13)曼荼羅と小中大将棋: 9・12・15について

また象棊纂図部類抄(1443年文献の写本)からですが、序文の最後の方に次のような文章があります。

 

肇従縦横三ヶ之秤目
洎于摩訶大々之陣面

 

(読み下し)

縦横三個ノ秤目ヲ従ハシメテ   :肇(はじめ)
摩訶大々ノ陣面ニソソグ     :洎(そそぐ)

 

(直訳)
将棋の盤面を縦横3つに分割して、 :つまり、曼荼羅と同じ分割です
そこに大きな陣面を組み込む。   :駒が曼荼羅の要素となります

 

将棋の盤面に曼荼羅を見ていたとすれば、盤のマス目を3の倍数に作らないといけません。小中大将棋が、それぞれ、9、12、15マスで、ちょうどこの数に合致しています。中将棋のマス目の偶数が話題になることがありますが、奇数偶数の問題ではなく、3の倍数がキーとなっている可能性も出てきました。

 

大型将棋が跋扈していた時期を12~13世紀と見積もるとして、当初8マス、13マスだった京都の平安将棋が、9マスの小将棋と15マスの大将棋へと発展していった経緯を、曼荼羅をキーワードにして考えてみました。

 

曼荼羅だとすると候補は京都ではなく、鎌倉の方だという気がします。当時の京都の公卿は、浄土宗、極楽往生の思想がメインですので、密教(曼荼羅に関連する)なら鎌倉ではないでしょうか。鎌倉には幕府にとって重要な鶴岡八幡宮(源氏の氏神)があり、鶴岡八幡宮は密教寺院でもあります。

 

大将棋と中将棋は、京都の公卿や僧侶でなく、鎌倉の武士か僧侶が作ったという考え方はどうでしょうか。この場合、大型将棋の成立の流れを2地点で別個に考えた方がよさそうです。小将棋についてはしばらくさておきます。

 

鎌倉:平安大将棋 --> 大将棋          --> 中将棋 
京都:平安大将棋      ----> 摩訶大将棋 --> 大大将棋

 

同じ京都の町中で、一方は盤面を拡大し、もう一方は縮小したということが、多少疑問ではあったわけですが(だから、摩訶大将棋が中将棋よりも早いと考えていましたが)、発展が離れた2地点で起こったとすれば、大丈夫です。

 

ところで、大将棋/中将棋固有の出土駒で最古の駒は、鶴岡八幡宮で出土しています(鳳凰です)。この気持ちのいい一致!

 

11)の投稿に書きましたが、徳島での出土駒が奔獏(大大将棋の駒)だとすれば、こちらは、京都派の方です。

 

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コメント: 2
  • #1

    長さん (月曜日, 02 4月 2012 17:02)

    江戸時代の文献に出てくる駒数の多い将棋のうち、平安大将棋
    以外は、いっしょくたんにできた臭い印象を私的には持ってい
    ます。記録の残らなかった、いろいろな将棋が、鎌倉時代から、
    室町時代の中期までに、あったのかもしれないと見ますね。
     異制庭訓往来の記載も残念ながらアバウトですし、奔横駒を
    除いて今の所、全ては闇の中かと感じます。

  • #2

    T_T (火曜日, 03 4月 2012 20:15)

    先日のワークショップで、唱導大将棋がかなり確からしい感じがしました。ですので、平安大将棋からはもう一歩進めるのでは、と思っています。以前の10)の投稿も一部間違っていることがわかりました。この件また後ほど投稿いたします。

    各種大型将棋がほぼ同時に出来たという考え方ですが、現時点では、却下できませんので何とも言えないのですが、まだ見ぬ古文書の発見に期待しています。