2016年

8月

18日

190)摩訶大将棋の対局:持ち時間に関する検討

本稿のタイトルは、7月のゲーム学会の合同研究会にて松本君が発表した論文タイトルです。このタイトルからは想像がつかないと思いますが、実は、この春、摩訶大将棋に大きな

ブレークスルーがありました。そのブレークスルーについての発表でした。

 

結論から言えば、持ち時間を20分ぐらい(秒読み:30秒3回)に設定するのが最もエキサイティングな摩訶大将棋になります。この場合、平均の対局時間は40分前後で1時間を超えることはありません。

 

摩訶大将棋をされている皆さん、是非この時間設定でやってみてもらえませんでしょうか。摩訶大将棋が一変します。これまでの摩訶大将棋、平均で2時間半程度の摩訶大将棋もそれはそれで面白かったのですが、どうも何かが変わって、面白さのクオリティが変わります。摩訶大将棋の種類が変わると言っていいかも知れません。摩訶大将棋を始めてから5年近く誰もずっと気づかずにいましたが、4回生の松本君が探しあてました。

 

この件、実際に対局すればわかってもらえるだろうと思います。学外での対局イベントをここしばらくやっていませんが、10月の奈良県大芸術祭にエントリーしていますので、是非その場で。奈良公園のすばらしい和室を確保しています。

2016年

8月

16日

189)アドバンスド摩訶大将棋:TGS2016出展のお知らせ

東京ゲームショウ2016のインディーゲームコーナーに応募していたのですが、結果、採択となり(今年は60件の採択です)、ブースを持たせてもらうことができました。間口は1mと狭いのですが、水平のタッチパネルディスプレイを置くのに十分です。お話をするのにも十分です。

 

出展者名:大阪電気通信大学 高見研究室

ゲームタイトル:アドバンスド摩訶大将棋

出展期間:ビジネスデイと一般公開日の計4日間

 

一般公開日: 9月17日(土)〜18日(日)10:00〜17:00

会場: 幕張メッセ(インディーゲームコーナーは、国際展示場のホール9になりますが、各出展者のブース位置はまだ公開されていません。)

 

http://expo.nikkeibp.co.jp/tgs/2016/public/index.html

 

ビジネスデイはチケットが必要で、ゲームビジネス関係者でない場合は一般公開日での入場となります。研究室からは3名が解説スタッフとして行く予定です。ブースにてコンピュータ摩訶大将棋を配布予定です。ブースでそのような配布をしていいのかどうかまだ確認していませんが、たぶん大丈夫だと思います。この件、東京ゲームショウの直前で、本ブログにてお知らせしますので、再度チェックお願いいたします。

 

摩訶大将棋愛好家の皆様、それと、大型将棋史に興味をお持ちの皆様、どうぞお越し下さいませ。お待ちしております。

2016年

4月

08日

188)Ancient Japanese Big Chess Reproduction

(書きかけです。2,3日中に書きます。)

 

2016年8月12日 追記

2、3日中に書きますと言って、もう4ヶ月以上すぎてしまいました。すいません、いろいろ事情がありまして。

 

以下の2つの図面は、先月、中国で開催された国際会議の予稿に掲載したものです。発表者はもちろん私ではなく、研究室の大学院生が発表しています。本稿のタイトル、Ancient Japanese Big Chess Reproductionはそのときの発表タイトルです。

 

大型将棋の起源についてどうお考えですかということを、たぶん、多数来られるであろう中国の研究者に聞いてみたかったということがあります。ただ、中国で開催された割には、中国の人は少なかったということでこの件の議論は実現しませんでした。

 

議論になった場合、一番の話題は,ペルシアからの大型将棋の伝来をどうみるのかということです。もしくは、可能性はかなり小さいとは思いますが、ペルシアへの大型将棋の伝来をどうみるのかということです。このことについては、まだ学会発表はしていませんので予稿もありませんが、資料が整えばすることになるでしょう。本ブログできちんと書いたのかどうかあやふやなのですが、論点は次の点です。

 

1)ペルシアにも日本にも、成ると王子(Prince)になる駒が存在する。この駒ができた場合、たとえ玉将(King)が取られたとしても負けではない。相手が勝つためには、王子と玉将の両方を取らねばならない。

 

2)ペルシアにも日本にも、最前列の歩兵(Pawn)の前にぽつんと飛び出した駒が存在する。摩訶大将棋で言えば、仲人の駒である。

 

上記の2点は、両方とも、世界の他の将棋類には見られない特徴であり、ペルシアの将棋と日本の将棋の密接な関係性を暗示しています。将棋の起源を探る糸口でもあり、後日、本ブログにてきちんと投稿します。


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2016年

3月

18日

187)大型将棋における仲人の動き:2016/3/18に発表

今日は次の発表をしてきました。好評だったです。

「大型将棋における仲人の動きについて -象戯圖と普通唱導集の解読から-」

 

発表で使ったパワーポイントのスライドのうち、結論のところを以下にuploadしました。タイトルの関係上、結論も単純明解です。


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2016年

3月

15日

186)大型将棋の成立順に関する考察:2016/3/09に発表

投稿の順番が前後してしまいましたが、先週、映像表現・芸術科学フォーラム2016にて、「大型将棋の成立順に関する考察」というタイトルでポスター発表をしてきました。なかなか好評だったです。4ページの論文です(映像情報メディア学会技術報告)。

ITE Technical Report Vol.40, No.11, pp.147-150, AIT2016-86(Mar, 2016)

 

以下に、当日のポスター(サイズ:A0)のpdfをそのまま載せておきます。ポスターの解説は後日投稿いたします。本ブログのこれまでの投稿したものをまとめたものになりますが、1件1件だとまだおぼろげな説も、合わせて考察すれば、すべてが連動して同じ結論を示していることを納得していただけると思います。

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2016年

3月

12日

185)摩訶大将棋展2016 spring(3月11日〜13日)

アナウンスが遅くすいません。いま開催中です。

 

日時:3月12(土)〜13日(日) 11:00-18:00

場所:「ならまち村」ギャラリー

主催:日本摩訶大将棋連盟

協力:大阪電気通信大学 高見研究室

地図はこちらです

 

1階が喫茶店で、2階がギャラリーになっています。

双六盤を一面、置きました。摩訶大将棋の話しがかなり長くかかりますので、双六盤の話しまではとてもいきません。双六盤は今日までにしようと思います。柱の向こう側に、コンピュータ摩訶大将棋のタッチディスプレイがあります。

 

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2016年

3月

12日

184)摩訶大将棋の申:ブログ5年目

摩訶大将棋の申
摩訶大将棋の申

今年はじめての投稿となります。今年もよろしくお願いいたします。前稿183)が非常に大きく、書きかけのままで足踏みとなっていました。後日に、別投稿といたします。

 

3月は学外発表や展示が4回あります。年明けにグランフロント大阪にて対局会というアナウンスを一部でしておりましたが、会場が都合のいいタイミングで空いていませんでした。その後、3月に一度だけ空いている日がありましたが、その日は盤双六のイベントに使うことになりました。詳細は盤双六のブログの方をご覧下さい。

 

摩訶大将棋のブログは今年で5年目に入りますが、まだまだ底は見えません。盤双六史も同じくです。いまだ残されたフロンティアです。

2015年

12月

06日

183)二中歴の将棋が将棋ではなかった可能性

(書いている途中です)


昨日、上坪君(高見研究室)が平安将棋の遊戯法に関する研究の途中経過を発表しました。結論だけを簡潔に言いますと、平安将棋は将棋ではなかった、つまり、将棋のルールで遊ばれたものではなかったというものです。飛車も角行もない平安将棋を駒取り捨てルールで対局しても全く面白くないわけですが、上坪ルールによれば、それなりの面白さが出るのです。


このルールの第一の特徴は、成金の区別が必要になるということです。興福寺から出土した1058年の将棋駒をみれば、銀将が成った金と、桂馬が成った金と、歩兵が成った金とではそれぞれ金の字体が違うという見方があります(たとえば、持駒使用の謎:木村義徳著の102ページを参照下さい)。このことをもってして、当時すでに持ち駒ルールが存在したとする説もありますが、他の合理的な解釈もあり得るのです。であれば、11世紀持ち駒ルール説という、将棋史上の不合理が大きい仮説を持ち出すまでもありません。


・・・

・・・(まだ続きます)


2015年

11月

29日

182)桂馬と象と馬:伝来の謎

本稿は、投稿180)からの続きです。投稿180)では、日本古代の桂馬が、前方ななめ45度の2目に進むことを示しました。この結論は、摩訶大将棋や大大将棋といった大型将棋類の知見から得られたわけですが、もしかしたら、これで多少は大型将棋が注目されるかも知れません。


ともあれ、古代の桂馬はシャトランジの象が起源だということになります。桂馬の動きが、象の動きから来ていることに疑いの余地はないでしょう。しかし、駒の名前には、象でなく馬の字が付けられているのです。本稿、この謎に迫ろうというわけです。


ひとまず、漢訳のシャトランジを図1(前稿の図1と同じ)に、平安将棋を図2に示しました。図1の伝来は、それが受け入れられたかどうかは別として、必ずあったものと思われます。シャトランジのもっと細部が伝わっているわけですから、基本形の伝来は必ずあったでしょう。


ところで、本稿の話題から少し外れますが、投稿176)にて取り上げました、将棋伝来ルートとしての東南アジア説の件に少し触れたいと思います。古代の桂馬の起源が象だとすれば、マックルック経由で将棋が伝来したという考え方は、完全になくなるのではないでしょうか。なぜなら、マックルックには「馬」があって「象」はありません。一方、中国のシャンチーには「馬」と「象」があり、平安将棋には「馬」がなく「象」があるのです。このような事実を考えると、マックルックが平安将棋に影響を与えたということは、直接的にも間接的にも(中国経由で日本に伝来)ないと考えるのが妥当です。


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2015年

11月

27日

181)八道行成と十六むさし:将棋史解明への手がかり

和名抄(平安時代前半の国語辞典)には、将棋という語句はリストアップされていません。したがって、将棋はこの頃まだ日本には伝来していなかった、そう考えるのは妥当な見解でしょう。しかし、本稿は、それとは逆の見解、将棋はその頃すでに日本に存在していたという可能性を論理立てるものです。

 

本稿のタイトル中にある八道行成については、以前の投稿93)(2014/06/04)にて取り上げていますが、その内容には何点もの間違いがあります。お恥ずかしい限り。しかも、googleで「八道行成」を検索してみると、一番はじめにそのWebページがかかってしまいます。困ったものです。先ほど、投稿93)の冒頭に、間違いが多く含まれますと追記しておきました。

 

八道行成は、和名抄で取り上げられているとおり、平安時代に存在した遊びです。どのような遊びなのかは、現状、全くわかっていないと言っていいでしょう。よく見かける説明は、十六むさしとよく似たボードゲームで云々という説明です。そして、その十六むさしの中身ですが、これもWeb検索しますと、どれも同じようなボードゲームがかかります。これらの情報元は、江戸時代の文献ですので、重要視は禁物でしょう。十六むさしの語句は、遊学往来(南北朝時代)にも出てきますので、ずっと昔の遊戯なのです。


