れている。」とは、ようするに、室町時代の知識人の脳裏に、伎楽はないとの意味でしたら、承服しかねます。観阿弥や世阿弥が、伎楽を室町時代の1443年より少し前に、知識人の間に広範に普及しなかったとは考えにくく、活動地域の広かった、観阿弥や世阿弥の影響下から外れた室町時代の知識人というのも、有り得にくいのではないかと私は思います。これの有る無しが、指標にはならないのでは。
    十二支と、陰陽道ですが。
    摩訶大将棋に、ベトナムの十二支は確かにあるようだと思います。ただし十二支の駒は、陰陽道ではなくて、暦との関連をより強く、私には感じさせます。ひょっとして摩訶大将棋と関連が有るのは暦であって、陰陽道では無いのでは。これは異性庭訓往来の「1年360日程度の日付の名前に則る」との複雑将棋の記載と、単に、つじつまを合わせて摩訶大将棋が、それから早くて約100年後の1443年前後に、作られているだけの事情ように私には見えますが。

  • #8

    T_T (木曜日, 18 9月 2014 00:31)

    コメント#3の下から3段落目、別の意味にも読めますので、次のように修正します。文章の内容は同じです。

    ------
    なお、飛牛、鯨鯢、白駒、飛鷲、角鷹は、泰将棋の駒です。これらの駒は、中将棋では成り駒です。中将棋の成りを決めるとき、当時すでに存在していたであろう泰将棋の駒の中から選んだものと思われます。泰将棋は延年に使われた将棋でしょうから(指すための将棋ではなかったので)、駒の動きは、どうにでもできたでしょう。
    ------

  • #9

    T_T (木曜日, 18 9月 2014 01:01)

    長さんへ(#5#7)
    コメントありがとうございます!

    まず、伎楽の件ですが、1400年代では、おそらく誰も伎楽面のことを知らなかったでしょう。伎楽が盛んだったのは奈良時代です。その後、平安時代には舞楽へと移り、鎌倉時代前後から、猿楽やその他の舞があり、能楽へと完成させたのが観阿弥、世阿弥ということになります。仮に、室町時代になって、摩訶大将棋ができたものとしましょう。作者は、どういう経緯で、はるか昔の伎楽の面の名前を、駒にしたのか。何かいい説明、お持ちでしょうか。

    当たり前の考え方をしますと、成立当時に、盛んだった舞から名前を取ることになります。平安時代以降でも、廃れつつあったとは言え、伎楽はまだ存在していたでしょう。駒に伎楽面の名前があることから、平安時代、鎌倉時代初期あたりまで下って、摩訶大将棋の成立を考えて大丈夫かも知れません。ただ、ひとつの可能性として、もっと遡る方での成立を、つまり、天平時代での成立を考えてみるのも、面白い想像ではあります。

    事実、752年の大仏開眼供養には、摩訶大将棋の踊り駒の面々が、本当に舞っていたわけです。投稿108)の図をご覧下さい。8つの踊り駒は、中央の一番いい位置を占めています。摩訶大将棋の序盤では、羅刹、力士、狛犬、金剛、夜叉の3目の踊り駒が気持ち良く舞います。対局されている方なら、この盤面の舞いのことも、十分にご存知かと。

    次に、十二支の件ですが、駒には十二支が確かにあると、そう認めていただくだけで、それだけでもう十分です。この件、簡単にですが、すぐ投稿いたします。それと、暦である、しかし、陰陽道とは無縁であるという考え方は成立するのでしょうか。暦は陰陽道の一部です。暦を意識した時点で、その人は、陰陽道の中にいます。

  • #10

    T_T (木曜日, 18 9月 2014 01:50)

    mizoさんへ(#6)
    コメントありがとうございます!

    摩訶大将棋は陰陽道のツールです、と言ったとき、私は式盤を意識したわけではありません。もう少し、広い範囲の、ぼんやりとした陰陽道のエッセンスのようなものを指していると思っていただけたらです。この件、早々に投稿いたします。

    十二支の件ですが、偶然の一致と、そう言っていただけるだけで十分です。十二支の駒がある、よって、陰陽道だということではなく、五行思想があり、陰陽のペアがあり、干支(十干・十二支)があって、陰陽道ということになります。ただ、象棊纂圖部類抄の序文冒頭には、将棋は陰陽道だと、きちんと書いてあるわけです。ですので、十二支があったからには、たぶん、十干もあり、陰陽もあり、五行相剋のようなものもあるのだろうというのがスタートでした。そのとおりに、やはり、十干もありそうです(現状、おおよその解明で、まだ全容の解明ではありません)。

    このように、十二支の駒は、偶然に揃っていたというわけではありません。このことは、投稿108)の図で、青のマス目(十二支の駒)が、左右きれいに配置されていることからもわかります。つまり、設計された配置、仕組まれた配置なのです。摩訶大将棋の中に、十二支が組み込まれています。

    なお、八将神はまだ考えていませんが、八部衆は摩訶大将棋の駒と対応しているようです(まだ、投稿していません)。興福寺の八部衆です。将棋の起源に、興福寺が関わっていたというシナリオは、十分にあり得るでしょう。たまたま、興福寺の僧侶が、将棋の駒を作っていたと、そういう単純な話しではなく、もっと深い何かがあったのでしょう。

  • #11

    mizo (木曜日, 18 9月 2014 05:52)

    コメント続けます。
    2)師子と狛犬のペア
    中国では、獅子が単独で扱われるなら、中国の文化的影響を受け続けた日本で、獅子が単独で先に登場しても問題ないと考えます。ただ、私には唐獅子牡丹程度の知識しかないので、印象批判にすぎません。

    3)神事としての整然さ
    中将棋も整然としていると思えます。端の香車奔車、中央にペアの駒(形式的ではなく、本将棋の飛車角行配置につながる絶妙のバランス配置)一段目に一目移動の歩き駒。三段目に走り駒配置、二段目は一段目系列の盲虎と三段目系列の角行が入ります。縦横に関連駒が並ぶ。息をのむ美しさです。

    4)桂馬がない
    私の考えでは、①中将棋→②大将棋ではないので、不自然ではないと思います。中将棋を発展させたものは、天竺大将棋です。将棋の発展を一次元的に限定する必要はないと思います。

    まずは、ここまで。

  • #12

    長さん (木曜日, 18 9月 2014 09:20)

    御質問に答えます。「摩訶大将棋の作者が、どういう経緯で、はるか昔の伎楽の面の名前を駒にしたのか。」の説明ですが。
    伎楽は全編演技の中身が、能の一つの題目程度も無い短編芸能です。室町時代、能の啓蒙家としても知られる世阿弥とその次男の元能が、「間違って能の先祖とされる芸能」として、散楽と一緒に、口頭で、知識人との会合、講演の席等で、伎楽の内容を紹介し、結果として普及していたと私は考えます。著書である世子六十以後申楽談儀に、「猿楽とは申楽、神楽であり、『散楽』のような物まね等、下世話のものではない。」との旨を、冒頭で書いているからです。これは口頭講演、ないし会合後にそれを聞いていた知識人から、「能は、散楽や伎楽等、大昔の宮中で、雅楽寮に居た芸人が演じた物が起源ですか」との質問を、世阿弥らが度々受けていたと言う事を、示していると思います。その手の質問が有った為、雅楽寮で演じられた散楽、伎楽について、概略口頭で内容説明するとともに、能との違いを解説。結果として伎楽を、彼らが広報していたと考えるのが至極自然です。
    従って室町時代に、現代でいう、世阿弥か元能の講演、参加会合等に、たまには居合わせた事のある程度の、教養をもつ摩訶大将棋作者の知識人、またはその親・祖父母等の親類縁者は、伎楽の登場人物を、世阿弥から聞いたか、元能から聞いたか、講演内容から触発されて当時の記録を調べたか、何れかの方法、何れの方法でも、それを知り得たと考えるのが、全くもって自然だと私は思うのですが、どうなのでしょうか。

  • #13

    長さん (木曜日, 18 9月 2014 15:05)

    暦の件、御返事忘れました。
    以下偏りある見方かもしれませんが。陰陽道と包含関係があるのは、暦ではなくて暦注ではないかと思います。個人的にはそのような言葉の使い分をしています。ベトナム十二支の動物は、私のイメージでは、「暦日名の順序数詞の要素の意で、駒としてワンセットで揃えている。」です。暦注の基準になる「日の十干十二支の片方の要素として、象徴するため揃えて」はいないと思っています。駒名が暦の日付名に、ちなむような日本の将棋が、1年360日という数値関連で、「南北朝時代には在った」とはされていた事が原因で、摩訶大将棋で、ベトナム十二支名の駒が揃ったという解釈です。陰陽道の占い呪術等には、この十二支は直接は関係なしというのが、私の見方です。

  • #14

    mizo (金曜日, 19 9月 2014 22:15)

    最後です。
    5)酔象の成り駒
    王子と太子、太子は跡継ぎの意味がある。太子は王の働きができるが、王子はできないとするのが妥当だと思える。中将棋で始まった太子成りは、駒の多い大将棋系列では持て余したのであろう。

    6)象棊纂圖部類抄の序文
    私は、大将棋系列の最高峰は「摩訶大〃象戯」だと思います。「小象戯」「中象戯」は系列が違うので、比較できません。象棊纂圖部類抄は大将棋系列の将棋類を中心として構成されています。

  • #15

    T_T (金曜日, 19 9月 2014 22:33)

    mizoさんへ(#11)
    コメントありがとうございます!

    師子の件、師子が中国で単独なら日本でも師子の駒は単独でもOKとのことですが、それは、師子の駒を含めて将棋が伝来した場合は、そうだと思います。しかし、将棋は伝来してから、日本でさらに発展しています。その場合、日本流に倣うのではないでしょうか。将棋だけでなく、たとえば、仏教も、道教も、そういう感じですから。

    それと、中将棋の成立時期の件も大きいです。mizoさんの説では、普通唱導集に記述される将棋よりも後ですから、早く見積もっても、鎌倉時代前期でしょう。そのころは、日本のどこも、狛犬と師子のペアです。物語の中でもそうです。中国で師子が単独だから、日本でも単独である、というような事実は見られません。

    駒の並びの整然さの件、摩訶大将棋が整然だと認めていただければ、それで十分なように思います。ところで、中将棋のもつ整然さのことですが、これは、主観もありますので、何とも言えませんが。。。走り駒の三段目に師子が混じっています。二段目に走り駒の角行が入っています。一段目の将の列に猛豹が入っています。両端が、車の列になっていません。合戦上、端は車の列でないと、と思います。

    桂馬の件ですが、大型将棋の発展は、やはり一系統でしょう(小将棋の発展は別系統だと思いますが)。大型将棋の発展を、並行した二系統だったと考えるのは、桂馬が途中で消えるという不合理を補うための理由、という印象を受けてしまいます。発展が二系統だったと考えなければならない、何か決定的な根拠はありますでしょうか。もちろん、二系統だった可能性もあり得るでしょうが、単に可能性というだけです。

  • #16

    T_T (金曜日, 19 9月 2014 23:00)

    長さんへ(#12#13)
    コメントありがとうございます!

    すいませんが、どちらも納得しがたいご意見です。特に、伎楽の方、たぶん、空想のシナリオかと思うのですが、それを裏付ける何かがないと仮説としては、きびしいのではないでしょうか。たとえば、世阿弥が伎楽の面を持っていたとか、です。それと、ご提案のシナリオが、伎楽だけでなく、散楽にも、舞楽にも、適用できてしますのが難点です。伎楽を持ち出す特殊性がありません。

    ところで、駒数360の将棋は、泰将棋を指していると思うのですが、そうではなく、何か別の将棋を想定されておられるのでしょうか。通説は、完全に泰将棋だと思います。そして、泰将棋には摩訶大将棋の駒のほとんどが含まれていますので、ずっと後で、摩訶大将棋ができたということは考えずらいです。

  • #17

    T_T (土曜日, 20 9月 2014 00:17)

    mizoさんへ(#14)
    コメントありがとうございます!
    本稿の6項目ともにコメントをつけていただきまして有難い限りです。

    摩訶大〃象戯=摩訶大将棋、ということで問題ありませんでしょうか(どちらで呼んでもよいということで)。私が頼っているのは、象棊纂圖部類抄だけだというのに、そこにある名称を、当初より使ってきませんでした。大大将棋より後にできた、もっと大きな将棋、よって、「摩訶」大大将棋、というのが、おそらく、象棊纂圖部類抄の著者の命名なのでしょうが、そうでなく、大大将棋よりも先にできた(mizoさんの説)のが確実で、また、大将棋よりは後にできたのだから(その時分は、そう思っていました)、むしろ、「摩訶」大将棋、と呼ぶのが妥当と考えたわけです。事実、水無瀬兼成も、象棊纂圖部類抄では、摩訶大将棋と書いているところもあり、他のいくつかの古文書で、やはり、摩訶大将棋という語句が使われています。

    ところが、今となっては、摩訶大将棋は大将棋よりも前にできていた可能性が大なのです。そうすると、摩訶大将棋という呼び名の、摩訶の意味がどれほど重要なのか、ということにもなってきました。

    脱線してしまいました。。。

    中将棋は大将棋系列とみなした方がいいように思うのですが、いかがでしょう。小将棋で使われてる駒の比率よりも、大将棋で使われている駒の比率の方が断然大きいからです。ただ、こういうことは、些細なことで、もう、どうでもいいのかもです。

    -------
    mizoさん、長さんへ

    結局、摩訶大将棋と中将棋、どちらが早く成立していたのか。この答えですが、私は、摩訶大将棋、mizoさんと長さんは、中将棋、ということで、現状、よろしいでしょうか?

