2015年

5月

13日

153)後白河上皇と摩訶大将棋:鳥獣戯画を出発点として

鳥獣戯画と将棋の関連は、投稿142)145)146)と続けてきましたが、本稿からが中心です。書くことはたくさんあって、さて何から書けばいいのかと迷うところです。はじめに、参考文献ですが、次の書籍はどうでしょう。


鳥獣戯画の謎:別冊宝島2302(宝島社、95ページ、2015年2月)


鳥獣戯画については、最近のものを読まないといけません。新しくいろいろと進展がありましたので。上記の文献では、断簡を考慮に入れて鳥獣戯画・甲巻を復原しています。なぜそのように復原ができるのかの解説もあります。巻物に残っていたカタが手がかりになったようです。復原された甲巻は、そもそも、その始めが現存の甲巻とは違っており、競馬の場面から始まっていたようです。また、現存・甲巻の双六盤の絵の次に、囲碁盤を囲む場面が入ります。


なお、本ブログでは、甲巻と乙巻だけを考えます。丙巻・丁巻は、鎌倉時代の作ですので、摩訶大将棋の歴史、特に起源を考える上では重要でありません。ただ、上記の文献では、甲巻に重点を置いており、乙巻の絵は部分的にしか取り上げられていません。次の文献に、乙巻の全部があります。


鳥獣戯画がやってきた:国宝「鳥獣人物戯画絵巻」の全貌

(サントリー美術館・開館記念特別展図録、170ページ、2007年11月)


まず、なぜ後白河上皇が登場するのかということ、これを説明しておく必要があります。これは、鳥獣戯画の起源の問題、つまり、まだ確定していない問題と関係しますので、どの説にのっとるのかということになります。本ブログでは、宮廷絵師説ですが、これは、はじめに読んだ上記の文献(鳥獣戯画の謎)の影響を受けているせいかも知れません。宮廷絵師説の場合、発注元は、後白河上皇と考えてほぼ問題ないのではないでしょうか。文献では、この点を、年中行事絵巻と鳥獣戯画の絵の類似で説明しています。しかし、この線からはそれ以上の進展は見込めません。


ところが、仮に、鳥獣戯画が摩訶大将棋と関係しているのだと考えると、実は、まだいろいろと発展があります。「考えると」というよりは、「そう思い込めば」といった方が正確かも知れません。そう思い込むことができるかどうかは、十二神将(十二支)が摩訶大将棋の中に存在すると思うかどうかにかかってきます。結局は、投稿127)と投稿132)に書いた件です。新猿楽記の「十の君の夫」の節の、


進退十二神将、前後三十六禽


この文脈をどう読むのかということに集約されます。ここで陰陽師が進退させている十二神将、それはイメージとしての十二神将であることに違いないわけですが、その十二神将は、陰陽師の目の前にある将棋の駒だったのかどうか、そう思い込めるかどうかという点だけです。


詳しくは、引き続きの投稿にしますが、ひとまず、結論のひとつを短く書きます。もし、十二神将が摩訶大将棋の駒だったとすれば、十二神将は薬師如来の眷属ですから、将棋には、守られるべき薬師如来がいるのです。玉将が薬師如来ということになりますが、薬師如来は天皇でもありますから、ここで全部がつながります。なぜ将棋が天皇周辺だけのものだったのかということ、後白河上皇と薬師如来の話、十二神将図像と鳥獣戯画が酷似していること、東方浄瑠璃世界と将棋の世界観、熊野御幸(阿弥陀如来)と摩訶大将棋(薬師如来)に含まれる浄土性という時代の共通点、鳥獣戯画乙巻と狛犬と藤原通憲/信西(後白河上皇の後見人)、薬師教と伎楽、後白河上皇と伎楽の話、等々、一気につながってしまいます。


もちろん、後白河上皇の頃の摩訶大将棋は、別の摩訶大将棋(象棊纂圖部類抄に記載されたものに類似するがそのものではないという意味です)だったかも知れません。しかし、十二支の駒、十二神将の駒は、どういう形であったにせよ入っていたのだろうと思います。伎楽の駒も入っていたでしょう。狛犬もです。


本稿、全くの説明不足で、10稿分ぐらいのタイトルだけの羅列になってしまいました。この後の投稿で、順に詳しく書いていきます。平安小将棋、平安大将棋との関係性をしばらく問わず、摩訶大将棋のことだけを考えてみますと、後白河上皇の関わりは圧倒的です。それと、摩訶大将棋の仏教観は、西方の極楽浄土の方ではなく、東方の浄瑠璃世界だったようです。未来の阿弥陀如来ではなく、現世の薬師如来ということで、末法の時代背景とも合致しています。また、門外不出だった将棋の封印を解いたのは、後白河上皇だったかも知れないという可能性が非常に大きいと考えます。