本稿に関して、最も参考になったのは、日本遊戯史(酒井欣著、1933年発行)です。ここに、十六むさしの「む」についての説明があるのですが、この「む」の音は「ま」の音からの転訛だというような見方が書かれていました。さらに、八道行成の方ですが、和名抄では「やさすかり」と読むと書かれているわけですが、この「やさす」も「やすし」と見るべしと書かれています。「やすし」は八すじ、つまり、八本の道すじの意味だというのです。


日本遊戯史にはここまでしか書かれていませんが、以上のことから、次のようなエキサイティングな推測ができます。十六むさしは、よくある「十六武蔵」とするのではなく、「十六馬指し」とするのはどうでしょうか。


本稿では、この「十六馬指し」を、それと同じものと伝えられてきた「やさすかり」と合わせて考察します。以下、示しますように、辿りつく結論は、二中歴の平安将棋は横8マスではないのかということです。

 

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2015年

11月

27日

180)古代の将棋の桂馬の動き(覚え書き)

古代の将棋の桂馬の動きと、現代将棋の桂馬の動きは同じではありません。桂馬は、この点で、かなり特異な駒だと言えるでしょう。何らかの事情がありそうです。桂馬以外の現代将棋の駒、つまり、玉将、金将、銀将、香車、歩兵、飛車、角行は、どれも、古代の動きと現代の動きが同じなのですから。


この件、すでに何度か投稿したテーマですが、覚え書きも兼ねて、確認したいと思います。桂馬の動きが昔と今で違うということを知らない人も多いでしょう。本稿では、まずはじめに、昔の桂馬の動きが今とは違っていたことの根拠を示します。さらに、なぜ動きが変更されたのかを考えてみますが、こちらの方は、まだはっきりした答えは見つかっていません。その手がかりのみとなります。

 

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2015年

11月

27日

179)大大将棋の成りについて:成りの原型か

大大将棋は、将棋黎明期(平安時代)における大型将棋のひとつで、摩訶大将棋の後に作られた将棋だということがわかっています。ですので、原初の将棋というわけではありません。しかし、成りの形式を見たとき、大大将棋の成りは、最も古い規則性を残しています。


駒が成るというルールの起源は、どこにあるのでしょう。大大将棋の成りを題材にして、このことを検討してみたいと思います。本稿では、ひとまず、shatranjおよびその発展形の成りが、成りの原型であるという前提で話しを進めていきます。大型系shatranjの成立が、12世紀以前であることはわかるのですが、shatranj系列の成りが、最も古い成りの形式なのかどうかは、私自身、不明です。調査中です。


shatranjから導かれる成りの基本1は、歩兵(pawn)が金将(general)に成ることでしょう。次いで、大型系shatranjでは、成りの基本2として、同じ列の最下段の駒に成るという規則があります。古代の将棋類の成りの規則については、この2パターンしかありません。


shatranj系列の成りの規則が方々に広まったとして、この基本パターンから外れれば外れるほど、その将棋の成立時期は、古代から遠のいていると見ていいでしょう。たとえば、二中歴の平安将棋では、歩兵以外にも金将に成る駒があるという程度の外れ具合ですが、大型将棋の時系列の最終に位置する中将棋では、成りの規則性というべきものは、もはや見られません。それどころか、成り先に選ばれている駒自身が、また別の駒に成るというルールまで採用しています(たとえば、角行 --> 龍馬 --> 角鷹)。成る(promote)というルールでは、shatranj系列や、摩訶大将棋、大大将棋に見られるように、成り先の駒は、本来的に不成りなのです。

 

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2015年

11月

22日

178)大大将棋にも見られる摩訶大将棋の特徴:儀礼の表現

前稿177)からの続きです。前稿では、摩訶大将棋と大大将棋に十二支の駒が組み込まれていることを確認しました。駒の構成がかなり異なる2つの大型将棋の両方に、十二支の駒があるということは、もちろん偶然ではありません。将棋の背景に、十二支を必要とする何かがあったからです。古代日本の大型将棋は単なるボードゲームではなかったのでしょう。だからこそ、天皇が将棋の駒を使って占いをした云々という記述が、古文書に現れたりします。

 

ところで、摩訶大将棋と大大将棋には、天皇に関係する駒の配置が見られるのです。本稿、主にこの件について書きます。図1と図2は、2つの将棋の初期配置ですが、中央の玉将の列に注目下さい。


摩訶大将棋については、本ブログでこれまで何度か投稿していますように(たとえば、投稿168のパネル画像を参照下さい)、玉将の列を天皇の行幸と見た場合、中央の列は、行列の前を狛犬舞と師子舞が舞う様子ということになります。このように、師子と狛犬の駒は縦に並ぶのです。師子と狛犬を宮殿の守護像と見る場合は、師子と狛犬の駒は横に並ばなければなりません。また、狛犬舞が現れていることから、摩訶大将棋の成立時期は平安時代だったという可能性も見えてきます。


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2015年

11月

19日

177)大大将棋にも見られる摩訶大将棋の特徴:十二支の駒

本ブログでは、当初は、摩訶大将棋の復刻に関連する話題を主に取り上げてきました。ところが、考察を重ねていくうちに、ルールの復刻ということだけでなく、もっと他のいろいろな歴史が、将棋史の解読とともに見えてきた次第です。

 

たとえば、投稿174)にて、中将棋には猫又の動きをする駒がないことから、中将棋は大型将棋の起点となる将棋ではないだろうということを書きました。これは、単に、将棋をボードゲームとして見ての帰結です。ところで、中将棋が原初の大型将棋ではないことは、この点とは別に、いくつかの歴史的な視点からもわかることなのです。それは、これまで何度か投稿してきましたとおり、師子と狛犬の導入の件、十二支の駒の存在、仲人の動きが変更された点の解読、等々です。これらの傍証は、個々で見れば、多少のあいまいさがあったとしても、すべての傍証が同じ方向を向きます。どの観点から見ても同じ結論へと導かれるのです。本ブログの説でたぶん間違いないだろうと思う根拠はここにあります。将棋史が他のいくつかの歴史と矛盾なくリンクしており、導かれる時代推定は、どの場合でもほぼ一致しています。


大大将棋のことは、今まであまり触れてきませんでしたが、実はいろいろな歴史が見えます。ペルシアからの将棋伝来が見えるのが一番大きな点ではありますが、他にもいろいろとあります。もちろん、十二支の駒もあります。摩訶大将棋の玉将の行列の前で、狛犬舞と師子舞が舞っていたように、大大将棋にも同じような行列が見えています。以下、具体的に説明していきます。

 

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2015年

11月

17日

176)原初将棋の伝来:古代ペルシアからの可能性

先々月、清水さんが東京にてマックルックの出土駒に関連する知見を発表されました。その結果からしますと、将棋伝来ルートの東南アジア経由説は、かなり可能性が低くなったと感じます。考古学からの知見は文献以上に確固なものですから、この結果は重大でしょう。


本稿、書くことはこれだけですが、ついでに、本ブログにて最近話題にしています、ペルシアからの将棋伝来の文章を添付します。以下のパネルは、今年秋の摩訶大将棋展でのパネル11です。


以前の投稿でも言及しましたが、古代ペルシアの将棋、シャトランジは、中国を経由したにもかかわらず、中国での痕跡よりも日本の将棋に多くの痕跡を残しています。同じように、ペルシアからの伝来と言えば、摩訶大将棋の駒名の由来ともなっている伎楽面もそうです。伎楽面が残るのは日本だけで、中国には残っていないらしいのです。


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2015年

11月

15日

175)駒の動きと大型将棋史 part2

前稿174)では、左右対称の歩き駒の全パターンを並べ、そのほぼすべてが摩訶大将棋の歩き駒に使われていることを示しました。本稿では、同じことを、走り駒と踊り駒について示します。実は、走り駒でも、踊り駒でも、実用上のほぼ全パターンが、摩訶大将棋の中に含まれているのです。


前稿でも指摘しましたが、摩訶大将棋の駒の動きに欠落したパターンがほとんどないということは、摩訶大将棋が大型将棋の起点となる将棋だったということを意味しています。これは、駒の名前と動きが、原則的には、一対一対応であっただろうということからの帰結です。


この一対一対応は、新しく将棋を作る際の制約となったでしょう。つまり、先行する将棋の中から、ある駒の動きをそのままで取り入れたければ、同時にその名前も使わないといけないからです。摩訶大将棋と大大将棋を見る限り、それぞれの将棋には、ともかくも、制作者の持つ将棋の世界観が含まれることは確かです。ですので、名前は重要なゲーム要素となったでしょう。もし、名前を自由に使いたいなら、動きの方を変更せざるを得なかったというわけです。


たとえば、大大将棋では、土将や盲虎という名前の駒は使いたくなかったのでしょう。だから、大大将棋には、前後に歩く駒、前以外の7目に歩く駒がないのです。ところが、摩訶大将棋にはほぼすべての動きの駒があります。摩訶大将棋が作られた当時、先行する大型将棋はなかったということではないのでしょうか。だからこそ、動きのパターンをほぼ網羅する将棋ができ上がったわけです。


古文書には現れていない大型将棋、まだ見ぬ大型将棋の存在を、私はこれまで否定していませんでしたが、前稿と本稿でも示しますように、その存在の可能性は、だいぶ小さくなったと考えています。摩訶大将棋に先行する別種の将棋があったのだとすれば、摩訶大将棋は今のように動きを網羅することはできなかったでしょう。あるいは、今のように思う存分に駒の名前を付けることはできなかったでしょう。


前置きが長くなりましたが、以下、本題です。図1と図2に走り駒のパターン一覧、踊り駒のパターン一覧を示しました。

 

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2015年

11月

11日

174)駒の動きと大型将棋史

図1は歩き駒の動きの種類の一覧です。左右対称の動きだけをピックアップしました。摩訶大将棋には、左右非対称に動く駒も少数ありますが、本稿とは別テーマですので、また後日に取り上げます。


駒の歩き方の種類には、全部で255パターンあり、このうち、31パターンだけが左右対称です。前方に進めない無意味なパターン(図では水色を付加)を除外すれば、24パターンが駒の動きとして採用される候補となります。


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2015年

11月

07日

173)Maka Dai Shogi:海外への発信

今年は摩訶大将棋の国際会議での発表が2件実現しています。まずは、国内で開催の国際会議にエントリーしました。次の2件です。学内での摩訶大将棋研究グループとしての発表です。


Reproduction of Maka Dai Shogi, 

H.Hara, Y.Nakane, T.Takami,

Nicograph International 2015, June 2015.


Computer Maka Dai Shogi,

Y.Nakane, H.Hara, T.Takami,

IEEE GCCE 2015, October 2015.