    3人とも頑固ですので、たぶん、永久に譲りません。だから、本ブログで、満場一致、100%確定の結論は出せそうにありません。ですので、今後は、ひとまず、摩訶大将棋が中将棋よりも早くに成立していた可能性もある(可能性30%)、と書かせていただきます。

    いやいや、そんな可能性はゼロに近い、と思われている場合、是非、引き続き、コメントお願いできませんでしょうか。できれば、私としましては、
    摩訶大将棋が中将棋よりも早くに成立していた可能性30%
    中将棋が摩訶大将棋よりも早くに成立していた可能性70%
    を決議して、先に進むことができたらと思っています。

    -------
    本ブログに定期的にアクセスしていただいている皆様へ
    ありがとうございます!!
    別の考え方、新しいアイデア等ありましたら、
    短いコメントにてご紹介いただけませんでしょうか。

  • #18

    mizo (土曜日, 20 9月 2014 23:11)

    高見先生のご厚情にあまえて112になりましたね。ここらでと思います。
    最後に、今回の先生の十二支のお話、私流に再解釈するとこうなります。
    摩訶大〃象戯には金成り不成りではなく「奔×」成りでもない駒が少しあります。「玉将」「醉象」「提婆」「無明」「麒麟」「鳳凰」以外の駒は、「古猿」「淮鶏」「老鼠」です。それほど強くない駒ですが特殊成りです。この3種の駒、あるいは「臥龍」「蟠蛇」という一枚駒。これらの大象戯以後に付け加えられた弱い駒たちは、十二支から取られたという可能性が高いと思います。特に「臥龍」「蟠蛇」と「古猿」「淮鶏」は配置から見ても対で、蓋然性が高いと思います。私なりの発見のきっかけを与えてくださってありがとうございます。

  • #19

    yama (日曜日, 21 9月 2014 10:48)

    はじめまして。いつも興味深く読ませていただいております。
    摩訶大将棋先行とした場合に、一つ気になることがあります。師子、狛犬はペアなわけですが、それに成る駒は師子が麒麟、狛犬はなしです。これは、元々鳳凰の成りは狛犬で、これが取り除かれた時に成りが奔王に変わったとでも考えるのでしょうか?

  • #20

    T_T (月曜日, 22 9月 2014 03:02)

    mizoさんへ(#18)
    コメントありがとうございます!

    今後は成立順の可能性について、ぶつかりあいとなりそうですが、のんびりと、ゆったりとよろしくお願いいたします。何しろ1000年ほど経ったあとの話しですので。。。

    とは言え、私も最後に1点、書かせてもらいますと、十二支の駒は一気に取り入れられたのでなければ、十二支を入れたということには、ならないのではないでしょうか。大将棋(15コマ)の中には、十二支の一部だけがあります。揃っていた十二支の駒が、削られたと見るわけです。それと、大将棋も師子単独です。師子単独の理由がはっきりしない限り、大将棋が先という考えは難ありと考えています。

    摩訶大将棋よりも中将棋が先という積極的な理由を、ブログまたは研究会にてまとめて発表していただけると有難いです。是非お願いいたします。

  • #21

    T_T (月曜日, 22 9月 2014 04:12)

    yamaさんへ
    コメントありがとうございます!

    いただきましたコメント#19、大変うれしく思っています。実は、すでに研究室内では、鳳凰の成りは狛犬ということで、対局を続けています。復刻は今も進行中ですが、かと言って、たびたびルール変更のアナウンスをするわけにもいきません。ただ、今年の秋の対局会に向けて、1)鳳凰の成りは狛犬、2)狛犬は不成り、3)麒麟と鳳凰は踊り駒、とアナウンスする予定です。この件、近日中に投稿し、その理由も書きます。

    ところで、鳳凰の成りは狛犬です、と宣言するには、多少つらい点があるわけです。象棊纂圖部類抄には、成りは奔王だときちんと書かれているわけですし、実際に中将棋では、その通りに伝わっているからです。しかし、摩訶大将棋を指されている方は、成って奔王になっても仕方ないということ、これは実感として十分お分かりかと思います。奔金、奔銀、奔豹・・・等々とさほど変わりませんので。一方、麒麟が師子に成るのは、かなり大きいことです。麒麟と鳳凰の、このアンバランス感は、ずっと問題に思っていました。

    yamaさんの推理と、研究室の推理は、たぶん同じだと思います。摩訶大将棋から大将棋(15コマ)が作られたとき、狛犬を落として、鳳凰の成り先を、やはり不成りだった奔王に変えたものと思われます。このことを主張する前提として、摩訶大将棋が先行したという結論は絶対に必要で、今年の本ブログにて、中将棋・大将棋との成立順に拘っているのは、このためです。

    ともあれ、一連の投稿を読んでいただき、その賛否は別としても、鳳凰の成り=狛犬、という可能性を感じていただいたこと、大変うれしいです。本ブログのシナリオは、全部がそのまま正解とは言い切れませんが、かなり客観的に思索を進めているつもりですので。

    本稿のコメント#3にて、成ることの意味あいを書きましたが、それと同様、不成りだということもまた重要でしょう。奔王、狛犬、師子が不成り、そして、あと2駒、龍王と龍馬が不成りです。ところが、摩訶大将棋には、龍王と龍馬に成る駒がないのです。これは、かなりなサスペンスです。ここで、古文書が書き間違っているのだとは、あまり言いたくありません。龍王になる駒はどこにいるのか。摩訶大将棋ではない、別の将棋にいたとして、それは、平安大将棋の飛龍だったのか、それとも、小将棋の飛車なのか、そうだったとすれば、現代の将棋の配置だけは、以外に早くに決まっていたのかも知れません。ただ1点、確かなのは、中将棋の龍王が、飛車の成り先として選ばれた可能性はかなり小さいだろうということです。中将棋の龍王は、不成りではありません。中将棋が遅くに出現したことの表れが、またここにも見られるのです。

    話題が流れてしまいました。こうした不成りの件も、また後日に投稿いたします。yamaさん、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

  • #22

    長さん (月曜日, 22 9月 2014 10:01)

    散楽でも、神楽でも、能ではなくて、摩訶大将棋の作者にとって伎楽なのは、作者が仮に、お寺の関係者(曼殊院内部の人間がが怪しいと私見)と仮定すれば明らかです。これらの中で伎楽だけが、仏教の宣伝用な為です。たとえば伎楽を朝廷に持ち込んだのは、仏教の保護者、聖徳太子との伝説も有ったように思います。室町時代であっても戦国時代であっても、摩訶大将棋がお寺の坊さん作なら、これらの中で、伎楽のキャラクターを、優先的に駒名に取り入れるのは、ごく自然な姿だと私は思います。(これも示準化石ではなくて、示相化石説。)
    360の数字に関しては、通説に、個人的に疑いを持っています。
    それこそ、異性庭訓往来の記載は曖昧で、後半も駒の数を示すとの説は怪しいです。盤の升目が360に絡むというのが正解で、異性庭訓往来の執筆者も、取り違えの可能性が疑われます。つまり、異性庭訓往来は正しくは「将棋には9×9升目の小型将棋から、19×19升目(升目総数361升目)の大型将棋がある。」と書くべきところを、「将棋には36枚制(4×9)の小型将棋から、354枚制の大型将棋がある」と解釈されてしまうような、ミスをしてしまっているというのが、私の解釈です。よって、前半は実態小将棋を、後半は平安時代から鎌倉時代に1種以上存在した、囲碁型升目将棋の、ぼんやりとした記憶を、記載しているに違いないと私は考えています。中国の晁補之の囲碁盤でする新作象棋の話が伝われば、日本人も真似るだろうと解釈するのが自然。
    つまり、前半は平安小将棋(9×9升目制)、後半は試作版の、詳細不明な19×19升目の、駒数100枚はたぶん越える、古くは平安時代の、未知の将棋というのが私の説です。
    よって異性庭訓往来の後半が指している将棋は、結局の所、現在に残る摩訶大(大)将棋でも、泰将棋でもないと私は思います。私に言わせると異性庭訓往来の後半部分を正しく解釈して、それとつじつまが、きちんと合うように後世に作ったのが摩訶大将棋であり、単に字面から安直に、360枚制将棋にした(作者は水無瀬兼成が怪しいと思う)のが泰将棋だと考えます。「異性庭訓往来の深読みなど、一般人には出来ないだろうから、それっぽく見せるには泰将棋も必要だろう」と、水無瀬兼成が考えて、ひょっとすると親切心から、泰将棋を新たに作成したのではないでしょうか。

  • #23

    長さん (月曜日, 22 9月 2014 13:40)

    「摩訶大将棋30%」について、コメント忘れました。私は中将棋先行説論者で正しいです。現在もほぼそうであるように、後期大将棋も摩訶大(大)将棋も、現実には、室町~安土桃山時代の、無視しえない数の中将棋愛好者の関心の、存在あっての発生だったと、私は判断します。

  • #24

    T_T (金曜日, 26 9月 2014 03:28)

    長さんへ
    コメントありがとうございます!

    伎楽面の駒がなぜ室町時代に現れたかの説明、了解いたしました。そういうシナリオの可能性は全否定できないとしても、ゼロにかなり近い可能性ではないでしょうか。伎楽面の駒は、伎楽がまだ存在した頃に現れたと考えるのがごく自然な考え方で、可能性という観点で比較すれば、室町時代に創案されたとの主張は、成立しないレベル(可能性の比率が非常に小さい)と考えます。

    また、庭訓往来の解釈についても同じく、長さんの説明を全否定はできませんが、その可能性は小さいと考えています。

    さて、本題ですが、長さんの中将棋先行説は、上記のとおり小さな可能性の仮説の上で成り立つものです。ですので、そのような仮説を根拠とするのではなく、何か現実や現物との関連で補足される必要があるのではと思います。

    摩訶大将棋先行説の中心は、摩訶大将棋の持つ陰陽道のそぶりと言いますか、香りといいますか、つまりは、直観から来るものなのですが、しかし、周辺の事物は、どれも、この直観を支持しているように見えます。狛犬舞、師子舞による道祓い、十二支の駒、伎楽を介した古代との関わり具合等々です。一方で、中将棋には、こうした陰陽道のそぶりがほとんど見えません。陰陽道があった時代を考えますと、摩訶大将棋が先行なのだろうという結論で、現状は、いいだろうと考えた次第です。

    長さんも、mizoさんも、まだ、中将棋先行説の根拠を、きちんとは発表されていないと思います(たぶん)。その発表を1年ぐらいのタイムスパンで待っておりますので、本ブログの説が間違いであるとわかるまでは、摩訶大将棋先行の可能性(30%)ということで、今後、投稿していきます。よろしくお願いいたします。なお、本稿でいただきました摩訶大将棋先行説への反対コメントに対しては、たぶん、全部カウンターで返した気持ちでいます。

  • #25

    mizo (土曜日, 27 9月 2014 05:21)

    コメント25と多すぎるのですが、最後に一言。
    ①摩訶大〃象戯のような複雑な将棋が、古代に前触れもなく突如創られていたという仮定は、多くの人にとって信じがたいと思います。何のために創られたのでしょうか?
    ②陰陽道との関わりも干支のみでは極めて疑わしいです。しかも、明白ではありません。干支は現代まで伝わるものですから、古代に創られた証拠にはなりえません。
    陰陽道自体の流れの中で、摩訶大〃象戯の位置づけは何なのでしょうか。
    伎楽と陰陽道の関わりも微妙です。古ければ何でもというわけにはいかないと思います。
    ③中将棋別系列説は、横偶数盤だからです。鎌倉時代に生まれたと思います。
    ④小から大へ、簡明なものから複雑なものへと変化する一般的な流れは、私や長さんの独自の意見ではなく、通説といってよいかと思います。中将棋という革命的な異端児があるために、混乱がありますが、二中歴大将棋→大将棋→「摩訶大〃象戯」の流れは、それなりに整然とした発展過程を示しています。

  • #26

    T_T (日曜日, 28 9月 2014 01:08)

    mizoさんへ(#25)
    コメントありがとうございます!

    コメントの数、100でも250でも大丈夫です。ゆっくり、のんびりと、お互いの言うことがなくなるまでいかがでしょう。陰陽道と摩訶大将棋の件も、摩訶大将棋先行説も、もう一度、別投稿にしてまとめたいと思いますが、未投稿の話題がいくつかあり、これらの件の投稿は、少し先になるかも知れません。関連する何かありましたら、本稿のコメントにてお願いいたします。

    以下、箇条書きですが、ご質問の答えよりも前に、まず、逆質問させていただきます。

    1)摩訶大〃象戯と書かれる場合、同じ文面では、中将棋ではなく、中象戯と書いた方がと思うのですが、何か意図ありますでしょうか。どちらも将棋という漢字でいいのでは。

    2)mizoさんは、通説だから云々という発言をよくされます。通説なのだから、正しい可能性は高いと、そう思っておられますか? この件、踊り駒の動きの解明のところで、通説が完全に間違っていたことを、mizoさんもよくわかっておられると思うのですが。。。

    3)別系列説のところで、偶数盤を理由に挙げておられます。偶数盤は、将棋が陰陽道起源の場合、あり得ません。陰陽道は、たぶん、基本的に奇数をよしとします(七五三のお祝い、節句の日、等々)。中将棋は、陰陽道と無縁ということでよろしいでしょうか。

    4)中将棋先行説の、根拠を教えていただけますでしょうか。大将棋(15マス)の前に成立していたと言われますが、その部分の根拠がよくわかりません。当時の文献も出土駒もありません。中将棋が、表に出なかった理由も必要になります。

    以下、ご質問の答えです。

    ○ たとえば、奈良の大仏を例に取りたいと思います。もっと小さくていいのではないか、突如作られるのも不思議だ、という発言が、コメント#25の1と同じタイプの発言になります。当時の国家と仏教の関係がわかっているので、大仏に納得ができるのと同じく、陰陽道と将棋の関係を思えば、摩訶大将棋は、さほど奇妙ではありません。「多くの人にとって信じがたい」というのが事実だとすれば、陰陽道と将棋は無縁だという考え方に立っている人が多い、ということです。

    ○ 平安時代、鎌倉時代前期あたりまでは、干支と陰陽道は密接です。以後も干支は続きますが、陰陽道は続きません。干支と関係があるから、古いと主張しているのではなく、陰陽道と関係しているので、古いとしています。

    なお、伎楽と陰陽道の関わりは不明です。伎楽からは駒の名称を取ったのみですが、伎楽面の名称が入ったということが、成立した時代の手がかりとなります。摩訶大将棋が成立した頃、伎楽はなくなっていなかった、つまり、摩訶大将棋の成立は古い、と推定できるわけです。

  • #27

    T_T (日曜日, 28 9月 2014 01:30)

    上のコメント#26ですが、誤解があるかも知れませんので、補足します。摩訶大将棋先行説と、中将棋先行説と、どちらが本当なのか、私はこれをどちらかに結論しようとしているのではありません。1000年前のことです。すぐきちんとわかるはずもなく、現状、両論並立が妥当と考えます。