来年は、いよいよ海外での国際会議に摩訶大将棋が登場ということになります。もちろん、採択されないといけませんので、まだ何とも言えませんが、shatranjとの関係性が明確ですので、チェスの歴史の研究者は大いに興味を持つのではと思っています。


海外の研究者に一番アピールしたく思うのは、駒の動きです。摩訶大将棋の解説書ではありませんので、ひとつひとつを長々と説明できませんから、論文には次の図面を載せています。

 

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2015年

11月

03日

172)再考:仲人の駒の謎

仲人の動きを前後左右1目歩くというルールに変更したのは、去年の11月頃だったと思います。このときは、同時に、麒麟と鳳凰を踊り駒にしました。もうこれで、復刻は終わり、ルールの変更もないだろうと思っていたら、また1件気がかりな点が現れ、この件でしばらく試験対局を重ねているところです。象戯圖/象棊纂圖部類抄には、ルールに関連する文章はほんの少ししかないのですが、その短い中に、いろいろなことが隠されていました。まるで暗号文のような古文書です。キーとなるのは中将棋の後にある仲人の注釈です。次の箇所です。


或説云居喫師子許也

 

ここで、居喫は居喰いのことです。上記の記述については、以前の投稿でも議論に挙がった箇所で、いろいろな解釈が出されましたが、きちんとした結論には至りませんでした。そのときに「空想ですが」という但し書きで書いた思いつきが、どうも一番もっともらしい考え方ではないかと最近は思っています。次のような説です。


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2015年

11月

02日

171)摩訶大将棋展:展示内容のまとめ

投稿167)にてご案内のとおり、奈良県大芸術祭2015のイベントとして、摩訶大将棋展を開催しました。たいへん好評だったそうです。


会場となった大乗院庭園文化館は、それほど有名ではありませんが、ならまちから奈良公園への道筋の途中にありますので、人通りは多いと思います。入り口の前にポスターを置きましたが、そのポスターを見て入ってくる人も多かったようです。奈良県大芸術祭ののぼりも入り口のところに立てさせていただきました(写真1)。


展示パネルは最終日までに全部で15枚作りましたが、展示スペースに収まる枚数だけの展示となりました(写真2と写真3)。写真2からわかるように、パネルの前には、細長い文書のコピーが置かれていますが、これは象棊纂圖部類抄です。


パネルの内容は、以下に添付しました図録の表紙に一覧されています。


写真1.大乗院庭園文化館の入り口。
写真1.大乗院庭園文化館の入り口。
写真2.2階展示室の展示パネル。
写真2.2階展示室の展示パネル。
写真3.2階和室側から見た展示室。
写真3.2階和室側から見た展示室。

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2015年

10月

29日

170)普通唱導集「仲人嗔猪之合腹」の解釈:仲人は横に動く part2

投稿169)からの続きです。摩訶大将棋と大将棋の仲人が横にも動くという論拠を、前稿にて1)と2)の2点を挙げています。本稿、3)、4)と続けます。


3)普通唱導集「仲人嗔猪之合腹」

大型将棋の盤面例がどのようなものだったかということを類推できる古文書の記述は、現状、普通唱導集(1300年ごろ成立)の中にしか見つかっていません。そこには、次のような記述があります。


反車香車之破耳 退飛車而取勝

仲人嗔猪之合腹 昇桂馬而支得


本稿で問題とするのは、「仲人嗔猪之合腹」の部分です。読み下し文「仲人、嗔猪の、腹を合わする」の意味は、仲人と嗔猪が横に並ぶという意味です。腹は駒の横側を指します(ちなみに、駒の前方は頭)。大将棋の盤面のようすが多少とも思い浮かぶわけですが、仲人と嗔猪がなぜ横に並ぶのか、この点をあとに続く桂馬の文章と関連させて、これまでもいくつかの解釈があるようです。たとえば、次の文献を参照下さい。


日本文化としての将棋、三元社、2002年発行

159ページに盤面の想定例があります。


ただし、上記文献中の盤面についての説明は、必ずしも納得のいくものではありません。なぜなら、仲人は前後に1目だけ動く駒として扱われているからです。ところが、前稿169)の1)と2)で示されるとおり、仲人が横にも動く駒だとすると、「仲人嗔猪之合腹」の意図は非常に明解です。つまり、仲人も嗔猪も両方とも横に動ける駒ですので、この2駒が横に並び、互いに支えるのはごく当然の陣形でしょう。この点の指摘は、2月のラウンドテーブルの折、近畿大学の山本先生から教えていただきました。


こうして、不明だった普通唱導集「仲人嗔猪之合腹」の意味と、仲人が前後だけでなく左右にも動く駒であるという事実が、ここで互いにきっちりと結びつくことになります。ちょうど仲人と嗔猪の駒のようです。


また、1592年に写本された象戯圖の記述が、1300年に書かれた本の記述を裏付けていたということから、象戯圖の信頼性の再確認ともなりました。象戯圖は、1443年の曼殊院の書物をきちんと引き継いでおり、その曼殊院の書物は、さらに150年遡った時代の将棋史まで細かな点を伝えていたわけです。


仲人が横に動くことの論拠の最後、4点目は、将棋の駒と動きとの間の一対一対応から来るものです。


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2015年

10月

26日

169)普通唱導集「仲人嗔猪之合腹」の解釈:仲人は横に動く

以前の投稿140)にて、仲人の動きについて取り上げました。この件は、単に仲人の動きだけの問題ではなく、大型将棋の歴史解明に関わる重要なポイントになりますので、本稿にて再考の上、きちんとまとめておきたいと思います。


仲人は、摩訶大将棋、大将棋、中将棋にあります(延年大将棋にもありますが、延年大将棋は対局のための将棋ではありませんので除きます。また、平安大将棋には、注人という駒がありますが、こちらの方は後日にします)。中将棋が現代にまで伝わっていますので、中将棋のルールどおりだとすれば、仲人は前後に1目歩くということで何も問題ありません。また、象棊纂圖部類抄を見ても、動きを示す朱色の点は前後に1目です。やはり、何の問題もないはずで、そう思われる方が大多数でしょう。


ところが、象棊纂圖部類抄の中将棋の後にある注釈文からは、仲人の動きは、中将棋が作られたときに変わったらしいのです。まず、結論から言いますと、もともとの仲人の動きは、中将棋のものとは違っており、前後だけでなく横にも1目歩くことができたようです。摩訶大将棋と大将棋の仲人は、前後にも左右にも動くことのできる自由さを持っていました。また、仲人の動きが変更されたのと同じく、中将棋の成立時には、麒麟と鳳凰の動きも変わったと考えるのが妥当です。摩訶大将棋、大将棋では、麒麟と鳳凰は踊り駒だった可能性が高いでしょう。中将棋が創案された際、ほとんどの踊り駒は取り除かれてしまい、師子だけが残ったようです。


本稿では、以上の点をいろいろな観点から読み解いていこうと思います。


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2015年

10月

25日

168)師子と狛犬と摩訶大将棋

かなり空いてしまいましたが、そろそろ以前のような間隔で投稿できそうです。昨日の講演会にも出かけることができました。天理大学付属の天理参考館にて、「中国の霊獣百態」という企画展が開催されていますが、「中国の霊獣ー企画展にあわせてー」という講演が土曜日にありました。


http://www.sankokan.jp/news_and_information/ex_sp/sp075.html


大変よかったです。それと、今まで全然知りませんでしたが、天理参考館はすごく大きな博物館です。


講演会へは、曖昧なままにしていた中国の獅子の件が一番の目的でした。ずっと気がかりだったのですが、詳しく聞くことができ、すっきりとしました。やはり、中国でも獅子は一対の置物だったようです。

 

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2015年

9月

12日

167)摩訶大将棋展(お知らせ):9月20日(日)~23日(水)

摩訶大将棋展のご案内です。秋の4連休での開催となります。


日時:平成27年9月20日(日)~23日(水・祝)11:00~17:00

場所:大乗院庭園文化館(奈良市高畑町:奈良ホテルの南側)

http://www.narahotel.co.jp/cms/daijyo_in_toha.html


主催:日本摩訶大将棋連盟

協力:大阪電気通信大学 高見研究室

奈良県大芸術祭参加イベント  入場料:無料


私はほとんど参加できない見通しです。春前の企画時には、この摩訶大将棋展の期間中に、会場の2階和室にて、大型将棋に関するラウンドテーブルや摩訶大将棋のタイトル戦、その他の展示企画を行う予定でしたが、もろもろの事情がありまして、すべて断念ということになりました。是非来年はと思っています。


今年の摩訶大将棋展は、パネル展示のみとなります。展示エリアの横、2階の和室から見る庭園はすばらしい眺めです。和室には盤と駒を用意していますので、のんびりと摩訶大将棋の駒を並べて見られるのはいかがでしょう。なお、旧大乗院は、興福寺の境内です。


次のようなちらしを作ってもらい、奈良市観光センター、奈良町情報館、近鉄奈良駅1階の観光案内所、大乗院庭園文化館に置いてもらっています。


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2015年

8月

14日

166)再考:将棋の駒はなぜ五角形か

(本稿、書きかけです。後日、大きく追加変更します)


将棋の駒が五角形である理由は、将棋の起源と同じく、多くの人がわかっていると思っていたのに、まだわかっていなかったことのひとつです。一般論としては、ある程度納得のいく簡単な答えは出されているようですが、現状、将棋の起源がわかっていない以上、将棋の駒が五角形である理由を解明するのはむずかしいことです。将棋の駒が五角形である理由は、将棋の成り立ちとセットで解明されるべき事柄だからです。


以前の投稿でも書きましたとおり、多くの人は、古代日本の将棋を遊戯として捉えています。そのために、駒の形状の理由も遊戯という枠組みの中で考えられることが多いのですが、遊戯の駒として使うという前提が、すでに大きな仮定なのですから、その結果は確かなものであろうはずがありません。


では、将棋は遊戯ではないという可能性があるのか。この点については、本ブログで書いてきましたとおり、薬師如来、陰陽道、法華経、日蓮宗、呪術、といった単語の示す範疇がその候補となります。遊戯であることには違いないのですが、遊ぶことを主目的としない遊戯は、平安時代、いくつもあったわけで、たとえば、神様への奉納と関係した遊戯がそれです。陰陽道の呪術も、薬師如来への供養も、その候補であって問題はないでしょう。


さて、本稿の命題に対して、方法論がひとつあります。五角形を探し出すということです。呪術や仏教や陰陽道の中で使われていた木の五角形の何か、そういう物が存在するのかどうかということを調べるのです。本稿では、見つかったいろいろな五角形を紹介します。


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2015年

8月

11日

165)同じ列の駒に成るというルール:shatranj variantsの伝来

最近、本ブログにて話題にしていますとおり、大大将棋の成りの規則は、一部の大型系列シャトランジの規則と類似しています。もちろん、このことだけからでは、shatranj variantsの伝来云々の議論はむずかしいのですが、成りの規則以外にも、勝ちの形式、王が2枚できること、駒の動き、駒の名称、駒の並び、成立した年代、といった互いに一致する多くのあれこれが、古代日本と古代ペルシアの将棋には存在しています。それら全部を考え合わせたとき、shatranj variants伝来の可能性は無視できそうにありません。


では、これまで、なぜ、shatranj variantsは軽視されてきたのでしょう。将棋の伝来について云々されるとき、たいていの場合、古代中国の将棋とマックルックだけが対象となってきました。これは、とても不思議なことです。もし、大型将棋を素直な気持ちで眺め、そして考えを巡らしますと ----将棋の歴史はほとんど知らないのに、大型将棋はよく知っているという立場からは---- ごく自然にshatranj variantsの伝来が見えてくるからです。


たぶん、一番の大きな原因は、大型将棋に対する間違った思い込みではないでしょうか。大型将棋は指されなかっただろう、そう考えてしまったことで、大型将棋への深い興味がなくなってしまった方が多数おられるような気がします。