    コメント#17で書きましたとおり、摩訶大将棋先行説(可能性30%)で、話を進めていきたく思っています。

  • #28

    mizo (日曜日, 28 9月 2014 02:57)

    >コメントの数、100でも250でも大丈夫です。
    ありがとうございます。勇気百倍、お答えします。

    1)摩訶大〃象戯と書かれる場合、同じ文面では、中将棋ではなく、中象戯と書いた方がと思うのですが、何か意図ありますでしょうか。どちらも将棋という漢字でいいのでは。
    ←中将棋は内容について、意見相違はないので一般的な名称にしました。先生の「摩訶大将棋」に、内容的に全面的に同意しているわけではないので、あえて区別しました。

    2)mizoさんは、通説だから云々という発言をよくされます。通説なのだから、正しい可能性は高いと、そう思っておられますか? この件、踊り駒の動きの解明のところで、通説が完全に間違っていたことを、mizoさんもよくわかっておられると思うのですが。。。
    ←通説は尊重されるべきだと思っています。正しい可能性が高いとも思っています。しかし、細かな点では誤りもあり、それを見つけるのが私の楽しみです。ただし、私なりの根拠があっての話です。

    3)別系列説のところで、偶数盤を理由に挙げておられます。偶数盤は、将棋が陰陽道起源の場合、あり得ません。陰陽道は、たぶん、基本的に奇数をよしとします(七五三のお祝い、節句の日、等々)。中将棋は、陰陽道と無縁ということでよろしいでしょうか。
    ←遠慮なく申し上げれば、将棋と陰陽道は無縁だと思います。繰り返しますが、陰陽道は呪術占術で、それなりの体系と器具があります。将棋の駒が転用されたことがあるかもしれませんが、陰陽道に独特なものは見つかっていないと思います。干支自体は、アジアの漢字文化圏において、年・月・日・時間や方位、角度、ことがらの順序を表すのにも用いられた一種の数詞にしかすぎません。

    4)中将棋先行説の、根拠を教えていただけますでしょうか。大将棋(15マス)の前に成立していたと言われますが、その部分の根拠がよくわかりません。当時の文献も出土駒もありません。中将棋が、表に出なかった理由も必要になります。
    ←大将棋(15マス)の前にあったと思います。『普通唱導集』には将棋と大将棋の2つが挙げられています。中将棋はまだ、なかったと思います。通説は、これが大将棋(15マス)であったということになっていますが、私は、大将棋の成りの不自然さ、『普通唱導集』に獅子・奔王などの記述がないことから、飛車が最強の「普通唱導集大将棋」が存在したという仮説を提唱しています。これをもとに中将棋が創られ、それをとりいれて大将棋(15マス)は成立したと考えています。根拠となる文献は『普通唱導集』です。中将棋も大将棋(15マス)もなく、将棋と「二中歴大将棋」から発展した「普通唱導集大将棋」(成りは金成りのみ)のみがあったと思います。「普通唱導集大将棋」は大将棋(15マス)にとってかわられますが、大将棋(15マス)は、中将棋の駒を集めただけのもので、流行はせず、次の「摩訶大大将棋」に発展していったと思います。

  • #29

    T_T (日曜日, 28 9月 2014 14:53)

    mizoさんへ(#28)
    コメントありがとうございます!

    いろいろな件、追って後ほどコメントいたしますが、とり急ぎ、まず一番重要なところのみおうかがいします。コメント#28の4(中将棋先行説の根拠)についてです。ここの文面には、中将棋先行説に関連する説明が書かれているだけで、それらの説が成立する根拠については、全く書かれていません。つまり、
    a)普通唱導集から推定される将棋Pが存在したはずである
    b)将棋Pを基にして、中将棋が作られた
    c)中将棋は、大将棋(15マス)の成立前に完成していた
    d)大将棋(15マス)が発展して、摩訶大将棋ができた
    という4つの仮説が書かれているだけです。各仮説の根拠を書いていただきたく思います。特に根拠はないが、ただ、そう思うのが自然だということなのでしょうか。

    a)の仮説についてですが、私は、飛車が最強の将棋が、一時期できていただろうというmizoさんの説には賛成しています。しかし、普通唱導集から言えることは、この1点だけで、初期配置や駒の動きは空想でしか作り得ません。また、普通唱導集を基にして、別個の大将棋を想定するという考え方は、かなりマイナーです。通説は、普通唱導集の記述の対象は大将棋(15マス)だという考え方であり、mizoさん的に言いますと、つまり、可能性としては、この通説の方が正しいのです。mizoさんの中将棋先行説は、可能性がさほど高くない仮説a)の上に、さらに仮説b)を載せることになりますので、かなり強力な根拠が必要でしょう。

  • #30

    mizo (日曜日, 28 9月 2014 17:56)

    説明不足を補います。

    a)普通唱導集から推定される将棋Pが存在したはずである
    ←普通唱導集は非常に洗練された文章である。大将棋の部分は弱い駒と強い駒が対比的に描写されていると考えられる。強い駒について、大将棋(15マス)の最強駒である獅子・奔王に関する記述がなく、飛車についてのみ言及されている。したがって、普通唱導集の大将棋は、既知の大将棋(15マス)ではないと判断した。
    また、「二中歴大将棋」をはじめ、なぜ弱い駒が異常に多いのかという疑問に対して、金成りという制限があったという仮説を立てた。これは、角行(裏:金)という長さんご存じの出土駒によって裏付けられたと思う。

    b)将棋Pを基にして、中将棋が作られた
    ←そもそも、中将棋の創作過程についての合理的な解釈を、私は拙案以外知りません。突如、「二中歴大将棋」から大将棋(15マス)が生まれ、弱い駒を省略して中将棋が残ったというのが通説です。信じられません。
    私は、金成り以外の成りという革命的アイデアに基づいて中将棋が創られたと考えています。そのきっかけは飛車(裏:金)という普通唱導集の大将棋の駒だと思います。逆に「金将」の飛車成りが考えられ、そのアイデアをもとに他の角行・竪行・横行に成る駒が考えられたのだと思います。

  • #31

    T_T (月曜日, 29 9月 2014 02:25)

    mizoさんへ(#30)
    コメントありがとうございます!

    中将棋だけが別系統での発展というお考えだとしますと、中将棋先行説を(摩訶大将棋よりも早くに成立したと)主張される場合、コメント#29のc)とd)の根拠も必要になると思います。摩訶大将棋先行説では、摩訶大将棋-->大将棋(15マス)という展開を主張していますので、これに反論するための、d)の根拠がむずかしいのではないでしょうか。

    さて、本題ですが、mizoさんの主張される内容は、筋書き/シナリオとしてはわかるのですが、やはり根拠にはならないように思います。そう考えてみた、というだけですので、そうは思わない、という考えの人には納得してもらえません。つまり、賛成か、反対か、という話しです。

    根拠というのは、賛成とか反対とか、そういう選択の余地のない理由でなければならないと考えます。たとえば、摩訶大将棋は、少なくとも、鎌倉時代前期までの成立と、私は考えています。それは、伎楽面の名前が踊り駒に全部揃っているからです。伎楽面の名前が取り込まれている以上、伎楽面の存在した時代に成立、ということが、賛成とか反対とかでなく、ある程度確定します。ここに、賛成・反対の意見の余地はないわけです。

    もちろん、伎楽面の名前が取り込まれたと見るかどうかは、賛成、反対の範疇だと思います。いろいろに解釈できるからです(たとえば、金剛、力士は仏像から来た、と見る等々)。ただし、伎楽面と駒の関連を認めてもらえれば、そこから先は、成立した時代を推定する「根拠」となり得ます。

    mizoさんの先行説は、1)飛車の金成りが古い将棋にある、2)中将棋は多彩な成りが特徴である、3)中将棋には、飛車の金成りが、直接的に影響したと考える、というものだと思います。これは、賛成する人もいますし、そうは思わない人もいます。つまり、根拠ではありません。これは、おかしな理屈でしょうか?

    根拠云々の件、問わないとしましても、mizoさんの説(中将棋の成立時期は早かったということを、成りの観点から導く)は、私には、心情的によくわかりません。成った駒が、また、別の駒に成る、これは、古代の将棋の世界観としてOKなんでしょうか。金将が飛車に成る、成り先の飛車は龍王に成る、さらに成り先の龍王は飛鷲になる、のです。こういうゲームシナリオは、古くに成立したというよりは、むしろ、近代的ではないのかと考えます。

    中将棋の成りのルールを見るにつけ、中将棋は15世紀の成立ということで、何らおかしくはないと、私には思えます。心情的な話しなので、うまく言えませんが、元祖将棋ではなく、発展した将棋なのです。飛車が龍王になったのに、その龍王は、また成ることができる。この点、どう思うかというのは、人によって違うでしょう。最強の2つの駒が、鷲と鷹ですが、これは泰将棋からの拝借の結果です。中将棋の成立当初に、作ったとするなら、そして、時代が鎌倉だとすれば、最強の駒を、どうして鷲と鷹にするのか、ということです。

    小将棋の飛車の龍王成りは、中将棋から取ったという見解がありますが、たぶん、それは違うと思っています。小将棋の飛車、そして、飛車の龍王成りは、たぶん、中将棋ができる以前にあったのだと、私は空想します。金将よりも、もっとリスペクトされる成り先が、龍王です。その龍王が、また別のものに成るということは考えられません(しかも、中将棋の場合、龍王の成りが飛ぶ鷲とは)。

    金将よりもリスペクトされた龍王は、どこにいたか、ということですが、摩訶大将棋に、不成りの駒として、きちんとあるわけです。「龍王が不成りであること」、この点は、非常に重要です。摩訶大将棋先行説を主張するのに、この1点のみで、もう十分なのでは。ただし、個人の思い込みの中では、です。つまり、こういう筋書き/シナリオは、全く根拠にはなりません。摩訶大将棋先行説を納得してもらうためには、これとは別に、きちんとした根拠が必要となります(すでに、投稿しています)。

  • #32

    mizo (火曜日, 30 9月 2014 08:02)

    私の考えを追加します。

    c)中将棋は、大将棋(15マス)の成立前に完成していた
    ←大将棋(15マス)には、中将棋の駒(成りは無視)がすべて入っています。通説は、こちらが先で、弱い駒を省略し成りを整備して中将棋が創られたというものです。
    私は、大将棋(15マス)の成りが不自然であることから、「二中歴大将棋」から大将棋(15マス)が直接作られたとは考えにくいと考え、「普通唱導集大将棋」というミッシングリングを想定しました。金成りという制限があったと仮定すると、弱い駒がなぜ大量に作られたかの説明もつき、それなりに完成された将棋ができたと感じ、『普通唱導集』に取り上げられるほど流行したのも納得できました。「二中歴大将棋」に追加されたのは、×將系列の「石将」、「猛虎」系列の「盲虎」「猛豹」「悪狼」「猫又」、「飛龍」「猛虎」の斜めを縦横に変えた「猛牛」「嗔猪」、「香車」から「飛車」、「横行」から「竪行」「角行」です。(「仲人」「反車」は名称変化)
    さらに「醉象」は小将棋から取り入れられたと思います。(興福寺での新しい出土が裏付けています)
    残りの、「獅子」「麒麟」「鳳凰」、「奔王」「龍王」「龍馬」は名称の流れも異なり、強い駒ばかりです。「麒麟」「鳳凰」の配置も今までにないものです。これらは、中将棋創作にあたって想像されたというのが拙案です。先生ご指摘のように、仮説にしかすぎません。「角行(裏金)」の駒、『普通唱導集』の記述以外は、論理的整合性のみが根拠です。
    私の考えということで、収めてくださればと思います。

    d)大将棋(15マス)が発展して、摩訶大将棋ができた
    これについては、通説だと思います。これに反する出土品や史料はないと思います。簡単なものから複雑なものへとの流れで説明できると思います。
    「摩訶大大将棋」の存在は、後代の写本『象棋六種之図式』(嘉吉三年(1443年)に書き写された)と『異制庭訓往来』(1356~75)の記述からの類推のみです。『普通唱導集』(1297~1302)には、将棋と大将棋しか記述がなく、「摩訶大大将棋」はなかったと思われます。(私の考えでは「大将棋(15マス)」もなかったわけですが、簡単なものから複雑なものへという流れがあったという証拠だと思います)
    「摩訶大〃象棋」の記述を見ると、「玉将」の「自在王」成り、「醉象」の「王子」成り、「無明」の「法性」成り、「提婆」の「教王」成り、「狛犬」「驢馬」「金剛」「力士」「鉤行」「摩蝎(魚ヘン)」について口傳が書かれてあります。これらは、最終的に追加されたり変化した部分への注意書きとみるのが妥当ではないでしょうか。「無明」「提婆」は仏教系といわれていますが、陰陽道や伎楽とは関係がなさそうです。「鉤行」「摩蝎(魚ヘン)」という強力な魅力的な駒は、なぜ消滅したのでしょうか。

  • #33

    長さん (火曜日, 30 9月 2014 08:50)

    高見先生へ。
    mizoさんの下記説の御紹介。相当にもっともらしいように、私には
    読めますよ。
    a)普通唱導集から推定される将棋Pが存在したはずである。
    b)将棋Pを基にして、中将棋が作られた
    c)中将棋は、大将棋(15マス)の成立前に完成していた
    d)大将棋(15マス)が発展して、摩訶大将棋ができた
    根拠:
    a)普通唱導集から推定される将棋Pが存在したはずである。
    後期大将棋(15升目)では、端攻めが簡単に成功しないので、
    それを警戒して「仲人の位置」を固める必要はない。将棋Pが
    後期大将棋なら、普通唱導集の記載は異形。特に嗔猪に、
    普通唱導集のような手数を掛けるのは、後期大将棋(15升目)では、
    明らかな手損。そんな将棋を指すはずがない。将棋Pと後期大将棋
    とは、よって別のゲーム。
    b)将棋Pを基にして、中将棋が作られた
    少なくとも、後期大将棋より、将棋Pの方が中将棋に近く
    また、「端攻めだけに戦法が偏らないように、配列を変える」という
    作り方の一貫性もあるため、中将棋はずっと作りやすい。「ゲームを
    面白くしたいからゲームを改善する」という意識の持ち主なら、将棋P
    から中将棋は、比較的簡単にできる。そもそも、中将棋が、そうした
    実用性を中心とした作成であったということは、西暦1400年
    以降の、将棋の指され方の変化、「目上への儀礼としてのたしなみ
    から、楽しみとしての自宅での将棋への変化」という調査結果と、
    たいへん良く合っている。
    c)中将棋は、大将棋(15マス)の成立前に完成していた
    将棋pの記憶が途切れてから、後期大将棋が出来た証拠に、大将棋
    という名前になっている。将棋pが後期大将棋と並存していたなら、
    「大将棋(15マス)」は、大将棋ではなくて、大大将棋等の名前に
    しないと、全く不便極まりない。更に、将棋pが途切れた理由は
    極めてもっともらしく、「事実上、中将棋しか指されなくなった事に
    よる、室町中期以降の将棋pに対する一般棋士の記憶の曖昧化」
    で、どんぴしゃ、つじつまが合っている。
    d)大将棋(15マス)が発展して、摩訶大将棋ができた
    駒の配列の仕方が似ている。袖の市松模様が、何故、他の日本の将棋には
    無いのか。この2種のゲームの間に全く関連が無いというのなら、その
    理由に対して、何らかの説明が、別に必要だと私は思う。
    以上です。

  • #34

    T_T (水曜日, 01 10月 2014 23:35)

    mizoさん、長さんへ
    コメントを続けていただきましてありがとうございます!!

    主張される点、中には多少ともわかる部分もあるのですが、全般的に考えますと、中将棋先行説には全く賛成できずにおります。すいません! mizoさんと長さんも、私の結論に対しては、たぶん同じように思われているでしょうから、現状、説は3とおりです。本ブログにては、摩訶大将棋先行説(可能性30%)ということで、やはり、進ませていただきます。別のどなたかが、新規にご参入?されて、第4案を提示されようなことがありましたら、可能性25%に引き下げ、あるいは、新規にどなたかから、摩訶大将棋先行説に賛成いただきましたら、可能性の%を増やしたく思います。本ブログ以外での議論(たとえば、学会発表での議論やプライベートな場での話し)は、ここには含ませず、あくまでも、本ブログの議論だけを尊重したく思っています。

    ところで、将棋の歴史のような(文献も少なく出土も少ない)話しをするときに、こう思うああ思う論は、非常に自由なわけですが、その自由さの分だけ、結論を得るのはむずかしくなります。ですので、結論を出したいのか、自分の考えを主張したいのか、この2点のどちらに立つのかを、きちんと意識する必要があると考えます。私の場合は、結論を出したい派です。

    結論を出そうとすると、結論が出せない議論(つまり、正否の証明ができない話題)で話しを展開してもむずかしいですから、摩訶大将棋先行説は、結論が出せる観点を中心に置いて、投稿してきました。次の観点です。覚え書きとして、まとめてみます。

    1)陰陽道との関連性(陰陽寮の隆盛からは、1200年代までに摩訶大将棋成立か)
    2)伎楽面の名称が駒に揃う(最も遅くて1250年まで。ふつうに考えれば、もっと以前での成立)
    3)酔象の成りが太子でなく王子(やはり1250年ごろまでの成立。これ以降は、太子となった可能性大)
    4)公卿の古文書に現れる大将棋の記述(やはり、1200年代まで)
    5)師子・狛犬の揃い踏み(通常、揃うのが妥当。先行することの根拠として)

    中将棋が後で成立したことについての論点は、次のとおりです。
    6)mizoさん、長さんの説では、普通唱導集(1300年ごろ)よりも後に成立した。
    7)古文書での記述(1400年代に出現。中将棋成立の時代を示唆する)
    8)陰陽道との関連の薄さ(早くても1300年以降での成立)
    9)中将棋固有の出土駒がない(鎌倉時代にはない。成りが特殊であり、流行していた場合、出土してもいいはず。)
    10)将棋の対局形態(大下論文によれば、中将棋の対局形態は、14世紀以前のものとは異なる。つまり、中将棋は14世紀以前にはなかった。)

    いちおう、結論の出せる議論可能なものの中から、摩訶大将棋先行の根拠を5点、中将棋先行でない根拠を5点挙げてみました。逆に、中将棋先行の根拠を5点、摩訶大将棋先行でない根拠を5点、というのは全然無理ではないでしょうか。上の例では、10点だけですが、いろいろな点で、そのいずれもが、摩訶大将棋先行の方に転ぶのです。もちろん、私の視点では、ということですが、その中の1点2点ぐらいは客観的な項目も含まれているようには思います。

    もし、心情的な観点も許されるのでしたら、上の10点よりももっと強い理由がいくつかあります。まず、象棊纂圖部類抄の序文です。将棋の歴史を語るこの序文は、まさに摩訶大将棋について語られており、本議論のもう一方、中将棋の記述は皆無と言っていいでしょう。おそらくは、陰陽道もない、合戦シミュレーションもない中将棋という別種の将棋が出て来た頃に書かれた巻物なのでしょう。この当時の中将棋は、つまり、「現代」の将棋なのであって、将棋の歴史というくくりで、語られる対象ではなかったわけです。

    次には、中将棋の持つ「成りの種類」の複雑さです。この複雑さは、遊戯として練られた結果であって、将棋黎明期のものとしては考えられず、後世のものではないでしょうか。また、少し前のコメントにも書きましたが、飛車が龍王に成り、その龍王は飛鷲に成るという、将棋らしくない点も、また同じく練られた結果だと感じます。かつて不成りだった龍王に成りをつけた点も、非常に不自然です。

    成りについては、もう1点、重要な事実があります。中将棋の表の駒のすべては、摩訶大将棋、大将棋、大大将棋、泰将棋に含まれていますが、にも関わらず、中将棋の成り駒のいくつかは、泰将棋にのみ存在する表の駒になっています。1)中将棋先行であれば、将棋の発展があったにも関わらず中将棋の表の駒は全部が残り、存在し続けたわけですが(であれば、象棊纂圖部類抄にもコメントされるはずなのですが)、その後の発展で、成り先だけが変わったのです。2)一方、中将棋が最も遅いとすると(私はこの可能性が最も強いと考えます)、かつて存在したどの将棋にも存在した駒を選び、かつ、成りのルールを再構築する際、新出の成り駒を、泰将棋から取ったということです。当時、斬新だった将棋は、延年に使われていた泰将棋だったのでしょうか。1)と2)と、どちらを取るか、これは心情的な選択となります。

    書きすぎですが、あと1点だけ、書きます。それは、中将棋で消えてしまった、桂馬と飛龍の駒の存在です。桂馬も飛龍も、平安大将棋に登場する由緒?ある駒であって、この駒が、将棋の発展途上で、消えてしまうのは、かなり不自然です。事実、平安大将棋の駒は、この2駒以外、すべての大型将棋に存在し続けます。中将棋は、大型将棋の発展の中で、一番後の時代に出てきたのではと考えています。

    ひとまず、このあたりで。
    コメント#32と#33の内容にお答えしていませんが、また後日に書かせていただきます。

  • #35

    mizo (土曜日, 04 10月 2014 01:46)

    「摩訶大将棋」を高見先生が愛されていることはよくわかりますが、ひいきの引き倒しではないかと思います。
    そもそも、どこかに発表されるということでしたので、常識的な考えを再録します。先生が傷つかれることを懸念しています。
    ①192枚の駒を使用する将棋が突然作られたという説は賛同する人がいないと思われます。それ以前にあった日本の将棋類は何で、どのようにして多種多様な駒が考えらえたのでしょうか。
    通説のように、「二中歴将棋」→「二中歴大将棋」→(「普通唱導集大将棋」→「中将棋」。この部分は私の説)→「大将棋」(130枚)→「摩訶大大将棋」と段階的に増えてきたと解するのが合理的で、史料とも合います。
    ②陰陽道と将棋は関係ありません。干支は陰陽道に特有のものではありません。一部の駒の名称が干支と関連があったとしても、陰陽道と関連があったとは言えません。
    ③伎楽についても同様です。将棋とは無縁です。伎楽に固有の名称が全く使われていません。神社の獅子狛犬配置は、伎楽と無縁です。
    ④酔象の成りが太子でなく王子である点は、別の用語に変更した例が他の駒になく、私の説以外に説明できないと思います。使用頻度の差によって変わったという説は、使われなくなったわけではないので疑問です。
    ⑤公卿の古文書に現れる大将棋の記述は「二中歴大将棋」あるいは「大将棋」(130枚)(私は「普通唱導集大将棋」)のことだというのが、他の文献上明らかです。
    ⑥有名な「子子子子子子子子子子子子」をはじめ、獅子がかならず狛犬とともに使われるということはないと思います。(学者ではないので、平安時代の文書における獅子と狛犬の出現状況はわかりませんが)

  • #36

    T_T (月曜日, 06 10月 2014 01:58)

    mizoさんへ
    コメントありがとうございます!!

    ご意見了解しました。それでしたら、本稿のコメントの中で、ゆっくりとのんびりと、中将棋先行説と摩訶大将棋先行説のたたきあい、いかがでしょう。コメント#100あたりまで続けば、この件何か突破口が出て来そうです。

    真向からの反対ぶり、脱帽です。私の考え方は全部とは言いませんが、十にひとつふたつぐらいは、きちんと当たっているはずです。それを、何でもとりあえず反対という感じの反対、よくわかりません。

    それと、傷つかれることを懸念しています、との文章も、よくわかりません。そこまで言われるのでしたら、もし、摩訶大将棋先行説に傾いたときには、東京の三ツ星レストランのディナーを、ごちそうしてもらえませんか。これは、必ず、ということで。楽しみにしています。

    mizoさん、以前、踊り駒の動きが問題になったとき、飛び越えた駒を取るというルールなんか、将棋には絶対あり得ない、みたいな感じだったと思いますが、結局、踊り駒は、飛び越えた駒を取るということで落ち着いたということもありました。今回も似たような感じです。古代の将棋はどうも鎌倉前半ぐらいまでは、陰陽道とかなり密接な関係です(まあ、現状、私の側からの一方的見解ですが。この件、何度も説明したく思います。こうなれば、とことんまで反論お願いします)。

    mizoさんに対する最初のリクエストは、中将棋先行説の根拠を、一覧していただけたらということです。その根拠としては、何かの文献、史実、事物に関係したものを挙げていただけたらと思います。まず、お互い、自説の根拠を提示してからということでいかがでしょう。時間は、1週間でも1ヶ月でもゆっくりで問題ありませんので、是非お願いいたします。

    摩訶大将棋先行説については、コメント#34に、主要根拠を一覧しています。摩訶大将棋が早いことについて5点、中将棋が遅いことについて5点、心情的な思い込みで3点を挙げました。

    コメント#35の返信、また後日いたします。2日間のイベントで、摩訶大将棋を4回、普段より真剣に指しましたので、少し疲れています。

  • #37

    mizo (火曜日, 07 10月 2014 00:19)

    イベントお疲れ様でした。お疲れのところに、ストレートパンチ。配慮が足りませんでした。
    さて、
    1、中将棋先行説と摩訶大将棋先行説のたたきあい
    「望むところです。」といいたいのですが、先日も救急車で点滴を受けた体では、せいぜい「がんばります。」が精いっぱいです。#100までとはいかなくてもオーバーエイジ(62)を目指します。
    2、何でもとりあえず反対という感じの反対
    真面目に考えて反対しているつもりですが、そう受け止められたのは不徳の致すところです。先生の反論に対して再度応えたいと思います。
    3、東京の三ツ星レストランのディナー
    昼はホカ弁の身で、三ツ星レストランのディナーの価格がわかりませんが、関西新幹線往復程度の小遣いならなんとかなります。「恐れ入りました」となったら、頑張って貯金をはたきます。先生に最初にお会いした時に、お弁当ごちそうになりましたね。懐かしいです。2回目は駅近くのお店で食事しました。奢っていただいたと思います。
    4、飛び越えた駒を取るというルールなんか、将棋には絶対あり得ない
    誤解を招くと、困るので説明します。
    駒が、 A,B,C,D と並び、AがDへ飛び越えると、BCDを一網打尽にするというルールです。
    私は、いまでもあり得ないと思っています。ただ、Aが3目踊りの駒で、踊りが複数回の一目移動を表すとすれば、BCDがすべて敵の駒であれば、3回の移動でDに到達して結果的にBCDの駒を取ると思います。BCに自分の駒があれば、その手前で停止になります。また、BCに自分の駒があっても、一気にDに移動しDだけを取ることもできたと思います。
    以前、別の考えを述べたかもしれませんが、少なくとも今はこう考えています。
    4追加、陰陽道
    説明お願いいたします。陰陽道では将棋盤・駒を使用しません。

    中将棋先行説(「大将棋」(130枚)に対する)の根拠、次に書きます。

  • #38

    mizo (水曜日, 08 10月 2014 00:45)

    「大将棋」(130枚)には、1枚駒6種、2枚駒22種、15枚の歩兵で、29種類の駒がある。
    先行する『二中歴』の「大将棊」は、1枚駒3種、2枚駒9種、13枚の歩兵である。13種類の駒がある。
    対応する駒がある場合は名称変更と考えて無視すると、増加した種類は16種である。
    「醉象」、「石将」、「盲虎」「猛豹」「悪狼」「嗔猪」
    「獅子」「麒麟」「鳳凰」、「猛牛」
    「奔王」「龍王」「龍馬」、「飛車」「角行」「竪行」
    あまりにも多すぎる。
    一方、『二中歴』の次の将棋の実態がわかる文献は『普通唱導集』である。そこには「大将基」の記載があり、「飛車」が最強と読める記述がある。それが正しいとすると、『普通唱導集』の「大将基」は「大将棋」(130枚)ではない。
    私はこの将棋を「普通唱導集大将棋」と名付けた。
    一気に16種類増えたのではなく、まず10種類増加した『普通唱導集大将棋』が創られた。
    追加は、「醉象」、「石将」、「盲虎」「猛豹」「悪狼」「嗔猪」、「猛牛」、「飛車」「角行」「竪行」。
    その後、「中将棋」が創られる。金成りの制限がなくなったことで強い駒が創られる。一部の弱い駒が減らされ、「獅子」「麒麟」「鳳凰」、「奔王」「龍王」「龍馬」の6種が追加される。
    「中将棋」は鎌倉時代後期から、貴族の間で流行する。
    その後「普通唱導集大将棋」に「中将棋」で追加された6種の駒が追加された。それが、「大将棋」(130枚)である。

  • #39

    T_T (月曜日, 13 10月 2014 02:35)

    mizoさんへ(#37)
    コメントありがとうございます!