駒数の少ない将棋から、駒数が徐々に増え、将棋は次第に大型化して、そのうち発展が終わる。。。このような一般論は、将棋の歴史には、全く当てはまっていないようです(シャトランジやチェスには当てはまっているようですが)。ですので、大型将棋に対する正しい認識を欠いた将棋歴史考や将棋史観はあり得ません。これを、納得していただくためには、将棋の歴史の研究会ではなく、大型将棋の中身をきちんと考える研究会を開催しなくてはと考えていますが、この件はまた別稿にて後日に。


本題に戻ります。大大将棋に残るshatranj variantsの痕跡は、まず第一に、将棋伝来の歴史にとって重要となりますが、次いで、大型将棋における成りのルールの復刻に関しても、大きな手がかりとなります。現状、shatranj variantsの文献を調査中ですので、結論はまだ先となりますが、本稿にて、いくつかの手がかりを具体的、覚え書き的に残しておきたく思います。

 

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2015年

7月

26日

164)大大将棋に残されたshatranj variantsの痕跡

前の投稿163)の続きとなりますが、実は、大大将棋にも、シャトランジの痕跡が残っています。本稿タイトルのshatranj variantsという語句は、シャトランジ系列の総称という意味で使っており、チェスのルーツはshatranjですから、ancient chessという語句でも問題ありません。大型のものだけに絞る場合は、large variants of shatranjという言い方もできます。


本来ですと、まずshatranj variantsについて解説してから、議論に入るべきですが、シャトランジの解説の方はしばらくお待ち下さい。参考となるWebサイトも多数ありますが、後日に書籍や論文のリストをまとめて投稿します。


本稿では、大大将棋とshatranj variantsの類似点を、成りの規則性に求めています。大大将棋の成りは、一見、個別に設定されているように見えますので、規則性はないように思われるかも知れませんが、shatranj variantsの影響と思えば思えないこともありません。以下の点、是非ご一考いただければと。


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2015年

7月

24日

163)古代ペルシャからの将棋直接伝来:シャトランジの研究開始

一般論では、シャトランジ(もともとはインドのチャトランガ)が西に伝わってチェスに、東に伝わってシャンチーになったということになっています。このことから、古代日本の将棋伝来を考える際には、どうしても中国を基点とした延長線上で、将棋伝来が論じられがちです。しかし、そうでない伝来の仕方もあるだろうと考えます。


シャトランジおよびその系統(たとえば、Tamalene ChessやGreat Chess等)と平安将棋/平安大将棋/摩訶大将棋との類似を考えてみれば、古代ペルシャからの将棋直接伝来もあり得るでしょう。中国では駒の名前の漢訳のみがなされ、ルールは素通りしてきたという可能性です。本稿、以下に、ひとまず類似点を列挙してみます。摩訶大将棋に加えて、新たにシャトランジ(以下では、シャトランジの系統も含めて、シャトランジと総称します)の研究もいかがでしょうか。

 

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2015年

7月

05日

162)延年大将棋を読み解く:酔象と太子が裏表でなかった頃

延年大将棋のことを教えていただいたのは、パシフィコ横浜のCEDEC2013の会場でした。もう2年がたちます。ここしばらくは、曼殊院の将碁馬寫のことばかり考えているのですが(将碁馬寫には、紙の裏にも文字が書かれています)、この本がたまたま延年大将棋と関連をもったことで、延年大将棋についてもいろいろ考えを巡らしている最中です。


実は、研究室での古典将棋の研究は、摩訶大将棋ではなく、泰将棋(=延年大将棋)から始まっています。当初は、泰将棋が指されていたという前提で、泰将棋のコンピュータ版を開発していました。古典将棋のルールは、本に書いてあるそのとおりだと思っていましたから、古典将棋の復刻は、もちろん、研究目的にはなっていません。そもそも、将棋は昔からの遊戯だと思っていましたので、駒の枚数が1年の日数、354枚である意味を考えることもありません。駒で長寿を祈願する将棋だったとは。


さて、延年大将棋の解読についてですが、最近いろいろ考えた中で、やはり、絶対そうだろうと思うことは、延年大将棋に並べられた駒は、全部が表向きの駒であって、裏返し(成駒)ではないということです。初期配置で、すでに成駒があるというのはおかしいからです。


また、延年大将棋の駒は、それまでにあったいろいろな大型将棋の駒を集めたものだったでしょう。つまり、延年大将棋のために新しく作られた駒はひとつもなかったのではないでしょうか。なぜなら、新しく駒を作ったとすれば、同時に、駒の動きも作る必要がありますが、対局のためではない将棋、延年のための将棋を作ろうとしている人が、そんな作業をするだろうかということです。


以上、箇条書きにまとめますと、次のとおりです。

1)延年大将棋の駒は、それまでにあった将棋の駒が使われている。

2)成駒(裏返し)では並べられていない。全部、表向きである。


この2点を、以下で、検討していきますが、それらの検討結果は、本ブログで提出してきました将棋の歴史に関する考え方とほとんど矛盾しません。延年大将棋の初期配置は、投稿159)を参照下さい。


まず、2)についてですが、すぐ論点になりそうなのは、そもそも、太子、飛鷲、角鷹といった成駒が存在しているではないかという点です。しかし、これらの駒が成駒だとみることはできません。つまり、同じ盤面に、酔象、龍王、龍馬が存在しているからです。表向きの駒とそれを裏返した駒が同時に存在するのはおかしいでしょう。


ところが、これらの点は大型将棋の成立順を次のとおりだと考えることで説明がつきます。

摩訶大将棋 --> 大大将棋 --> 延年大将棋 --> 大将棋 --> 中将棋


たとえば、太子、飛鷲、角鷹の駒から、中将棋の成駒を連想した人には、上記2)の論点は同意し難いものかも知れません。しかし、本ブログにてくり返し書いていますとおり(たとえば、投稿112や投稿152を参照下さい)、中将棋の成立は、延年大将棋よりも遅いと考えられますので、飛鷲と角鷹が、中将棋の成駒に由来することはあり得ません。また、太子の駒ですが、これは、延年大将棋の酔象は、摩訶大将棋の酔象だとみることで解決します。この場合、酔象の成駒は王子ですので、太子があってもいいわけです。


では、太子、飛鷲、角鷹が成駒でないとすれば、どこから来たのかということですが、それは、投稿159に書きましたとおり、「まだ知られざる大型将棋X」にあった表の駒ということになります。これは、上記の箇条書き1)の内容です。


現状、大型将棋Xは、完全に空想の産物ですが、鳥獣戯画を見る限り、金鹿、銀兎、飛鷲、角鷹、猛鷲は、ありそうな駒です。それに、将棋史の文献が非常に少ない中、象棊纂圖部類抄に記載された将棋だけが過去に存在したすべての将棋だと、断言できるはずもありません。


ともかくも、以上のようなシナリオで、延年大将棋の酔象は、摩訶大将棋の酔象を並べたものだということが類推できます。その当時、太子は成り駒ではありません。王子ではなく、太子に成る酔象の駒も存在しませんでした。


なお、象棊纂圖部類抄の大将棋の注釈に、酔象成太子、鳳凰成奔王、麒麟成師子、とありますが、これは、注意喚起のためだったと見れます。つまり、大将棋以前に摩訶大将棋と大大将棋が存在していたわけですが、本来ですと、酔象成王子、鳳凰成狛犬(または、金翅)、麒麟成大龍(または、師子)です。これは、ちょうど、中将棋の箇所の、仲人や鳳凰の注釈と同じ意味あいを持ちます。以前からのルールの変更点を明示しているのです。これについては、投稿116、120、140、147に詳述しています。


大型将棋の成立順、摩訶大将棋 --> 大将棋 --> 中将棋ということについての考え方は、投稿152に書きましたとおり、師子と狛犬は同時導入されたはずという歴史的観点からの説明だけで十分な根拠になり得ますが、本稿は、これを補強する材料となります。延年大将棋に並ぶ駒が、表向きの駒だけであるという前提に立てば、延年大将棋を仲介にして、摩訶大将棋 --> 延年大将棋 --> 大将棋 --> 中将棋と結論できます。


延年大将棋の件、まだまだありますが、あと1点、補足のみ書いて、本稿いったん終わります。象棊纂圖部類抄の延年大将棋の図では、玉将の位置には、自在王が並んでいます。自在王は成駒ではないのかということになりますが、大将棋畧頌の冒頭には、提婆無明玉左右となっていますので、本来の並びは、玉将と考えていいでしょう。


なぜ自在王になっているのかという件、問題ではありません。たとえば、延年大将棋を並べ終わったと想像してみて下さい。並べた人は自身は玉将です。おもむろに玉将の駒を取り、裏返して、自在王にしてみたということはありそうでしょう。なお、投稿154~投稿156に書きました薬師如来仮説に立ちますと、玉将は薬師瑠璃光如来ですが、七仏薬師には自在王がいます。玉将も自在王も同一の存在です。ちょうど、無明と法性が表裏一体であることと同じです。


ともあれ、延年大将棋の玉将には、摩訶大将棋の玉将が使われていると考えて間違いありません。


2015年

7月

02日

161)将 思無邪:(間違いでした。訂正します)

前稿160)の1文字の字の件ですが、「駒」ではありません。正しくは、「将」です。なぜ駒と思ってしまったのか。お恥ずかしい限りです。よくわかりませんが、駒という思い込みのまま、投稿となりました。訂正します。


以前、諸象戯圖式を解読したときに書いたノートを見ますと、ここには、将の字を当てはめていました。打歩にて大将をつむる事、というメモ書きがあります。今日、くずし字辞典ですぐ調べましたら、そのとおり、将のくずし字です。先日集まった曼殊院の一室でも、その場で問題になっていて、「将」でしょうという意見が出ています。私もすぐ、諸象戯圖式の将に似ているということで、賛成していたわけですが、なぜか変わってしまった次第です。たぶん、思無邪に引っ張られたのでしょう。思いよこしま無しという心持ちと、詩経の駉篇、馬、駒がきれいに関連したせいかも知れません。


打歩にて大将をつむる事、という文言から、これの参照元は、関ヶ原の戦いの前、秀吉の時代ということになります。御湯殿上日記の、王将を改めて大将に直され候へ、を思い出させるからです。ただし、追記された可能性もあるでしょう。諸象戯式の14カ条全部が、同じ時代に書かれたものだと想定しますと、狛犬の駒については、口伝にのみ現れる昔の記憶というよりも、当時の対局に現れるほど生々しくなければいけません。狛犬の記述が、かなり具体的に書かれています。


将棋の歴史が記された古文書の系統は、16世紀には、少なくとも2系統あったものと思われます。ひとつは曼殊院の写本から水無瀬神宮の象戯圖への系統、もうひとつが諸象戯式の記述のもとになった本です。諸象戯圖式全体を読めば、この本の著者は、直接には大型将棋を知らなかったようですので、元禄時代には、将棋を伝える写本の断片がまだ残っていたのでしょう。ともかくも、諸象戯圖式には(特に、諸象戯式の箇所には)、象戯圖にない情報が含まれています。


2015年

6月

30日

160)駒 思無邪:  将碁馬寫の最後の2ページ

下に、曼殊院の将碁馬寫の中の文字を、一文字だけですが、画像で貼り付けました。最後から2ページ目には、この一文字だけが書かれています。この字は「駒」です。


最後のページにも、これと同じ、駒という字が書かれており、そのすぐ横に、重なるように3文字、「思無邪」と書かれています。


思無邪は、もともとは詩経の一節からです。思い邪(よこしま)無し。ただ、論語の一節の方が有名なようです。

子曰 詩三百 一言以蔽之 曰思無邪

(子曰く、詩三百、一言以て之を蔽えば、曰く、思い邪(よこしま)無し)