    それでは、時間的にはのんびりと、議論としては徹底的にお願いいたします。

    上のコメント#37の4追加、陰陽道の件、「陰陽道では将棋盤・駒を使用しません。」とのことですが、この件の返信、本投稿のコメント#10の冒頭にて一度、簡単に返信しています。ここまでを陰陽道と呼ぶ、というきちんとしたものでなく、当時の社会に漂っていた陰陽道の空気、精神、気配と考えていただいたらと思ってます。これは陰陽道、これは陰陽道ではない、というかっちりとしたものを想定していません。

    陰陽道の件、いずれこの欄にコメントとして投稿いたします。ただ、その前に、別件で投稿すべき話題がいろいろとあり、また、陰陽道の全体を書かないといけないということもあり、後日となります。逆に、皆さんに問いかけたい件は、象棊纂圖部類抄の序文を読んで将棋と陰陽道との関連を感じないでしょうか、ということです。狛犬舞師子舞による道祓いを、陰陽道の精神と見るかどうかということでもあります。式盤を使った占いのようなものだけを、陰陽道と見ているわけではありません。陰陽道では、奇数か偶数かということでさえ重要です。十二支も陰陽も重要です。たとえば、七五三は今では行事ですが、当時は、陰陽道の精神の中で行われていたわけですから、七五三を持ってして陰陽道だと言っているとご理解下さい。

    mizoさんの意見、陰陽道では将棋盤と駒を使用しない、ということに対して短くですが、書きます。私が反対のための反対と書いているのは、こういう答えに対してです。私の考えるところは、象棊纂圖部類抄の序文であったり、十二支の駒の存在であったりするのですが、それとは関係のない部分で、将棋と陰陽道の関連を反対されるからです。また、その反対意見は、証明されていないことに基づいています(たとえば、陰陽道で将棋の駒を使ったかも知れませんので)。

    似たようなことが、踊り駒の動きのところでもありました。本ブログでは、象棊纂圖部類抄の記述に基づいて解釈を進めていきましたが、mizoさんの反対は、将棋では飛び越えた駒を取るというようなことはしない、みたいな感じだったと思います(だいたいの感じですが)。これも反対のための反対です。踊り駒の動きですが、現状、コメント#37からは、mizoさんの考えと私の考えは、ほぼ一致と思われます。たとえば、少なくとも、飛龍と猛牛は、一致しています。飛び越えた敵駒は取り、味方の駒は飛び越えが可能です。すると、「将棋では飛び越えた駒を取るルールはない」という考え方が、理由なく自然に消滅するわけで、つまり、もともとから、それは根拠と呼ぶべきものでなかったということになります。

  • #40

    T_T (月曜日, 13 10月 2014 03:16)

    mizoさんへ(#38)
    コメントありがとうございます!

    詳しくお送りいただきましたので、よくわかったのですが、つまり、mizoさんが根拠と呼んでいるものは、根拠というものではなく、シナリオないしは仮説ではないでしょうか。ですので、コメント#38の仮説(仮にそう呼ばせていただきますが)、その仮説がなぜ成立するかということの説明が必要だと思います。その説明が、中将棋先行説の根拠ということになるのではと。

    コメント#38で、根拠としていいものは、次の1点のみだと考えます。
    1)普通唱導集の記述では飛車が最強の駒:
    ---> よって、普通唱導集大将棋があると仮定すれば、飛車が最強(ただし、これも、100%確定できるものではありません)

    これ以外は、mizoさんの筋書きのほぼすべてに、疑問を挟むことができます。その筋書きには、史実や事物や文献に則った何かの関連性が見られないからです。

    mizoさんは、大型将棋が発展する際、新規の駒は、少しずつ導入されるはずという考えのもとに、これを理由として、「普通唱導集大将棋」から、中将棋に発展したと説明されています。ここでも、駒の種類は少しづつ増えていくべし、というのは、単に、ひとつの考え方であって、根拠ではありません。

    もちろん、mizoさんの仮説がそのとおりな可能性はあるわけですが、そうでない可能性もあり、少なく見積もっても、いろいろな観点でmizoさん説が不成立の可能性、50%以上です。そこで、全く不可解なのは、なぜ、そういう状況で、mizoさんの自説以外に対して、完全に反対されるのか、ということです。

    まあ私もこういう性質ですので、自説を信じる傾向にあり、たいがいは反対するわけですが、空想なのか、ある程度の論理なのかは、注意しています。ともあれ、将棋の歴史の説明は、たいがいは、空想です。その空想を、いかに根拠づけるかは、パズルのような面白さを感じます。根拠といっても証明できる根拠ではありませんので、ゆったりしたものです。だから、将棋の歴史の探求については、お互いに言いたい放題が、いちばんハッピーだと思っています。ただ、mizoさんとは、中将棋先行なのか、摩訶大将棋先行なのかは、きちんとしておかないと、摩訶大将棋の復刻が先に進めません(とは言え、先に進めているわけですが)。mizoさんの100%反対を、30%反対ぐらいには、押し戻したく思います。

    将棋の歴史のことを考えておられる、ある人がおられますが、その方は、かなりユニークな考え方をされます。私とのコンタクトは、ブログの中でも何もありませんので、ここではあまり書けませんが、その方は、他の説に対してほとんど反対をされません。そのかわりに、自説に対する反対にはかなり強硬なようです。たぶん、スタンスは、私と同じなのかも知れませんが、私は、その方とmizoさんとの中間ぐらいでしょうか。

    脱線してしまいました。本論は、また、後日に再度。

    将棋の歴史について言いたい放題の会議を、来年2月28日(土)午後に、大阪で企画途中なのですが、mizoさん、ご参加いかがでしょうか。当初予定の関東での開催はできませんでした。すいません、関西ばかりになっています。

  • #41

    mizo (月曜日, 13 10月 2014 05:56)

    勝手なことを書き散らし、申し訳ありません。
    別の方のブログでも、強烈なご批判を受けたことがあります。
    高見先生のブログでは、寛容な姿勢につい甘えてしまいます。
    お出入り禁止にしないでください。
    私のコメントが、少しでも先生のお考えの精緻化・発展に役立てばと思います。
    さて、2月28日(土)午後に、大阪で企画途中とのこと、是非参加させていただけたらと思います。(体力が続けばですが)

    私の根拠は、ご指定の通りです。
    伝来後の変遷については、増川先生のご研究が基本的には正しいと考えていますので、「普通唱導集大将棋」=「大将棋」(130枚)に対して、異説を立てたということです。「二中歴大将棋」→「大将棋」(130枚)の変化が急すぎるという疑問は、増川先生・木村先生も感じていらっしゃいます。

    先生の「摩訶大将棋」が平安時代に創られていたというお考えは大変ユニークなものだと思いますが、「二中歴」「普通唱導集」といった史料との整合性はいかがでしょうか?
    また、先生の陰陽道的雰囲気だけで、「摩訶大将棋」全体を説明するのは難しいと思います。
    「大将棋」(130枚)を土台に、二度走りの駒、三踊りの駒、「提婆」「無明」、「自在王」、奔×成りといったアイデアが追加されたと考える方が、自然ではないでしょうか。

  • #42

    T_T (火曜日, 14 10月 2014 02:39)

    mizoさんへ(#41)
    コメントありがとうございます!

    それでは、はじめに、仮説の入らない、つまり、文献中に存在する大将棋(13コマ)の方を考えてみたいと思います。mizoさんの中将棋先行説は、文献には直接現れない「普通唱導集大将棋」をもとにしていますので、議論が横道にそれてしまいます。まず、大将棋(13コマ)と摩訶大将棋を比べた後、次いで、大将棋(13コマ)と中将棋を比べます。これで、間接的ですが、摩訶大将棋と中将棋を比べることができます。以下、コメント#41からの引用箇所を > にて示しました。

    本論に入る前に質問ですが、

     > 伝来後の変遷については、増川先生のご研究が基本的には
     > 正しいと考えていますので、・・・

    この箇所は、どういうことを指されているのでしょうか?
    たぶん、大型将棋は、マス目の大きさの順に作られた(次第に大型化していった)という考え方のことなのだろうと思いますが、この点は、これまでに、まだ誰もきちんと根拠づけて考えていないのではないでしょうか。増川先生または他の方が、大型将棋の発展順について、結論づけている文献があればお教え下さい。

    mizoさんは、大将棋(13コマ)--> 摩訶大将棋への発展は、自然であり、常識的な考えであり、通説であると言われる。増川先生のご研究が・・・とも書かれる。しかし、そう書かれるのは、単に、気分でそう書かれているだけです。事実ではありません。この件で、どなたかの研究結果はあるでしょうか。

    まず、以上の点、はっきりさせていきたく思います。mizoさんの考え方や説は、さておき、mizoさんが、通説は云々、常識的には云々、多くの人は云々と、よく書かれるこうしたフレーズの中身を確認したく思います。mizoさん以外の方で、1)大型将棋の発展順の根拠を示した人があったのかどうか、2)それはどんな根拠によるのか、3)その根拠は妥当なのかどうか、という質問です。すいませんが、この3点、ご確認下さい。

    大型将棋の発展過程については、まだほとんど研究されていない、というのが私の見解です。こう思うああ思う論はありますが、きちんとした根拠に基づいた説明はまだ見たことがありません。この点、mizoさんと私の見解が違っており、コメントがかみ合わない理由のひとつになっています。

    本論ではないところからですが、ご了承のほど。#100まで書けるとしますと、ひとつひとつ、ゆっくりでも大丈夫かと思いましたので。

  • #43

    mizo (火曜日, 14 10月 2014 12:18)

    1)大型将棋の発展順の根拠を示した人があったのかどうか
    2)それはどんな根拠によるのか
    3)その根拠は妥当なのかどうか、という質問です。
    お応えします。
    1)代表的なご意見は、増川宏一先生のものです。
    2)増川先生『将棋』(ものと人間の文化史23、法政大学出版局、1977)
    最近のものでは、「将棋の歴史」(平凡社新書2013)
    丹念に文献、発掘品を調査され、
    「二中歴」の将棋→「二中歴」の大将棋→「普通唱導集」の大将棋→「中将棋」の順に、創られたと考えて、矛盾がないことを明らかにされています。13世紀までに、それ以外の他の将棋類が存在した形跡はありません。
    「異制庭訓往来」(1356~75)には大将棋、中将棋、小将棋が記されています。
    嘉吉三年(1443)に書き写したという資料に現れる「摩訶大将棋」は当然後代の物になります。
    3)妥当だとおもいます。木村義徳先生をはじめ、清水先生、熊澤先生、古作先生をはじめ、この点について異論を唱えた方を存じ上げません。

    確かに、「摩訶大将棋」に的を絞った研究はありませんが、13世紀以前に存在したという確実な証拠がありません。他の将棋類はあったという確実な記録・出土があります。また、その発展過程は、簡単なものから複雑なものへ進化したとして矛盾しません。
    宮中奥深くあったので記録は一切ないと言われれば、確かめようはありませんが。

  • #44

    長さん (火曜日, 14 10月 2014 15:04)

    ざっと、#34から#43まで読みました。ここまでで出てこなかった話に、徳島県川西遺跡の「奔横」駒の問題があると思いました。①鎌倉時代中期の物である。②奔横で、読み方が正しいと①~②を受け入れる事にすると。「平安大将棋と後期大将棋の間に、何か、別の大将棋がある。」という説。一応の根拠が有ると、今では見なすべきだというのが私の意見です。たとえば「奔横」が、小将棋用の駒と見なすのは、余りにも不自然では。
    普通唱導集の大将棋については、横行が、後期大将棋のように、既に端筋近くにあるだろうと私は思っているし。中国のシャンチーの師・将、朝鮮チャンギの漢、楚の意味も充分伝わった、鎌倉時代の事なので、中央は玉将でも王将でも良いと、鎌倉時代後期には考えられており、奔横が奔王に変化して、普通唱導集大将棋には既にある(鳳凰・鎌倉駒の成りだけではない)のではないかとは、推測はするのですが(この点は、私説)。奔横。平安大将棋の自陣段組みが、3段から4段になってから、比較的早い時代の、平安大将棋と普通唱導集大将棋の更に中間形。平安大将棋を3、後期大将棋を1程度の割合で混ぜた、「川西大将棋」とでもいうべき将棋の駒なんじゃないんでしょうかね。
    よって普通唱導集大将棋。細部はともかく。考える事自体に矛盾が、川西駒の大きな発見後は、余り無くなった、普通の説だと私はやはり思います。

    普通唱導集の、大将棋「端攻め戦法」の文句。鎌倉末期から南北朝時代。当時は「超」有名だったんでしょうね。嗔猪、桂馬、飛龍は、端攻めワンパターン将棋の元凶と見なされて、中将棋では、頭こなしに除かれたのだと私は思います。角行が、歩のすぐ下から2段目に落とされたと推定できる事(そうするために、飛車を端から移動)、横行が端列に移動させられ、反車と串刺しになれないようにした事等、中将棋では「香車・反車が耳を破り、飛車まで取り除けば、後勝てる。仲人・嗔猪が腹を合わせ、桂馬をとばせば支えれる。」というワンパターン端攻め将棋の要素が、中将棋の作成時に徹底的に、排除されたのだと私には理解できます。伝統は有っても。小将棋には在ろうとなかろうと、飛龍と桂馬が中将棋に無いのは、普通唱導集の大将棋の文句に、そのヒントが有るのでは、と私は思うのですが。

  • #45

    T_T (水曜日, 15 10月 2014 01:33)

    長さんへ(#44)
    コメントありがとうございます!

    本横の駒の件、推測の方向がいろいろあり、いつも意識しておくべき話題だと思っています。ただ、横を王とする解釈には賛成ではありません。読みが同じでも、そういう書き換えはあり得るのでしょうか。当時、そのように解釈された経緯を知りたく思っています。奔横が奔王でいいのなら、王子は横子であってもいいことになりますが、王のようにきちんとした意味が決まっている字が、別の字でもよかったのかどうか、ということです。

    ともあれ、本横の駒については、私は今もまだ、奔獏の駒であってほしいと空想しています。近くにいたのは土御門天皇だったのかどうか。一時、摩訶大将棋の起源を日蓮宗に求めた折、土御門天皇が大大将棋を遊んだ可能性はなくなりましたが、その後、伎楽面と踊り駒との対応がわかりましたので、摩訶大将棋の成立が多少早い方にずれています。ですので、以前の空想は復活しました。

    1200年前後の明月記に書かれている大将棋、これを見ていた御前というのは、九条兼実なのかどうかを、まだ調べていません。幼少の頃の土御門天皇ということもあり得る、と考えていいのでしょうか。ここのところ、はっきりとさせたいのですが、なかなかです。

    それと、仲人・嗔猪の件ですが、これについては、最近、仲人の解釈が大きく進みましたので、長さんも再検討お願いできますでしょうか。仲人の件、近々に投稿いたします。

  • #46

    T_T (水曜日, 15 10月 2014 02:19)

    mizoさんへ(#43)
    早々のお答えありがとうございます!

    この質問、お聞きしてよかったです。mizoさんの考え方は、いわゆる学会の方法論とはかなり違うものだろうと思います。最初に、再度、確認させていただきたいのですが、#43の2)のお答えで、

     > 「二中歴」の将棋→「二中歴」の大将棋→「普通唱導集」の大将棋
     > →「中将棋」の順に、創られたと考えて、矛盾がないことを
     > 明らかにされています。

    と書かれています。明らかにされている箇所は、どのページの何行目なのでしょうか?

    私は、もちろん、増川先生の著作はすべて持っていますが、大型将棋の成立順を確定させる根拠までは書かれていないのではないでしょうか。しかし、mizoさんは、根拠が書かれていると言います。矛盾がなく明らかだと。だとすると、増川先生の説とは全く逆のmizoさんの説(中将棋が大将棋より早い)は、成立する余地など全くありません。

    そこで、ふたつ目の質問ですが、mizoさんの説は、自分では絶対正しいと言い張っているものの、実は、正しくない可能性もあると、お考えなのでしょうか?

    なお、増川先生は、平安大将棋 --> 大将棋(15マス)--> 中将棋という時系列とその考えを書かれているだけで、摩訶大将棋の成立については、論理的に突っ込んだことは書かれていません。私の解釈は、増川先生の時系列に、摩訶大将棋を割り込ませたというものです。つまり、
    平安大将棋 --> (摩訶大将棋)--> 大将棋(15マス)--> 中将棋
    ということで、増川先生の考え方と抵触してはいません。

    #43の3)のお答えですが、根拠がどこに書かれているかということをお聞きしてからでないと何とも言えませんが、現状では、根拠は書かれていないと考えます。ですので、妥当も何もありません。mizoさんの使う根拠と、私が使う根拠という言葉のニュアンスが違いすぎており、今まで話しがかみ合わなかったように思います。

     > 木村義徳先生をはじめ、清水先生、熊澤先生、古作先生をはじめ、
     > この点について異論を唱えた方を存じ上げません。

    とも書かれています。ここは紛らわしい表現です。「この点」というのは、どこまでかということです。平安大将棋 --> 大将棋(15マス)--> 中将棋だけの時系列だとすれば、それは事実です。私も異論を唱えない人々の中に含まれています。ただ、本稿の議論の対象が、中将棋先行なのか、摩訶大将棋先行なのか、ということですので、mizoさんが摩訶大将棋までを含めた話しで書いておられるとも受け取れるため、あいまいです。

    もし、摩訶大将棋までを含めた時系列ということで、上記の文章を表現されているのでしたら、mizoさんは気分だけで書いておられるのでは。。。つまり、大将棋(15マス)--> 摩訶大将棋までを含めての発言なのでしょうかということです。念のため、確認させて下さいませ。もし、そうだとすると、増川先生は、そのような結論はどこにも書いていませんので、mizoさんの文章は誤解を生みます。他の4人の先生方についても、その考えを私は知る由もありませんが、mizoさんは、異論を唱えていないと書いています。本当にそうでしょうか。やはり誤解を生みます。

    #43の最終段の件については、また、後日にいたします。短くだけ書きますが、推論の根拠となり得るものは、文献の記述と出土だけとは限りません。本ブログにて展開していますように、伎楽面と踊り駒の対応、師子と狛犬のペアが生じた年代、陰陽道が盛んだった年代、王子と太子の使用頻度、十二支の駒が揃って入るタイミング等々、いろいろあると思います。文献と出土の不足を、別の観点からひとつひとつ補って、説をゆっくり補強していく、これは、とにかくパズルのようです。そのまま全部の答えが書いてある文献が見つかっても、何も面白くありません。かと言って、空想ばかりでも面白くない。摩訶大将棋は、本当にちょうどいい具合に、文献が残っていました。今日はもう書けませんが、近々に、仲人の件、書きます。この件の解読、本ブログを始めてから一番きれいなヒットのひとつです。

  • #47

    長さん (水曜日, 15 10月 2014 08:28)

    奔横と奔王ですが。間違えたのではなくて、以下の事情での必然的な変更だったと私は思います。横行が、川西大将棋では、玉将の直ぐ上。普通唱導集大将棋では、3段目左右2列目の位置だと思います。つまり、横行の移動により、当時の習慣では、奔横を奔王に、名称変更しなければならなかったのだと思います。つまり「奔」駒は、早い時期の大将棋類では、同列すぐ下の駒に冠することのできる位置に、配列する習慣だったのでしょう。「香車の直ぐ上に奔車」の例に習ったのだと思います。つまり、平安大将棋(通説)で、3段目に有った歩兵を全部4段目に上げ、川西大将棋では、平安大将棋の中央列横行の直ぐ前の升目に、奔横を置いたと、私は推定しています。なお新たにできた、3段目の空列には、飛龍を移動させたり、飛車が発明され加わったりの試行錯誤が、行きつ戻りつ、この頃繰り返されたのでしょう。つまり平安大将棋~川西大将棋~普通唱導集大将棋の間に、後の後期大将棋(西暦1443年と1550年との間)に向かう連続的な「進化」が、西暦1200年から1350年程度にかけて、ゆっくりと起こっていたのだと私は思います。

  • #48

    mizo (水曜日, 15 10月 2014 08:50)

    『将棋の歴史』(平凡社新書)より
    p38
    「出土駒から推定すると、現在のところ日本に将棋が伝来したのは10世紀の後半から11世紀の前半の間と判断してよいであろう。」
    p48
    「『台記』に藤原頼長が源師仲と指したのが「大将棋」とあり、12世紀の前半には大将棋が考案されていた。」
    p49
    「この大将棋(『二中歴』記載)も1世紀余りで改良された。」
    p52
    「この新しい大将棋(『普通唱導集』(1297~1302の間に執筆)記載)は、後代の写本で『象棋六種之図式』に記されている大型の将棋と同じである。」
    p55
    「貞永元年(1232)の「大和海龍王寺制規は僧侶の行いについて述べたものであるが、「大小将棋」を禁じているので、当時は二つの型の将棋が遊ばれていて、出土駒もこの事実を裏づけている。」
    p57
    「『異制庭訓往来』(延文・応安年間<1356~75>)に大将棋、中将棋、小将棋が記されている。中将棋の記述では甚だ古く、14世紀の中頃には既に考案されていたことがわかる。」
    以上の記述から、
    >>「二中歴」の将棋→「二中歴」の大将棋→「普通唱導集」の大将棋→「中将棋」の順に、創られたと考えて、矛盾がないことを明らかにされています。13世紀までに、それ以外の他の将棋類が存在した形跡はありません。
    という内容を読み取りました。

    この点というのは
    >>「二中歴」の将棋→「二中歴」の大将棋→「普通唱導集」の大将棋→「中将棋」の順に、創られた。
    という考えです。

    私は「普通唱導集」の大将棋=「大将棋」(130枚)に疑問を述べています。論拠は繰り返しになりますが、「大将棋」(130枚)への変化が大きすぎること、最強駒が「飛車」と読め、主人公の「獅子」への言及がないことです。

    13世紀までにそれ以外の将棋類があったという証拠はないと思いますが、突如、「二中歴大将棋」から、嘉吉三年(1443)に書き写したという資料に現れる「摩訶大将棋」が創られたというお考えだということはわかりました。

  • #49

    長さん (水曜日, 15 10月 2014 12:55)

    上のmizoさんの「主人公の「獅子」」ですが、私も、普通唱導集大将棋に、生の駒の獅子は無いと考えます。ただし、成り麒麟が獅子で無いと、私の説ではまずいんですね。「成り麒麟=獅子 必須」です。端攻めが成功した側が、成麒麟の獅子が無いと、勝ちが自明ではないと思っていますので。
    私の方の普通唱導集大将棋では、「成ってできる獅子」に言及が無いのは、飛車を退けた後の、成り麒麟の働きを表現すると、終盤までのゲームの流れが余りにもバレバレになり、その時代に指している「棋士役者」から文句が出るので、中盤の所でカットしているで、なんとか説明可能かと思います。

  • #50

    T_T (木曜日, 16 10月 2014 02:05)

    mizoさんへ(#48)
    お返事ありがとうございます!

    申し訳ありません、お手数おかけいたしました。私の質問の文面が不明瞭でした。#42で
    1)大型将棋の発展順の根拠を示した人があったのかどうか
    とおうかがいしましたのは、本稿、摩訶大将棋先行かどうかの問題を論じていますので、当然、摩訶大将棋を含めての大型将棋、その発展過程をお答えいただけるものと考えていました。

    しかし、mizoさんのお答えは、一番大きなもので大将棋(15マス)までの将棋の時系列でした。摩訶大将棋を含めずに、平安大将棋(二中歴)、大将棋(15マス)、中将棋の3つだけを並べるのでしたら、その順番で私も特に異論ありません。この3つだけですと、出土駒と文献から、ほぼ確かな成立順を推論可能です。これまで論外の扱いだった摩訶大将棋こそが、今後の焦点と考えています。

    そうしますと、mizoさんの#43と#45を読みます限り、摩訶大将棋の成立時期については、これまでどなたも(mizoさんと長さん以外のどなたも)、論じてこなかったということでよろしいでしょうか。

    話を最初にもどさせていただきます。次の成立順を、仮説Aと呼びます。
    仮説A:平安大将棋(二中歴)--> 大将棋(15マス)--> 中将棋

    仮説Aは、これまで多くの専門家が支持しています。一方、mizoさんは、発展の途中経過はさておき、次の仮説Bを提唱されています。
    仮説B:平安大将棋(二中歴)--> 中将棋 --> 大将棋(15マス)

    文献や出土が全く不足していますので、こちらの仮説が正しいと断定することも、一方の仮説を完全に否定することもできません。どちらの説にしろ、ある可能性でもって正しいという言い方になります。ちょうど、量子力学のように、結論は確率の雲の中というわけです。

    そこで、mizoさんにご質問です。仮説Aの成立可能性、仮説Bの成立可能性を、それぞれ、何%とお考えでしょうか?

    ともあれ、私の摩訶大将棋先行説は、仮説Aの大将棋(15マス)の前に、摩訶大将棋を入れるだけです。そして、mizoさんの中将棋先行説は、仮説Bの中将棋の後ろに、摩訶大将棋を置くだけです。つまり、大将棋(15マス)と摩訶大将棋の成立順を決めれば、摩訶大将棋と中将棋、どちらが早くに成立したかの結論を得ることができます。進みが遅くてすいません。私へのご質問の答え、そのままにおいたままです。次回のコメントにて、やっと本論を書き始めたく思います。

    1点だけ短くです。#48の最後のところです。

     > 13世紀までにそれ以外の将棋類があったという証拠はないと
     > 思いますが、突如、「二中歴大将棋」から、嘉吉三年(1443)に
     > 書き写したという資料に現れる「摩訶大将棋」が創られたという
     > お考えだということはわかりました。

    上の文章からは、あまりわかっていただいていないように思います。1443年に、摩訶大将棋、大将棋(15マス)、中将棋が存在したということは確実ですが、1300年までを考えれば、3つの将棋はあったのかどうか、実は不明です。台記で「大将棋」と書かれている、明月記で「大将棋」と書かれている、その他の古文書でも、「大将棋」と書かれている、しかし、この「大将棋」が、大将棋(15マス)とは限りません。当然、摩訶大将棋であった可能性もあるわけで、台記や明月記から言えることは、この時代に、大型将棋が存在した、天皇や高位の公卿が指していた、ということです。

    これまでの研究者は、そもそも、大型の将棋は(たとえば、摩訶大将棋は)指されたことはないだろうと考えていたわけです。そうした記述を、いろいろな単行本で私は何度も見てきました。ですので、全体の風潮としては、台記や明月記で「指されていた」将棋を、摩訶大将棋に結び付けるはずがありません。摩訶大将棋は指されていないという直観的な結論、これが間違いであることは、摩訶大将棋の復刻と実際の対局を通じて明らかになったと思っています。

    そういうわけですので、摩訶大将棋の成立時期については、常識的に考えてとか、通説ではとか、○○先生が言われているとか、そういう話しではなく、真っ白なところから、考えていただけたらと思うのです。mizoさんのコメントを振り返りますと、摩訶大将棋先行説に対する反論の根拠は非常に少なく、そして、中将棋先行説を支持する根拠もまた、非常に少ないのです。一方で、摩訶大将棋先行説の根拠や間接的な証拠は、次々と上がってきます。私は、有利な論点だけを無理に探しだしているわけではありません。新しく気づいた点がでてくれば、そのままを真っ白な状態から解釈します。ところが、どれも、摩訶大将棋先行説の方に転ぶのです。もし、中将棋先行を示しているのであれば、この点では、中将棋先行ですよね、ときちんと言います。しかし、これまでの思索からは、そういうことはほとんどありませんでした。そういう何かがあれば、是非お教え下さい。

    私は摩訶大将棋先行説が正しいと主張したいわけではなく、何が正しいのかということを知りたいだけです。こういう点で、私は、結構、物理学者的です。また、歴史の事実はひとつだとは言え、将棋の歴史の場合、ぼんやりとした雲のような結論であることは仕方ないと考えます。現状、将棋の歴史は、量子論的であらざるを得ません。摩訶大将棋先行説の成立可能性は、だいたい50%だと思っています(実は、ちょっと妥協してますが)。なお、上記の仮説Aの成立可能性90%、仮説Bの成立可能性9%、その他の可能性1%と考えます。

  • #51

    長さん (木曜日, 16 10月 2014 11:37)