将碁馬寫に書かれた思無邪は、たぶん、詩経の方を意識したのでしょう。思無邪の一節は、詩経・魯頌(ろしょう)の駉(けい)篇にあります。駉の意味を、字通で調べてみますと、馬のたくましいさま、となっていました。


詩経には、次のような一節で現れます。

思無邪 思馬斯徂

思馬斯徂の解釈には、いろいろな説があります。

馬を斯(これ)徂(ゆ)かしめんと思う、という訳もありますし、思を助詞と考えて、具体的には訳さず、この馬これ徂(ゆ)くの意味にとり、馬よ走れ、ひたすらに、というような訳もあります。

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2015年

6月

27日

159)知られざる大型将棋:その存在の可能性と鳥獣戯画

本稿、すべて空想です。とは言え、多少の根拠はありますし、本ブログの一連のシナリオにも沿っています。仮説と言った方がいいのかも知れませんが、まあ、いちおう、空想ということで書きます。まず、延年大将棋(=泰将棋)の初期配置(図1)をご覧下さい。


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2015年

6月

25日

158)将棋の駒の字からわかること:曼殊院の古文書

先日、曼殊院を訪ね、一冊の古文書を見せていただきました。表紙には「将碁馬寫」という紙片が貼られています。紙の種類、サイズ、製本の仕方から江戸時代初期の写本でしょう。外見が類似する別の古文書が曼殊院にありますが、江戸時代初期のものです。


上で、写本と書いてしまいましたが、奥書はありませんので、何とも言えません。ただ、記述内容からは写本と考えた方が面白そうです。本は江戸時代ですが、内容は江戸時代よりも古く、つまり写本元も古いだろうという可能性です。


まず、表紙に書かれている将碁という語句ですが、将棋のことを、将碁と書いた時代は、新猿楽記、台記、明月記の時代です。あとは、駒の字の書き方についての記述、麒麟抄の将碁馬書事。もちろん、江戸時代、将棊または象戯と書いていた時代に、著者が、麒麟抄の字の将碁を模したという可能性もあるでしょうが、本ブログは、そうでないと思いたいわけです。


将碁馬寫は、中将棋の駒の字の書き方作法というべきものです。中将棋の駒の字が並んでおり、若干の注釈もありますが、基本的には、字が並んでいるだけです。しかし、この古文書は、将棋の歴史解明にとっては、非常に重要な資料となりそうです。さすが曼殊院秘蔵の古文書。本稿にそのデジタルコピーをつけたいところですが、あとしばらくお待ち下さい。まだ公開許可を取っていません。


ここでは、ひとまず次の2点を書いておきたく思います。

1)成金の駒の字の書き方。銀、桂、香、歩の成金の字が4つ並べられており、金の字の崩し方が、この順に大きくなっていく。

2)成り駒の字は、崩すのが原則である。しかし、太子の駒だけは楷書であり、崩していない。


1)の知見については、伝えられた実際の駒からもわかることなのですが、古文書の記述として残っているということが重要です。これは、最古の記述ではないでしょうか。麒麟抄の将碁馬書事にも、成金は崩すようにと書いてありますが、ここまでの具体的な記述ではありません。将碁馬寫と将碁馬書事を比較することで、小将棋の歴史に関することがいくつか議論できますが、また後日に。摩訶大将棋関連を優先させたくです(書き残していることが多々あります)。


2)は非常に重要な点です。大型将棋の歴史を、きちんと伝えてくれています。成り駒なのに、なぜ太子の字は崩さないかという点ですが、それは、表が太子という駒がないからです。つまり、太子の駒は成り駒にしかありません。


表の駒なのか裏の駒なのか、それを区別していたらしく、これが字を崩す理由です。ですので、表の駒がない場合、区別する理由はなくなり、字は崩さなくても大丈夫です。たとえば、飛鷲や角鷹は崩されています。なぜなら、飛鷲や角鷹は、表の駒として、すでに別の将棋にあったからなのです。この件、ひとつの説として、投稿77)に書いています。飛鷲と角鷹は、延年大将棋(=泰将棋)の駒に由来しています。そして、著者は、中将棋の飛鷲と角鷹の起源も知っていたということになります。将碁馬寫の原本は、そういう古い時代に書かれたという可能性もあるでしょう。


中将棋の駒の字の書き方という観点から、将碁馬寫と水無瀬神宮の象戯圖を見比べてみるのも面白いです。象戯圖では、成り駒の龍王と龍馬は崩していますが、飛鷲と角鷹は崩していません。これは、飛鷲と角鷹が、中将棋の表の駒としては、存在していないということからきています。水無瀬兼成は、中将棋の起源については、もはや知っていなかったのでしょう。


水無瀬兼成が写した嘉吉三年(1443年)の写本では、中将棋の図はどうなっていたのか、飛鷲は崩されていたのかどうか。将碁馬寫が崩されていたのであれば、嘉吉三年の本も崩されていたでしょう。なぜ飛鷲は行書なのだろう、兼成は思ったかも知れません。


この嘉吉三年の本もまた曼殊院の秘蔵本ですが、ともあれ、将碁馬寫は、非常に貴重です。天皇や秀吉の書簡が並ぶ曼殊院のガラスケースの中にいっしょに並べてもいいように思いますが、いかがなものでしょうか。


本稿、上記2)の件で、まだ続きます。続きは早々に投稿します。延年大将棋と鳥獣戯画と関連します。


2015年

6月

06日

157)平安将棋のこと:シャトランジ起源説はいかがでしょう

先週、将棋関係の研究会にて学外発表をしてきました。参加者は6名。玉将=薬師如来説で発表するのは初めてでしたが、特に異論は出ませんでした。質問はいくつもいただき、その中で1件、平安将棋と平安大将棋との関連についての質問で、あとで思えば、別の考え方もできるかなという返答をしてしまいましたが、まあ、この点は仕方ありません。これまでは、摩訶大将棋の復刻をメインテーマとしてきましたが、摩訶大将棋が関与する局面はどんどんと拡がり、平安将棋との関連も見えつつある状況です。


摩訶大将棋の復刻は、細部の変更点がまだいくつか出てくるかも知れませんが、だいたいのところは、今の状態で確定だろうと思います。狛犬と師子の同時性(つまり、師子の駒単独での導入はない)が明確ですので、大将棋や中将棋が先行したということはないでしょう。また、その他の事実も、たとえば、伎楽の駒、十二支の駒、仲人の動き方からの観点でも、摩訶大将棋先行を裏付けます。成立順についてはかなり確度が高いのではないでしょうか。そうしますと、前稿のとおり、残るのは、平安大将棋、平安将棋ということになってきます。将棋というボードゲームに、駒の追加のくり返しでもって、徐々に大型将棋が出来上がったという可能性はほとんどなくなりました。


ところで、将棋類の日本への伝来と影響を考える際には、地理的に近い中国の将棋だけでなく、つまり、宝応将棋やシャンチーだけではなく、その他の将棋、マックルック(東南アジアの将棋)やシャトランジ(古代ペルシャの将棋、チェスのルーツ)等も検討する必要があるでしょう。


さて、唐突ではありますが、平安将棋のルーツは、宝応将棋、シャンチー、マックルックというよりは、シャトランジと言った方が、より適切だろうと考えます。類似点に注目すれば、平安将棋と一番近いのはシャトランジだからです。まず、次の類似点、将棋の歴史を追われている方は、なぜ注目しないのでしょうか。


平安将棋:敵玉一将則為勝 

シャトランジ:敵の王を詰ますか、王だけにすると勝ち


裸玉にすると勝ちというルールは、かなり特殊だと思いますが、このルールが平安将棋とシャトランジの両方にあるわけです。駒を交点ではなく、マス目の中に置くという点も、同じです。


次に駒の類似性ですが、次のように見るのはどうでしょう。中国語訳のシャトランジで書きます。後ろのコロン以降が、平安将棋です。


王:玉将

将:金将、銀将

象:(酔象)

馬:桂馬

車:香車

兵:歩兵


象と酔象の対応は、Uさん(投稿65のUさんです)の5年前の論文にも書かれています。そして、シャトランジの「将」の駒は、平安将棋では、2つの駒(金将・銀将)に拡張されたと見るのはどうでしょうか。将棋の駒名2文字のうち、2文字目は伝来してきた駒名(中国語訳)そのもので、1文字目は形容詞です。形容詞を付け加えることで、駒の拡張が可能となったわけです。


シャトランジの将(マックルックの種、シャンチーの士)との対比で、金将の駒の動きの特殊性が云々されることがあります。また、象と銀将とが対比されるのも同じことなのですが、これらの対比には意味がないと考えます。つまり、金将、銀将は、拡張された駒なのですから、もはや将でも象でもありません。むしろ、動きが違っていることから、逆に、拡張された駒だということにもなるでしょう。


さて、ここで、シャトランジとの対応を平安大将棋にまで拡げてみましょう。ただし、二中歴のものではなく、前稿156)の図3の平安大将棋別版の方です。以下、空想にすぎません。念のため。


王:玉将

将:金将、銀将、銅将、鉄将

象:酔象(読みから)、飛龍(動きから)

馬:桂馬  

車:香車、反車

兵:歩兵


動きから見れば、飛龍は象に対応します。しかし、象を形容する駒とはせず、「龍」という日本独自の駒名を、ここではじめて作ったようにも見えます。将からの派生は、さらに、銅将、鉄将が増えるわけですが、もちろん、もとの将の駒の動きとは一致させていません。車についても、いろいろ類推ができるのですが、ここは後日にします。


最後に1点書き置きたく思いますのは、前稿156)の図3に残る、猛豹の駒です。これは、どこから来たのか?