    #50を読んで気が付きましたが。
    私はかつて物理学者たちが熱心に、惑星の定義について、議論しているのを見た事がありますので。それがいかにも物理学者的なのかは別にして、ここらで、摩訶大将棋の範囲を、ひとまず、より厳密にしてはどうでしょうね。
    19×19なら全部、摩訶大将棋。これは明らかにダメですね。七国将棋も広将棋も摩訶大将棋になってしまいますから。
    研究は黎明期のようですので。
    とりあえず、みかけの形状からの定義っていうのはどうでしょう。
    駒は升目に置くとして、問題外の七国将棋や広将棋は除外する事にしても。
    起源の議論をするときには、定義幅は、少し広い方が良いかもですね。
    初期配列の駒ならびが同じで、表駒名が、同じか、同義のものは、起源を論じるときには、摩訶大将棋の発生年代等と、記して良いことにしてはどうですか。成りが違うとか、昔は動かし方のルールが違ってたとか、成りの規則が違うとか、獅子が居喰いできない・・・は、別の将棋とは考えないという意味です。摩訶大将棋と摩訶大大将棋の、私の鳳凰の成りで区別するローカル方式も含めて、発生年代を議論するときには、これらを区別するのも止めた方が良いかもですね。
    以上の私の発言。物理学者的と言うのとは、ちょっと違うと思われましたら、とりあえず無視してください。
    なお上のような事を言い出すのは裏を返せば私が、19升目×19升目の将棋で、摩訶大将棋の駒を幾つも含んだ、配列は別で、直観的にはどうみても別種の将棋が、御説に関連して、平安時代から、有ったのかもしれないと思っているからです。つまりその定義をズルズルにすると、このブログの説、100年後に一応正解とされてしまう事にも、なりかねないと、疑問に思っているからなのですが。

  • #52

    mizo (木曜日, 16 10月 2014 22:08)

    増川先生『将棋』(ものと人間の文化史23、法政大学出版局、1977)
    p122
    「中将棋と大将棋および大大将棋の成り様は同じとされているが、摩訶大大将棋になるとさらに人工的になり、単純化されてくる。」
    p123
    「駒数の多い将棋は少し後に創られたのであろうから、それだけ成り様も進歩したのか、かなり整理されてきている。」
    古い本ですが、増川先生のお考えは変わっていないと思います。大将棋(130枚)のあとに「摩訶大大将棋」(192枚)は創られたとの説です。
    木村先生『持駒使用の謎』(日本将棋連盟2001)
    p252
    「92枚制中将棋は130枚制大将棋が大きすぎることから縮小させたものに違いない。その成立年代は現行将棋とほぼ同じ頃の1250年頃前後50年であろう。」
    「そのほか鎌倉期には超大型将棋ともいうべき、192枚の大大将棋、192枚の摩訶大大将棋、354枚の泰将棋も創案され、」
    130枚大将棋が192枚摩訶大大将棋より先行しているとのお考えです。

    大将棋(15マス)は私の仮説「普通唱導集大将棋」も15マスですので、木村先生に倣って、大将棋(130枚)としていただけないでしょうか。私は不遜ですが自説が100%正しいと思っています。飛車最強説が論破されていないからです。また、一気に「二中歴大将棋」から「大将棋」(130枚)に変化するのは無理だと思うからです。中間段階でもっと指しやすい将棋があり、流行しないと『普通唱導集』の記述は生まれないからです。

    伎楽との関連について、
    金剛:金剛、力士:力士、夜叉:治道、羅刹:崑崙
    師子:師子、鳳凰:迦楼羅
    との比定をされていますが、はなはだ疑問です。
    金剛力士像は、仁王像として有名です。金剛、力士は伎楽に特徴的な名称ではないと思います。また、伎楽では金剛は呉王と、力士は呉女とのからみで登場し対ではありません。
    夜叉、羅刹にいたっては、名称変更の理由がわかりません。比定されている治道は最初の行道に登場し、崑崙は呉女に登場し人気キャラクターです。対ではありません。面の形相でわかるとおっしゃられては言葉がありません。
    師子は行道で登場しますが、狛犬は現れません。雅楽で狛犬舞はあったかもしれませんが、伎楽ではないです。
    迦楼羅は鳥ですが、鳳凰も鳥だから同じとはなりません。麒麟も登場しません。
    やはり、伎楽と将棋は無縁と思われます。摩訶大将棋の方から見ると関連付けられそうですが、伎楽の方から見れば選択が恣意的すぎると思われます。酔胡はどこへいったのでしょうか。

    「普通唱導集の大将棋」は、大将棋(130枚)だとお考えですか?
    摩訶大将棋だとすると、仲人と嗔猪が腹を合わせることはないと思われます。
    先生のお考えは「二中歴大将棋」→「摩訶大将棋」→「大将棋」(130枚)ということでよろしいでしょうか。

  • #53

    長さん (金曜日, 17 10月 2014 10:01)

    私の場合。摩訶大(大)将棋の成立年代は、初期配列をぱっと見て、戦国時代の「天文の錯乱期(西暦1530年代)」でした。それから、ずいぶん経ちましたが。
    このブログで、建武の新政期(西暦1333年)の壁を破って遡る、いろいろな根拠についての御説を拝見させて頂きましたが。その後で今、摩訶大(大)将棋の初期配列を、全体的にぼんやり見ると。やっぱり天文の錯乱期(西暦1530年代)の作なんですよね。私には。
    種を明かせば、2段目から仲人の7段目までで、中央、仲人の列までの配列で、盲熊の2枚だけを除くと。須弥山型に私には見えるのです。つまり、狛犬、金剛、力士、羅刹、夜叉。起源は御説のように、もともとは伎楽なのかもしれませんが。須弥山中腹の、四王天に住んでいる住人を、初期配列で表しているように、私には見えると言う事です。ある意味、近代より前の、天と地の模型のように見えるんですね。摩訶大(大)将棋の初期配列は。そもそも以前に、「西暦1443年作文献」には、「摩訶大将棋は、そのようなものだと記してある」と、このブログでも、御紹介が有ったのではないでしょうか。1段目が地面を表し「地層」駒なのですよね? だから中央部の2段目から7段目は、盲熊を除いて、山(須弥山)を表していたとしても、なんら不思議ではなく、それが自然な造りなのではないでしょうか。
     で、これは将棋の一種ですから。ずっと向こうの13段目からは、ひっくり返って敵陣が有るわけですよね。ようするに、仏教の宗派同士が、正当性を巡って争っているという図なんじゃないんですか? これは。おまけに、玉将は相手駒を取ると、自在王に成るのでしょう。自在王。世自在王を自然に連想しませんか? つまり、摩訶大将棋の玉将は、阿弥陀如来だって事ですよね。それで、阿弥陀如来をボスにして、合戦するんでしょう? ほとんど石山本願寺の一向一揆の世界じゃないんでしょうかね。これって。
    だから、摩訶大将棋は、「成立年代は天文錯乱期(西暦1530年代)」を、少なくとも私には、自然に連想させたのです。
     おまけに、醉象の成りを王子にして「仏教宗派の争いは、お釈迦様(太子)の本意ではない」と、諭しているわけですよね。という事は、摩訶大将棋を作成したのは、坊さんだとは思うのですが。私には、浄土真宗および日蓮宗以外の、一例を挙げれば、ずばり天台宗であっても矛盾は無いと思いますね。
     以上の観念が、「ますます増加する、摩訶大将棋、上代発生の根拠」に比べて、私の場合はまだまだ勝っているというのが、御説を拝見したうえでの状況です。私は、東京近郊に住んでいるので。東京都北区王子の地名が、古めかしい物であるとの御話も、生まれてからこの方、あんまり聞いたことが無いので。たとえば酔象の裏から、私には摩訶大将棋が古いとは感覚的にはとても思えない、一つの要因でありますね。

  • #54

    T_T (月曜日, 20 10月 2014 01:31)

    長さんへ(#51)
    コメントありがとうございます!!

    摩訶大将棋の定義の件ですが、本ブログでは、象棊纂圖部類抄の摩訶大将棋(摩訶大大将棋という記載になっています)を対象としています。長さんが、仮想の19マス将棋を考えられているとしても、それは、摩訶大将棋とは別物と考えます。

    私の場合、図面として、きちんと古文書に残っている将棋だけを考えていきたく思います。ですので、たとえば、普通唱導集の大将棋という説にも、反対と言うよりは、そもそも全く興味がありません。それは、空想でしかなく、その将棋から何かの論理展開が生じることはないと考えるからです。なぜ、そのような空想の将棋を重要視されるのか、ずっと納得できないままです。私は、適度にリアリストなのかも知れません。

  • #55

    T_T (月曜日, 20 10月 2014 01:53)

    長さんへ(#53)
    コメントありがとうございます!

    象棊纂圖部類抄の年代が1443年ではない、という長さんのお考え、もう何度もお聞きしていますが、全く納得できません。1443年だとすると、摩訶大将棋は、少なくともそれ以前の成立ということで間違いないわけですが、長さんはそうでないと言われる。

    #50にて書きましたところの、量子論的な確率解釈ですと、象棊纂圖部類抄が1443年ではない、という可能性は、長さんのお考えでは、だいたい何%なのでしょうか。私は、象棊纂圖部類抄=1443年というのは、99%確かだと思っています。残り1%程度は、そうでなくていいかも知れませんが。

    もし、象棊纂圖部類抄が1443年でない可能性が、10%以下だとしますと、いったん、1443年として、摩訶大将棋周辺を追っていき、それが行き詰ったところで、長さんのお考えを追えばと思うのですが、いかがでしょうか。象棊纂圖部類抄が1443年だとして(つまり、摩訶大将棋は1443年以前に成立)、何か、重大に矛盾が生じる事象はありますでしょうか。この重大さの程度は、1443年でない可能性の%に見合わないといけません。もし、1443年でない可能性=50%と言われる場合、それなりの重要な矛盾点が必要になると思います。そんな矛盾点ありますでしょうか。

  • #56

    T_T (月曜日, 20 10月 2014 02:32)

    mizoさんへ(#52)
    コメントありがとうございます!

    なかなかきっちりと書く時間がないのですが、#52に関しての返信、いくつかに分けて書きます。非常に気になるところが2点あります。

    まず、「自説が100%正しい」と言われるところです。これは、不遜とかそういう問題ではなく、議論をしていく上で問題だと考えます。たとえば、100%正しいとした場合、全員を納得させることができるわけですが、mizoさんの説は、全員に対しての説得は、絶対無理ではないでしょうか。もし、論理的な結論であれば、100%全員が納得します。納得しないという人は、つまり、間違っているわけですから論外です。ところが、将棋の歴史は、全部を論理的に結論するのは、現状、無理でしょう。少なくとも、鎌倉時代あたりまでは、そうなると思います。どうしても、こう思う、ああ思う、が入るわけですが、その場合、賛成反対、好き嫌いの判断が出てきます。ですので、100%と結論することそれ自体が、よくわかりません。100%正しい、と言われるのは、もう議論しません、私の好きなように言わせて下さい、ということと同じように思えます。

    伎楽面との対応ですが、これは、私の説明不足ですので、納得していただけないのは、仕方ありません。後日投稿するすると言いながらまだできていません。すいません。ただ、

     > 夜叉、羅刹にいたっては、名称変更の理由がわかりません。
     > 面の形相でわかるとおっしゃられては言葉がありません。

    と書かれていますが、伎楽面をご覧になられた上でのコメントでしょうか。一番わかりやすいのは、治道の面です。長い鼻が特徴です。この面は、天狗の起源と言われていますが、天狗は夜叉の別名でもあります。伎楽面の件、八部衆と合わせまして、後日まとめて投稿いたします。実は、以前も書いたかも知れませんが、麒麟のみ同定できていません。この理由は、師子児の面があるからで、師子児=麒麟の説を捨て切れません。

    コメント#52の最終段ですが、摩訶大将棋 --> 大将棋(130枚)というのは、私の考えとは違っています。そもそも、「普通唱導集の大将棋」という存在を、私は受け入れることができません。それは、空想の将棋だからです。少なくとも、議論のもとになるには、古文書に図面が載っている必要があると考えます。ただ、私の場合、歴史や考古学とは門外漢ですので、出土にも古文書にもないものを、存在するものとして議論を進めていく専門家の方が何人もおられるようでしたら、この件、取り下げ、きちんと検討してみたく思います。

  • #57

    長さん (月曜日, 20 10月 2014 08:10)

    西暦1443年以前に対する違和感は、ざっとですが、提婆達多が釈迦を殺すために放った、醉象の裏を、日本の釈迦、聖徳太子を連想させる太子から、中世、室町時代も存続していた熊野信仰ゆかりの王子に、書き換えた点が一番でしょうね。
    西暦1443年というのは、足利義教が、比叡山を焼打ちをした、10年弱後ですね。しかし、当時の比叡山。本山を守るのが主体で、矛先は幕府。別の仏教宗派には、当面向いていなかったと思います。また、北陵に対する南都の興福寺も、この頃はどうみても、治外法権を獲得するための、武装化の時代の継続ではと思います。
     つまり日本では、仏教別宗派の武力排斥の思想はやはり、一向宗の大小一揆・天文の錯乱の頃にならないと、出てこないような気がします。それより前は、どの宗派も、武家や僧兵個人のレベルでは、分け隔てなく尊ばれる時代だったのでは。
     よって、仏教的宇宙観であるところの、須弥山世界が対面して対峙する、仏教宗派の対立を模した将棋が摩訶大将棋であるというのであるとすれば、それを1443年以前とは、とても考えにくいと私は思います。
     また醉象と組み合わされると、太子は、釈迦(シッダ太子)の事以外に有り得ないと言うのが、私の持論です。これを、熊野信仰の若王子に、むりやり置き換えるとなると、やはり、人の病、老、死の悲しみが仏門に入る起点だった、釈迦にそぐわない宗派対立の合戦。しかも、自分が開いた仏教の、子々孫々同士の争いですから、そんな合戦に釈迦は加わりたくないだろうと、想像するでしょうよね。摩訶大将棋の作者も。
    逆に言えば太子を王子に変えたことが、摩訶大将棋が、仏教宗派同士の合戦を模したゲームで有ることを、はっきり証明する、刑事事件の手がかりのようになってしまっており、そこでこれが石山本願寺が存在しない、1443年以前のものではありえないという根拠になると思われるのですね。