それは、シャンチーの「砲」の駒かも知れません。砲の呉音はヒョウですから、豹でいいわけで、形容詞がついて、猛豹です。摩訶大将棋は、日本での将棋の発展形に違いないと思いますが、前稿156)では、摩訶大将棋の中で薬師経起源の駒(十二神将の駒、伎楽の駒)以外で目立つ駒として、酔象、飛龍、猛豹を挙げました。


象の駒、つまり、酔象は、シャトランジ起源の古式の駒として発掘されるべくして発掘したと言えるかも知れません。大型将棋の酔象がこの時代にあったという驚きの話ではなく、伝来当初の駒とも見れるわけです。象の動き(前後のななめ2目)の特殊性が先に来るために、シャトランジの象と酔象との対応はスルーされてしまいますが、象の名前は、酔象が引き継ぎ、象の動きの方は、どうも、新しく作られた「龍」の駒、飛龍が引き継いだようです。


ともかくも、敵玉一将則為勝のルールは、見渡せば、シャトランジにしかありません。シャトランジの最盛期を7~8世紀頃と見積もれば、遠くペルシャから日本にまでシャトランジが伝わったとしても何も不思議はありません。また、その当時、ペルシャ人が日本にまで来ていた記録は、続日本紀にあります。そもそも、正倉院の瑠璃杯は、古代ペルシャから来ました。どういう形態だったのかはわかりませんが、シャトランジも届いていたでしょう。駒は残りませんでしたが、伝えられたルールは、敵玉一将則為勝、という二中歴の記述として残ったようです。


2015年

5月

28日

156)平安大将棋再考:摩訶大将棋を起源とする説

後白河上皇と伎楽の話を予定していましたが、ひとつだけ先送りし、平安大将棋の成り立ちに関する一試案について書き留めておきたく思います。本稿、将棋の薬師如来仮説とも関連しますので。平安大将棋については、投稿108)~投稿111)にていろいろ考察しましたが、平安大将棋が呪術としての将棋から(たとえば、摩訶大将棋から)漏れ出てきた将棋のひとつだろうという思い込みは今も変わりません。


本題に入る前に、まず、摩訶大将棋の初期配置の意味するところを、まとめてみます。摩訶大将棋は、薬師経の教えの具現、薬師如来への供養を表現した将棋なのではないかということ、それがここしばらくの投稿内容でしたが、いかがなものでしょうか。空想を書いているつもりはありませんが、その題材上、論理と空想のぎりぎりの境目に立たざるを得ません。結局のところは、薬師如来の存在を信じるのかどうかということになるでしょう。


摩訶大将棋の玉将は、薬師瑠璃光如来(=薬師如来)を表現しています。つまり、玉将の玉は瑠璃の玉を意味しているようです。同時に、玉将は天皇を表現していたものと思われます。阿弥陀如来が西方極楽浄土の教主であることに対し、薬師如来は東方瑠璃光浄土の教主ですが、東方の、日出る処の天皇=薬師如来、これは一般論のとおりです。


薬師如来の眷属は十二神将ですが、摩訶大将棋では、薬師如来(玉将)を十二神将(十二支の駒)が守護しています。玉将の左右、提婆と無明は、たぶん、薬師如来の脇侍、日光菩薩と月光菩薩に相当するものと思われます。たとえば、提婆は、デーヴァ(deva)=輝くものという意味ですから、日光菩薩と考えてもいいでしょう。ただ、当初の駒名から置き変えられた可能性があるかも知れません。無明の法性成りルールが、法華経、日蓮宗の要素として強く現れているからです。


そして、残る1点、摩訶大将棋には、薬師如来への供養として伎楽面の駒が並びます。これは、薬師経に書かれているとおりです。伎楽面の駒は、八部衆にも相当するものと思われますが、この点、本ブログではまだ議論が済んでいません。摩訶大将棋の初期配置(図1)に、以上の点を色分けで表してみました。水色が十二神将の駒、橙色が伎楽面の駒、黄緑色が日光菩薩と月光菩薩に相当します。


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2015年

5月

18日

155)摩訶大将棋の十二神将:薬師経と伎楽からのアプローチ 2)

前稿の最後に、将棋からはじまり後白河上皇に延びる、次のようなつながりを書きました。

  将棋 <---> 十二神将/薬師如来 <---> 鳥獣戯画 <---> 後白河上皇

このつながりの中で、最後の後白河上皇が重要です。後白河上皇がなぜそう書いたのか、なぜそういう行動をしたのかという点を掘り起こすことで、文献学だけからは得ることのできない情報をすくいあげることができるからです。以下、2件だけ書きます。


まず、梁塵秘抄口伝集・巻第十・その十六をご一読下さい。

www.geocities.jp/yassakasyota/koten/ryojin.pdf

現代語訳は、Webに多数上げられています。たとえば、

http://homepage3.nifty.com/false/garden/kuden/kuden10-16.html


後白河上皇が厳島神社に参詣したときの文章です。五常楽(ごじょうらく)と狛鉾(こまぼこ)の舞を、建春門院といっしょに見ています。この中に次のような一節があります。


伎楽の菩薩の袖ふりけむも、かくやありけんと覚えてめでたかりき。

(伎楽を奏でて菩薩が袖ひるがえし舞う姿も、こんなふうだったろう、と思うほど美しいものでした。)


ふたりが見ていた舞、五常楽と狛鉾は、雅楽の演目でした。しかし、後白河上皇は、その舞を見て、伎楽の舞に思いを馳せているのです。当時はもうほとんど舞われることのなかった伎楽のことを、なぜ思い起こすのか。皆さんはどう思われるでしょう。


なお、伎楽、雅楽、舞楽の詳細については、たとえば、次の文献を参照下さい。

民俗小事典 神事と芸能、吉川弘文館、439ページ、2010年10月


さて、別の舞を見ているのに、なぜ伎楽を思い起こして感動するのかという点ですが、その理由として、薬師経の次の一節が関係しているのだろうと考えます。薬師経については、たとえば、http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/yakushikyou.htmを参照下さい。


恭敬尊重以種種花香塗香末香燒香花鬘瓔珞幡蓋伎樂而爲供養


種々の花香、塗香、・・・、そして、伎樂を以って供養する、とあります。いわゆる十種供養のことであり、法華経にも類似の記述があります。薬師経は薬師如来を説くお経です。比叡山延暦寺の根本中堂の本尊が薬師如来ですが、その他にも、興福寺東金堂、薬師寺、醍醐寺、東寺金堂、法隆寺金堂も、本尊は薬師如来です。有名なお寺が多いですね。


ともあれ、後白河上皇が伎楽を思い浮かべたわけは、伎楽が薬師如来への供養であり、日常的に意識の中にあったからなのではと想像してみました。でなければ、当時もうほとんど舞われていない伎楽を思い浮かべる理由はないでしょう。


では、なぜ後白河上皇は薬師如来を供養するのでしょうか。これには、後白河上皇の次のような事情があります。後白河上皇は、長く頭痛に悩まされていたのですが、熊野参詣の折りに祈願すると、薬師如来に祈るようにとお告げがあったらしいのです。そこで、そのとおりにしたところ、頭痛が見事に治ったと言います。こういうこともあって、後白河上皇は、薬師経と薬師如来をとても信奉していたのではないでしょうか。


こういうわけで、伎楽は薬師如来への供養として、時代は隔てるけれども、後世の12世紀に蘇っていたのかも知れません。以上の観点を踏まえて、摩訶大将棋を見直してみますと、十二神将がいて、薬師如来たる天皇を守り、供養として伎楽もあり、天皇の行列の前には、狛犬舞と師子舞が舞っています。狛犬舞と師子舞もその起源は、伎楽へと辿りつくのです。


大型将棋の中で摩訶大将棋が一番はじめにあった云々は、すでに別の観点から結論していますが、本稿の流れで再考してみましても、結論は同じです。こんなに仕組まれた将棋が、もっと小さな将棋から駒を徐々に増やしていくことで完成したとは考えにくく、薬師如来の世界観でもってまずいきなり作られたと見ています。この世界観を前提にすれば、摩訶大将棋の創案者の候補も挙げることができますが、この件、また別稿にて書きます。


それと、後白河上皇と伎楽との関連でもう1件ありますので、このテーマ、次回もさらに続けます。将棋に伎楽面の駒が入っていた不思議さは、同じ盤面上に十二神将と薬師如来が存在していたことで、不思議ではなくなりました。そして、これらの件、鳥獣戯画と熊野御幸にもつながっていきます。


2015年

5月

16日

154)摩訶大将棋の十二神将:薬師経と伎楽からのアプローチ 1)

本稿のタイトルを、たとえば、「摩訶大将棋の薬師如来」という感じのもっと極端なものでもよかったかも知れません。一般にこういうタイトルの場合、たいていは、読んでも無駄な文章なのですが、本稿、そういう先入観なしにご一読下さい。


前稿153)にて、1)もし十二神将が摩訶大将棋の駒だったとすれば、2)十二神将は薬師如来の眷属なので、3)摩訶大将棋には薬師如来がいるのだろう云々と書きましたが、この部分、はじめの1)のところで、多くの人が足踏みされるのだろうと思います。しかし、このシナリオは、4)薬師経が伎楽と関連すること、5)その伎楽の駒も摩訶大将棋に入っていること、までを考えると、十分にあり得るシナリオでしょう。


個人的には、摩訶大将棋に薬師如来が関連してきたことで、伎楽面の駒の仮説は、もはや仮説ではなくなったと考えています。それと同時に、伎楽という古い時代の影響が摩訶大将棋に反映していることの疑問、つまり、将棋が成立した時代と伎楽の時代がずれていることへの疑問が、完全に解決しました。伎楽面の駒は、どうも、薬師経に説かれているとおり、供養のひとつで、摩訶大将棋全体が、薬師如来への奉納の意味あいを持っていたのではないでしょうか。


以上の件、思いつきや空想で話しているわけではなく、摩訶大将棋に十二神将や薬師如来がいるのかどうか、これを解くのに、鳥獣戯画、後白河上皇、伎楽に関連するいろいろな事実/文献を挙げていきたいと思います。


まず、上で番号づけした項目の理由を整理しておきます。

1)仮説:新猿楽記の記述からです(たとえば、投稿127)投稿132)を参照下さい)

2)事実

3)十二神将がいるのだから、そこには守るべき薬師如来もいるはず

4)事実:薬師経に説かれています

5)仮説:伎楽面の名前と駒の名前が一致します。また、伎楽面の駒が全部踊り駒という対応関係もあります(たとえば、投稿108)を参照下さい)


薬師経、伎楽、後白河上皇の話に入る前に、鳥獣戯画の絵のことで、1点書いておかないといけないことがあります。まず、この点を。


鳥獣戯画乙巻に登場するいろいろな動物の絵が、醍醐寺の十二神将図像に描かれている動物と非常に似ています。この解説については、以下の論文を参照下さい。十二神将図像もこの論文にあります(挿図26-1~挿図26-12)。


中野玄三、密教図像と鳥獣戯画、学叢 第2号(京都国立博物館)、1980年3月

http://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/2/002_ronbun_a.pdf


鳥獣戯画が将棋を表現しているという仮説は、本稿の主題ではありませんので、後日に回しますが、ともあれ、鳥獣戯画は、十二神将あるいは薬師如来と深い関係をもつという点に注目下さい。十二神将は、薬師如来の眷属であり、薬師如来を守る存在です。


それと、鳥獣戯画の制作が後白河上皇のもとで行われたかどうかについても、本稿の主題ではなく、後日に回すのですが、次のとおり、相互の関連性に注目下さい。

将棋 <---> 十二神将/薬師如来 <---> 鳥獣戯画 <---> 後白河上皇


本稿、いったん、ここで切ります。このあと、薬師経からの引用、梁塵秘抄からの引用がありますので、まだまだ続きます。

 

2015年

5月

13日

153)後白河上皇と摩訶大将棋:鳥獣戯画を出発点として

鳥獣戯画と将棋の関連は、投稿142)145)146)と続けてきましたが、本稿からが中心です。書くことはたくさんあって、さて何から書けばいいのかと迷うところです。はじめに、参考文献ですが、次の書籍はどうでしょう。


鳥獣戯画の謎:別冊宝島2302(宝島社、95ページ、2015年2月)


鳥獣戯画については、最近のものを読まないといけません。新しくいろいろと進展がありましたので。上記の文献では、断簡を考慮に入れて鳥獣戯画・甲巻を復原しています。なぜそのように復原ができるのかの解説もあります。巻物に残っていたカタが手がかりになったようです。復原された甲巻は、そもそも、その始めが現存の甲巻とは違っており、競馬の場面から始まっていたようです。また、現存・甲巻の双六盤の絵の次に、囲碁盤を囲む場面が入ります。