  • #58

    長さん (月曜日, 20 10月 2014 17:23)

    ↑の続きです。
    よって、確率ですが。摩訶大将棋。初期配列ルールの確立時期。
    1443年より前は、ほぼ1%。
    象棊纂圖部類抄の曼殊院古文書を書き始めてから1443年までが10%。
    1443年より後、下記の前が60%。
    水無瀬兼成が、曼殊院古文書を紹介する直前が29%。
    のイメージです。
    なお以上は曼殊院古文書と摩訶大将棋に対する私的な見立てであり、他の方の研究スタイルを拘束する意図は、私には特にありません。

  • #59

    mizo (月曜日, 20 10月 2014 22:25)

    》56
    100%自説が正しいと考えるのが普通だと私は考えています。器用に分けることは難しいです。ただ、他の方が信じてくれそうな割合は感じます。「普通唱導集大将棋」の存在については、40%くらいです。ご指摘の通り出土品が、角行(裏面が金)のみ、全体を解説する文献がないことが私の説の欠点です。私の考えを説明しても、『普通唱導集』の大将棋は130枚制だという方が多いです。
    伎楽面については、なぜ名称を変更したかを教えていただけると幸いです。夜叉・羅刹という名称は、治道・崑崙のままでは問題があったのでしょうか。提婆・無明に並ぶ仏教的な名称だと思いますが、提婆・無明は伎楽とは無縁ですか。
    「摩訶大将棋」以前にあった将棋(もとになったもの)は何だとお考えですか。また、「大将棋」(130枚)は「摩訶大将棋」の後だとおっしゃられていたはずですが、どうなっていますか。『普通唱導集』に書かれた流行をしたと思われる大将棋は何だとお考えですか。

  • #60

    長さん (火曜日, 21 10月 2014 11:00)

    ↑で。
    角行(裏一文字金)駒。普通唱導集大将棋の駒の可能性は少ないです。
    普通唱導集は西暦1302年。第2次小山義政の乱は西暦1381年。
    出土駒がこの時代のものか、あるいは正確にこの時の物を再現してい
    るものだとしても、79年も違えば大将棋は変わるものなのではと。
    「一時的に、麒麟抄の南北朝時代とみられるという『崩し字金』書き
    込み情報に引きずられて、飛車角の成りは、不成りから金に変わり、
    少したって、また不成りに戻った。」とか。幾らでも説明のつく
    年数差だと私は感じます。
     普通唱導集大将棋の飛車と角行。不成りの方がベターです。
    「飛車を退けた」側。敵陣で飛車が強制的に金に成り、金一つ
    の差が付く程度では大した形勢差では無く、ありがたみが少な
    くないですかね。
    あるいは道具はそうでも。ルールは強制成りではなくて、
    「自由成り」だったのでしょうか。なおこの角行将棋駒に関しては。
    江戸時代に作られた、聆涛閣集古帖摩訶大将棋の模写駒の可能性
    の説も依然、私の頭の中では強いです。ホントの南北朝時代の
    摩訶大将棋駒だったら脱帽ですね。

  • #61

    T_T (火曜日, 21 10月 2014 21:56)

    長さんへ(#58)
    コメントありがとうございます!

    摩訶大将棋には、奈良時代・平安時代に盛んだった伎楽面の名称がずらりと並んでいます。摩訶大将棋が1443年よりも前に成立した可能性が、たった1%だと言われる場合、逆に、その成立が1443年以降だったに違いないという根拠を、かなりしっかり列挙することが必要だと考えます。

  • #62

    T_T (火曜日, 21 10月 2014 23:07)

    mizoさんへ(#59)
    コメントありがとうございます!

    大将棋(130枚)という語句ですが、普通唱導集から想定した大将棋のことかと読み違えていました。コメント#56の最終段で、「摩訶大将棋 --> 大将棋(130枚)というのは、私の考えとは違っています。」と書いたのは、そのせいでした。

    大将棋(130枚)を使って下さいとのことですが、これまで、かなり多数、大将棋(15マス)と書いてきましたので、このままでさせてもらえませんでしょうか。それに、私の場合、古文書の図面にある将棋だけしか信じることができないということがあります。普通唱導集から想定した大将棋が15マスだということは、検証不可能です。

    普通唱導集に引用されている大将棋は、文面からは、大将棋のどれかであるとしか言えない、という立場です。これ以上の類推は、空想になると考えます。

    伎楽面の件、なぜ、治道をそのまま駒の名前にしなかったのかというご質問ですが、その理由はわかりません。ただ、治道の面は、どうも夜叉の駒に対応しているらしい、ということを感じただけです。仮に、この面だけですと、私の考え方は、空想と言うべきです。しかし、金剛、力士、師子の面が、そのままの名前で駒にあるという事実が、別にあるわけです。また、迦楼羅の面(通常、迦楼羅は鳳凰と関連づけられます。鳥という類似ではありません。)、崑崙の面(羅刹の形相です)と揃います。また、舞楽の方には、狛犬の舞があります。行道の先導に、伎楽と師子の舞は普通で、平安後期には、師子と狛犬の舞も普通のことでした。伎楽面と八部衆との対応では(また後日に投稿します)、残る麒麟の駒は、婆羅門の面となりますが、#56にも書きましたように、師子児の面が麒麟(成りが師子)の駒に対応だとすれば面白く、いまだ保留状態です。そして、これも重要なのですが、伎楽面に対応するすべての駒が、踊り駒と呼ばれているのです。ともあれ、踊り駒8枚、強い踊り駒全部が、伎楽面に対応する駒です。ここまでの対応をもってしても、mizoさんは、摩訶大将棋と伎楽面は無縁だという結論でしょうか。せめて、可能性20%ぐらいと言っていただけたら。。。

    そもそも、治道という駒があった場合、将棋らしくないように思いますが。夜叉とした方が、将棋らしい感じはします。名称を変更した理由は、しかし、あまり重要な問題ではありません。それは、答えがどうであれ、検証できないからです。空想になります。なにがしかの結論に導くためには、事物、史実、出土、文献との対応が重要と考えます。

    現状、提婆と無明の駒は、伎楽面とは関連しないと考えます。踊り駒ではないからです。

  • #63

    長さん (水曜日, 22 10月 2014 08:19)

    そうですか。いっぱいあるより、大きいように見える証拠。一つあれば転ぶ性格なんですね。つまりこのブログで挙げられている「いっぱい(列挙)」の「証拠」は、皆小粒であり、同じ96枚(×2)制将棋で、配列の全く違う、1443年以前の将棋が存在するでも、充分に説明できる系統的な「弱点」があると、私は感じていると言う事です。まあ、自説をきちんと述べたいのなら、私もブログを立ち上げますから。ここでは、私が今述べた点を、高見先生が、薄らと感じ取っていただければ、私の一連の書き込みの効果は、それで充分かと思いましたね。

  • #64

    T_T (木曜日, 23 10月 2014 02:19)

    長さんへ(#63)
    コメントありがとうございます!

    将棋の歴史の事実に、小粒とか大きいとかの区別はないように思います。私は将棋の歴史の初心者ですが、個人的には、ひとつの小さな根拠が見つかると、それに呼応する(=矛盾しない)周辺の事物、史実が、いろいろ説明できるという傾向があるように感じます。

    つまり、正しい説だとすると、その説の根拠がたったひとつだけということはあり得なくて、ひとつひとつの事象が、どれも根拠のひとつとして成立し、それらが寄り集まってくるように感じます。

    ですので、ある説に対して、事象Aはその説を支持する、事物Bは説に反する、出土Cは説を裏付ける、文献Dは説と矛盾する、みたいなことは起こりません。ある説に対して、ひとつのある程度しっかりした根拠(小さくても論理的なもの、空想ではなく事物に即したもの)がみつかれば、あとに続くものは、同じ方向を向くようです。

    将棋の歴史に、全く不明なもの、謎に包まれたものは多くあります。しかし、不思議に感じるもの(事物が、相反する結論に導くようなもの)は、これまでにはなかったなというのが実感です。

    というわけですので、根拠は列挙されるはずと思う次第です。根拠が列挙されない説、つまり単発の思い込みのような説は、たぶん、正しくはないだろうと考えます。すいません、度のすぎた個人的見解で。

    長さんのコメント、いくつかのホームラン級のものをいただいています。小山の角行や、飛龍の不成り、老鼠がいるからこそ十二支、等々、まだいろいろありますが、摩訶大将棋が1443年以降だというお考えには、1億円ぐらいの賭けをしてもいいぐらいです。

  • #65

    mizo (木曜日, 23 10月 2014 09:43)

    ついに、65になりました。100コメントが冗談ではなくなりつつあります。
    >>60
    長さんのコメントに気落ちしています。角行(裏金)は私の説の唯一の物証だと考えていたので、地元の長さんの見解にがっかりです。
    ただ、私は「二中歴大将棋」は「金成り」の制限があったため、簡単に思いつく飛車がなかったと考えています。つまり、「普通唱導集」の大将棋ではその制限がなくなり「不成り」も選べるとしたことで飛車が生まれたと考えています。金成りが意味をなさない奔王などは、多種成りを認めた後に生まれたのだと思います。こう考えないと弱い駒が無闇に創られたことの説明が困難だと思います。
    なお、このブログは高見先生のものですから、脇にそれたコメントはご迷惑かと思います。失礼しました。

    「普通唱導集」の記事は、何らかの大将棋が流行した明白な証拠です。駒の名前から「二中歴大将棋」ではありません。繰り返しますが「飛車」が最強駒のように読めるので、「獅子」(「師子」)のような実際に魅力的な強力な駒が記述に現れないのは不思議です。「大将棋」(15マス、130枚)の将棋を指すときに飛車ごときが活躍できるとは思えません。ただ、不思議だねといわれればそれまでです。

    指すのに数時間かかる大型将棋は流行したのでしょうか。疑問です。これも、そうですねといわれればそれまでですね。

  • #66

    長さん (木曜日, 23 10月 2014 09:47)

    まあ、作者が名乗り出ない限り。無い事の証明ですから。今の状態で推移したとして。私はたぶん永遠に、高見先生からは1億円は貰えませんね。作者と作成年代1443年後の証拠が万が一出てきたら、どこかの慈善団体に寄付でもされたらどうでしょうか。団体名は高見先生に一任しますよ。私はそんな頃には、この世に居ない可能性が大きいですからね。逆に1443年書き終え文献の、象棊纂圖部類抄が著作するのに必要な年数補正後開始時点より前の、摩訶大将棋図面なるものがたとえば出土したとして。私の方は金払いたくないので、生きてる間中、年代決定法に文句を言い続ける手があるようですね。正直な所、1億円は高すぎるとは思います。将棋に興味のある日本人が、1350年頃幽体離脱して、神聖ローマ帝国(ドイツ)に行き、宗教(キリスト教)軍事勢力の強さを知って驚き、天空を飛んで日本に帰り、日本の仏教宗派の対立に移し替えたゲームを作成したとすれば、摩訶大将棋は、南北朝時代に作成できる事は、私も知っているからです。インターネットが無くても、当時のドイツの情報を知り得る、超能力を持つ人間が幾らでも日本に居たと言う、グローバル化が進行していたというのであれば、通説の通り、南北朝時代の異性庭訓往来の「大きいのは将棋」は、摩訶大将棋っぽいと私も思います。

  • #67

    T_T (金曜日, 24 10月 2014 01:35)

    mizoさんへ(#65)
    コメントありがとうございます!

    普通唱導集の記述から、該当する大将棋では飛車が最強と見るべし、mizoさんのこの説に私は知った当初から賛成で、ずっと意識しています。飛車はまだ大将棋の中だけにあって、飛車の入った小将棋は、1300年前後にはまだできていなかったということでしょう。この時代、飛車の成りが龍王だったのかどうか、それを最近はずっと考えています。龍王は、摩訶大将棋でも大将棋(15マス)でも不成りです。したがって、成り先の候補です。金将より弱い駒は、もちろん、成り先の候補ではありません。

    摩訶大将棋の場合、不成りは、龍王の他、奔王、龍馬、師子、狛犬(たぶん)だけです。このうち、麒麟と鳳凰の成り先として師子と狛犬が取られ、玉将(=王将)の成り先相当として奔王が取られれば、残る成り先は龍王と龍馬ですが、この2つが、飛車と角行に割り当てられていた、というストーリーを考えています。

    以下、空想ですが、平安大将棋の駒種が少し入れ替わったような大将棋があっていいかも知れません。その中に飛車、角行、嗔猪があれば、普通唱導集の記述もあり得るように思えます。このときの飛車の成りが龍王だったというのはどうなのでしょう。摩訶大将棋は、1300年よりもずっと以前に成立していたものと私は考えていますので、飛車、角行、嗔猪、龍王、龍馬は、新出の駒ではなく、既存の大型将棋からの流出です。つまり、天皇とその周辺の遊戯的神事から漏れ出てきた駒です。

    こう書いていて、ぼんやりと浮かびあがりましたが、平安大将棋は、大型将棋の系列ではなかったという可能性もあります。つまり、次のような流れです。

    系列1)平安将棋 --> 平安大将棋 --> 普通唱導集の大将棋 --> 飛車角行入り小将棋

    一方で、表には出てこなかった別の系列があって、その将棋というのが、天皇とその周辺でだけ伝えられてきた陰陽道と関わる遊戯的な神事だったわけです。摩訶大将棋に近い形だったと考えます。象棊纂圖部類抄の摩訶大将棋もまた、漏れ出てきた将棋なのでしょうから。

    系列2)摩訶大将棋(無明?法性?) --> 摩訶大将棋(象棊纂圖部類抄)--> 大将棋(15マス)--> 中将棋

    普通唱導集が比較的新しい(~1300年)ということ、にも関わらず、記述される将棋は大将棋よりも単純であること(飛車が最強)、大将棋はもっと以前(1142年)から存在していたらしいこと、これらを考えれば、系列1)の可能性もひとつの空想として許されるかも知れません。

    以上は、もちろん、摩訶大将棋先行と見た場合で、中将棋先行と見た場合は、他の考え方もあるかと思います。

  • #68

    T_T (金曜日, 24 10月 2014 01:42)

    長さんへ(#66)
    コメントありがとうございます!

    1億円は、もちろん、比喩なのですが、基本的にはギャンブラーですので、つい。でも、やはり、摩訶大将棋、新しくても鎌倉時代です。