なお、本ブログでは、甲巻と乙巻だけを考えます。丙巻・丁巻は、鎌倉時代の作ですので、摩訶大将棋の歴史、特に起源を考える上では重要でありません。ただ、上記の文献では、甲巻に重点を置いており、乙巻の絵は部分的にしか取り上げられていません。次の文献に、乙巻の全部があります。


鳥獣戯画がやってきた:国宝「鳥獣人物戯画絵巻」の全貌

(サントリー美術館・開館記念特別展図録、170ページ、2007年11月)


まず、なぜ後白河上皇が登場するのかということ、これを説明しておく必要があります。これは、鳥獣戯画の起源の問題、つまり、まだ確定していない問題と関係しますので、どの説にのっとるのかということになります。本ブログでは、宮廷絵師説ですが、これは、はじめに読んだ上記の文献(鳥獣戯画の謎)の影響を受けているせいかも知れません。宮廷絵師説の場合、発注元は、後白河上皇と考えてほぼ問題ないのではないでしょうか。文献では、この点を、年中行事絵巻と鳥獣戯画の絵の類似で説明しています。しかし、この線からはそれ以上の進展は見込めません。


ところが、仮に、鳥獣戯画が摩訶大将棋と関係しているのだと考えると、実は、まだいろいろと発展があります。「考えると」というよりは、「そう思い込めば」といった方が正確かも知れません。そう思い込むことができるかどうかは、十二神将(十二支)が摩訶大将棋の中に存在すると思うかどうかにかかってきます。結局は、投稿127)と投稿132)に書いた件です。新猿楽記の「十の君の夫」の節の、


進退十二神将、前後三十六禽


この文脈をどう読むのかということに集約されます。ここで陰陽師が進退させている十二神将、それはイメージとしての十二神将であることに違いないわけですが、その十二神将は、陰陽師の目の前にある将棋の駒だったのかどうか、そう思い込めるかどうかという点だけです。


詳しくは、引き続きの投稿にしますが、ひとまず、結論のひとつを短く書きます。もし、十二神将が摩訶大将棋の駒だったとすれば、十二神将は薬師如来の眷属ですから、将棋には、守られるべき薬師如来がいるのです。玉将が薬師如来ということになりますが、薬師如来は天皇でもありますから、ここで全部がつながります。なぜ将棋が天皇周辺だけのものだったのかということ、後白河上皇と薬師如来の話、十二神将図像と鳥獣戯画が酷似していること、東方浄瑠璃世界と将棋の世界観、熊野御幸(阿弥陀如来)と摩訶大将棋(薬師如来)に含まれる浄土性という時代の共通点、鳥獣戯画乙巻と狛犬と藤原通憲/信西(後白河上皇の後見人)、薬師教と伎楽、後白河上皇と伎楽の話、等々、一気につながってしまいます。


もちろん、後白河上皇の頃の摩訶大将棋は、別の摩訶大将棋(象棊纂圖部類抄に記載されたものに類似するがそのものではないという意味です)だったかも知れません。しかし、十二支の駒、十二神将の駒は、どういう形であったにせよ入っていたのだろうと思います。伎楽の駒も入っていたでしょう。狛犬もです。


本稿、全くの説明不足で、10稿分ぐらいのタイトルだけの羅列になってしまいました。この後の投稿で、順に詳しく書いていきます。平安小将棋、平安大将棋との関係性をしばらく問わず、摩訶大将棋のことだけを考えてみますと、後白河上皇の関わりは圧倒的です。それと、摩訶大将棋の仏教観は、西方の極楽浄土の方ではなく、東方の浄瑠璃世界だったようです。未来の阿弥陀如来ではなく、現世の薬師如来ということで、末法の時代背景とも合致しています。また、門外不出だった将棋の封印を解いたのは、後白河上皇だったかも知れないという可能性が非常に大きいと考えます。


2015年

5月

10日

152)狛犬が伝える将棋の歴史:摩訶大将棋は古い

鳥獣戯画と後白河上皇と将棋のことを今日は書く予定でいましたが、その前に、一点、狛犬のことをきちんと書いておかねばと思いましたので、まず、この件を投稿します。狛犬の起源や歴史については、次の2文献でいかがでしょうか。全体像をひととおり見渡すことができると思います。


「狛犬事典」、上杉千郷(戎光祥出版、366ページ、2001年11月)

「獅子と狛犬」、MIHO MUSEUM(青幻舎、304ページ、2014年9月)


将棋の歴史を考える上で、狛犬は非常に重要です。大きな手がかりとなるのは、狛犬の駒が摩訶大将棋にはあるのに、中将棋と大将棋にはないという点です。摩訶大将棋は狛犬と師子の両方の駒を含みますが、中将棋と大将棋には、師子の駒だけしかありません。ところで、古代日本では、狛犬と師子はいつも対になって現れます(この件については、上記の文献を参照下さい。詳しく解説されています)。ですので、師子だけがあって狛犬がないという中将棋と大将棋の形は、かなり不自然ということになります。


ただ、この不自然さは、中将棋や大将棋が摩訶大将棋をもとにして作られた将棋だと考えれば、特に問題はありません。摩訶大将棋から駒数を減らした将棋が大将棋/中将棋だと考えるのです。摩訶大将棋(片側96駒・50種類)から31駒を除いた将棋が大将棋(片側65駒・29種類)であり、さらに19駒を除けば、中将棋(片側46駒・21種類)ができ上がります。この進化の過程で新しく追加された駒はなく、大将棋/中将棋の駒は、すべて、摩訶大将棋にある駒ばかりです。つまり、大将棋/中将棋の師子は、その成立時に師子だけが導入された(狛犬を入れず師子だけが入った)のではなく、摩訶大将棋では揃っていた狛犬と師子のうち、狛犬が除かれた結果、師子だけが残ったと見た方がいいでしょう。狛犬と師子が将棋に導入された当初は、当然、狛犬と師子の駒がペアになって入っていたはずです。その将棋のひとつが摩訶大将棋だったのでしょう。


古典将棋が、原初に存在した摩訶大将棋から、大将棋、中将棋へと駒数を減らしつつ発展していったという点は、狛犬に注目する以外にも、たとえば、十二支に対応した駒に注目することからも類推できます。摩訶大将棋には、十二支の駒がほぼ揃っているのですが、大将棋には、十二支の駒のうち6枚だけしか含まれていません。これは、摩訶大将棋にあった十二支の駒の一部が除かれて、大将棋ができたということの現れです。十二支の駒の一部を含む大将棋がもともとあり、その後に完成した摩訶大将棋でやっと十二支の駒が揃ったというのはおかしいでしょう。なお、摩訶大将棋にある十二支の駒の話しは、投稿105や投稿127に書いています。また、狛犬と師子の話も、これまでにも、本ブログの所々に書いていますので、本稿、これ以降が本題となります。


ところで、狛犬と師子がいつもペアで現れるという件ですが、これは、古代の日本において、そうだったということです。現代においては、神社やお寺の前に左右に並ぶのは師子ではなく狛犬ですし、お祓いで舞うのは獅子舞だけなのですが、古代においては、師子と狛犬が一体ずつ左右に並び、舞うのは師子舞と狛犬舞の両方です。ですので、将棋の黎明期、古代の日本では、狛犬と師子は切り離して考えることはできません。なお、狛犬と師子の相違点は、目立つ点では、口の開きの阿吽と角の有無ですが、詳しくは文献を参照下さい。


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2015年

4月

29日

151)将棋と上皇:将棋は遊びだったでしょうか

将棋に関連する古文書のことは、これまでに何回も書いてきましたが、まとめて見渡してみると、ひとつの明確な事実が浮かび上がります。この件、黎明期の将棋を考える上で、非常に重要でしょう。以下に、12世紀までの将棋関連の古文書を、成立順に並べます。


1)新猿楽記(11世紀)

2)長秋記(1129年):鳥羽上皇の前で占い

3)台記(1142年):崇徳上皇の前で将棋

4)建春門院中納言日記(1183年):八条院の前で将棋

5)明月記(1199年):九条兼実の前で将棋

6)明月記(1201年):後鳥羽上皇の行幸の折りに将棋


新猿楽記を別として、上記2)~6)で将棋に関わって登場する中心人物は、3人の上皇と、女院(上皇に準ずる待遇を受けた女性)と、九条兼実です。九条兼実も関白(天皇に代わって政治を行う)になった人物ですから、全員が日本の最高権力者ということになります。


残された記述だけを事実と見るなら、将棋をしたのは上皇だけ、天皇は将棋をしていないのです。当時、院政の時代だったわけですが、天皇でさえ将棋はできないと、そういう言い方をしてもいいのかどうか。


上皇だけが行う、天皇はしない。そういうものが、実は、将棋以外にもうひとつあります。熊野御幸がそれです。熊野詣をしたのは、上皇と女院だけです。熊野御幸は、平安時代、鎌倉時代のほぼ400年の間に、100回ほど行われたのですが、天皇は一度も熊野に出かけていません。白河上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河上皇33回、後鳥羽上皇28回。


黎明期の将棋と熊野御幸、この2つを結びつける何かがあるのでしょう。ともあれ、上皇だけが関わったかも知れない将棋という遊び、それは、単なる遊びだったのだろうかという疑問は強くあります。摩訶大将棋の日月星辰、つまり、十二支ですが、これに気づいて以降、本ブログでは、黎明期の将棋は遊戯ではなかったのだろうと考えます。逆に言えば、これまでの将棋の歴史研究は、将棋=遊びという先入観にとらわれすぎているかも知れません。


さて、平安後期の歴代上皇は、次のとおりです。

 白河上皇 <---- 鳥羽離宮(上皇の住まい)から駒が出土

◎鳥羽上皇

◎崇徳上皇

 後白河上皇

◎後鳥羽上皇

 土御門上皇 <---- 上皇の住居近くで奔獏の駒が出土


◎印は、古文書に将棋との関連が現れる上皇です。ここでは、後白河上皇は、まだ無印にしていますが、全くそうではありません。本稿、鳥獣戯画と将棋の関連について書くための序論です。投稿142)145)146)と続けた件、まだ書き終わってはいません。次の投稿は、後白河上皇についてです。後白河上皇は、原初摩訶大将棋に関わった人物だったかも知れません。


2015年

4月

27日

150)摩訶大将棋の展示・対局会のお知らせ:2015年夏

(本稿、近日中に文章を補足します。とり急ぎ、書きかけの草稿をuploadします)


2015年夏の展示、対局会、関連発表のご案内です。

お問い合わせ先:takami@maka-dai-shogi.jp


1)学会発表(確定)

日時:2015年6月13日(土)~14日(日)

場所:東京都市大学

NICOGRAPH International 2015での発表です。

タイトルは、Reproduction of Maka Dai Shogiです。


2)立体駒の摩訶大将棋(予定)

期間:2015年6月27日(土)~28日(日)

場所:大阪南港ATC ITM棟3F

メイカーズバザール大阪で出展予定です。


3)摩訶大将棋の展示(確定)

期間:2015年7月1日(水)~3日(金)

場所:東京ビッグサイト

第4回クリエイターEXPOで出展します。

3日間全部、摩訶大将棋だけでいきます。


4)摩訶大将棋の展示・対局会(確定)

期間:2015年9月20日(日)~23日(水・祝)

場所:名勝大乗院庭園文化館

主催:日本摩訶大将棋連盟


奈良ホテルの南隣りです。2階の展示室と和室が会場となります。

対局は庭園を見渡せる和室で行います。すごく気持ちいい部屋です。

できれば、新しいタイトル戦をと思っています。ご参加お待ちしています。


2015年

4月

25日

149)ニコニコ超会議に摩訶大将棋現る

久しぶりの投稿です。以下、短いですが、アナウンスいたします。


ニコニコ超会議

日時:平成27年4月25日(土)~26日(日)10:00~17:00

場所:幕張メッセ

ブース:ニコニコ学会β(HALL9-106)

「摩訶大将棋をやってみませんか」

http://www.chokaigi.jp/

http://www.chokaigi.jp/2015/booth/nico_gakkai8.html


何でもお答えします(たぶん)。是非お越し下さいませ。お待ちしております。

なお、ポスターの文言は、多少、超摩訶大将棋的に書いてあります。

 

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2015年

4月

03日

148)馬と駒:将棋史解明の材料

将棋史に関するこれまでの文献学は、「将棋」という言葉に注意を払いすぎているかも知れません。本稿では、将棋の駒の「駒」に注目してみました。現代日本で、駒というと、広い意味でボードゲームの駒ですが、では、その「駒」という言葉はどこから来たのか、それを考えてみました。


白川静の字通では、駒は、小さい馬です。右側の句という文字は、小さいという意味だと書いてあります。そのとおり、万葉集では、駒を含む歌が多くみつかり、仔馬の意味で用いられているようです。ところが、平安時代になると、駒は、仔馬という限定がなくなり、馬を指すようになります。そして、駒という表現は、歌語(和歌の中で使う優雅な言葉)だけとなるようです。その他には、駒競(こまくらべ:=競馬)の駒ぐらいしか見つかりません。参考までに、駒の入った和歌をひとつ書き留めておきます。


新古今集・冬・六七一:藤原定家

駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮 


ところで、駒(=馬)は、いつから、ボードゲームの駒の意味になったのかですが、これについては、将棋の駒が、ボードゲームの駒の語源だという可能性大です。駒という言葉は、どうやら、将棋の駒がルーツのようなのです。もし、将棋の駒が、すでに使われていた何かの「駒」から来たものだとすると、その「駒」という言葉は、平安時代以前の古い言葉でないといけません。古代日本で遊ばれたボードゲームは、まず、盤双六の駒ですが、駒ではなく棋子と呼ばれています。シャンチーの駒も棋子です。今に伝わっていない古代日本のボードゲームがあって、その駒を、そのとおり、駒と呼んでいた可能性があるかも知れませんが、それは、今しばらく問わずにおきます。


「将棋」がはじめて文献に現れるのは新猿楽記ですが、将棋の「駒」がはじめて文献に現れるのは長秋記です。投稿136)や投稿132)では、別の観点を問題にしましたが、駒が現れるのは次の部分です。


覆以將棊馬、其數十二也


ここでは、将棋の駒という表現ではなく、将棋の馬という表現になっています。これはどういうことかと言うと、たぶんですが、この時代には、まだ、ボードゲームの駒を意味する「駒」という言葉がなかったのではないでしょうか。つまり、「將棊馬」の馬は、そのとおり、馬だったかも知れません。つまり、合戦シミュレーションゲームとしての馬、将棋を合戦に模したときの馬です。将棋の駒には十二支や霊獣が含まれますから、馬は十二支の動物や霊獣を総称して馬ということでしょう。


ここで、ひとつ前の投稿147)の最後の方、二中歴の将棋が黎明期の将棋でない可能性について言及しましたが、そう考えるに至る、別の理由が本稿です。鳥羽上皇が取り扱っていた長秋記の将棋は、合戦をイメージさせるに足る多くの駒があり、かつ、馬の多い将棋だったのではないでしょうか。この場合、二中歴に登場する平安将棋では全く不適合です。平安大将棋でも、まだ駒数が少なく、馬がそれほど目立ちません。


平安時代の合戦のイメージは、平治物語絵巻や後三年合戦絵巻に見ることができますが、合戦には多くの馬が使われます。合戦シミュレーションとしての将棋には、前線の歩兵の後ろに、多くの馬が並ぶ必要があるでしょう。それらの馬は、1個の歩兵よりも十分に強力でないといけません。


さて、将棋の駒という表現が、いつごろから使われるのかは、まだきちんと調べていません。長秋記(12世紀はじめ)に将棋の馬という表現で出てきて以来、その表現は、400年以上続いていたように思います(まだ調査中です)。水無瀬兼成の駒制作のメモでも将棊馬日記(16世紀終わり頃)ですし、麒麟抄にある駒の書式の文章は、将碁馬書事(14世紀中頃)です。


ということは、駒の起源は、まとめると、次のようになるのでしょうか。

1)仔馬=駒:奈良時代

2)駒=馬(ただし、和歌の中のみ):平安時代

3)将棋馬=将棋の駒の名称(将棋は合戦シミュレーションと見られていた):12世紀~

4)将棋馬-->将棋駒(馬を優雅に表現した):江戸時代?


駒と馬の件、引き続き調べていきますが、別件で、最後に1点、鳥獣戯画の甲巻、乙巻のことなのですが、実は、どちらも馬の絵から始まるのです。甲巻は競馬、乙巻は馬と馬の戦いです。次稿、鳥獣戯画についての残りを書きますが、そこで検討します。象戯経の話、吉備真備の話も書かないといけないのですが、鳥獣戯画の件、まだ書き終わっていません。なお、ここで甲巻としましたのは、現存の甲巻ではなく、復元した甲巻です。この件も、次の投稿にて。


極端な言い方をしますと、鳥獣戯画の乙巻に描かれている絵は、すべてが馬です。つまり、将棋の駒なのです。だから、まだ見ぬ平安時代の将棋に、飛鷲と角鷹がいたのかも知れません。もちろん、それらは、乙巻に描かれている順序からは、あまり強い駒ではなかったでしょう。泰将棋に組み込まれたときにも、初期位置でいい場所をもらえませんでした。泰将棋は、既存の将棋の駒だけを集めて作られた可能性もあるでしょう。


本稿、流れに乗って書きすぎです。ひとまず途中まで信じていただいて、あとは、当たるも八卦(=易占=将棋)、当たらぬも八卦ということで。



2015年

3月

29日

147)二中歴の信頼性:仲人の駒をめぐって

まず、投稿140)の補足として、仲人の駒の動きの確認と、そのように結論する論拠をまとめておきたいと思います。仲人は、中将棋の駒ですから、動きは確定していますが、本稿は大将棋の仲人を問題にしています。そのあとで、二中歴のことを話題にします。


仲人の動き:前後左右に1目だけ歩く

仲人の動きをこのように結論した理由、および、参考とすべき事実は次のとおりです(4点あります)。


1)象棊纂圖部類抄には、前後に1目だけ歩く駒が2つあって、それは、仲人と土将である。象棊纂圖部類抄に記載される5種の将棋(実際に対局された可能性のある将棋:小将棋・中将棋・大将棋・大大将棋・摩訶大将棋=摩訶大大将棋)の中で、動きが同じ駒はこの2駒以外には存在しない。駒の名前が違えば、動きも違うと考えるのが妥当であり、仲人か土将か、どちらかの動きが間違って記載されたと考えるべきである。


2)中将棋の仲人は、前後に1目だけ動く。ところで、象棊纂圖部類抄の中将棋の注釈には、仲人が取り上げられており、そこには、大将棋と中将棋の仲人の動きが違っていたと解釈せざるを得ない記述がある(これについては、投稿116)と投稿120)をご参照下さい)。その動きの相違点は記述だけからは明らかではないが、仲人の注釈の冒頭に、次のように書かれている。


不行傍(かたわらに行かず)


あえてこのような注釈を付けたということは、仲人は、大将棋のルールでは、「かたわらに行く」ということを意味している。


3)象戯圖の大将棋の図面には、仲人の動きを示す朱色の点がついている。点は、前後左右につけられており、これは、上記2)で予想されたとおりである(なお、象戯圖の図面については、島本町教育委員会から冊子が発行されていますので、ご確認下さい。この冊子は、島本町歴史文化資料館にて入手可能だと思います)。


4)普通唱導集の大将棋に関する箇所の記述に、「仲人嗔猪之合腹」と書かれている。この記述の解釈については、いくつかの説が提案されているが、どれも決定的な説明ではない。ところが、仲人が横に動くとした場合、納得のいく解釈が可能となる。つまり、仲人、嗔猪ともに、横に動くことができ、かつ、ななめには行けないため、横に並ぶ(=腹を合わす)のが、最も適当な布陣となるからである。


以上の説明については、投稿116)と120)の部分も含め、後日、全体をきちんとまとめたく思いますが、上記の概略にても賛同いただけると思います。摩訶大将棋でも大将棋でも、歩兵がずらっと並ぶ前に、仲人だけが、単独で飛び出しているわけですから、仲人が、前と後ろにしか動けないというのは、何とも、不自由なルールなわけです。今までは、中将棋の仲人の動きをそのまま、伝えられた厳粛なルールとして受け入れていました。しかし、上記2)で書きましたとおり、仲人の動きは、大将棋をもとに中将棋が作られた際、変更されたものと思われます。ですので、中将棋の仲人と違う動きであっても何ら問題ありません。


大将棋や摩訶大将棋を指されている皆さん、どうぞ、前後だけでなく左右にも動く仲人で、一度対局をしてみていただけませんでしょうか。戦略が非常に大きく広がることが実感できるかと思います。そして、くどいようですが、このルール変更は、新しい将棋としてのルールの導入ではなく、摩訶大将棋の復刻に基づいたものであるという点もご理解下さい。


さて、本稿、ここからが本論となります。

まず、中将棋と大将棋(象棊纂圖部類抄の大将棋)の成立時期の問題ですが、これは、上記2)の解釈どおり、大将棋の方が早くに成立しています。この考え方は通説と同じです。ただ、通説の根拠はかなり希薄だと思いますので、仲人の動きに関する象棊纂圖部類抄の記述もその根拠に加えていいかも知れません。


次に、二中暦に記述されている大将棋の注人についてです。注人が、仲人へと進化したのかどうかは、まだ不明であり、仲人の方が早かった可能性もあります。この際、二中歴の編纂時期の問題が重要ですが、ここでは、ひとまず、一般的な考え方、13世紀ということで話しを進めます。としますと、摩訶大将棋や大将棋の成立時期よりも早いのかどうか、これもまだ不明でしょう。


二中暦の注人は、左右には動けません。駒の動きが、時代によって将棋によっていろいろに変わるという考え方もあるでしょうが、自然な考え方は、やはり、駒の動きは変わらないというものです。仮に、注人(二中暦)--> 仲人(象棊纂圖部類抄の大将棋)--> 仲人(中将棋)と進化したとした場合、駒の動きの変更が2回生じる点が難点です。


二中暦の大将棋は、中将棋の仲人ができた以降の成立であるか、または、記載内容が間違っているという可能性もあるものと考えます。二中暦に登場するその他の駒の動きの記述も考え合わせますと、後者の可能性(記載内容の間違い)が大きいかも知れません。


本稿の結論を、短くまとめるとしますと、以下のようになります。

二中暦の大将棋のところの記述は、「B級資料」だという可能性があります。。


1990年代、雑誌「詰棋めいと」には、将棋史の記事がいくつも掲載されていました。そこで使われていた「B級資料」という言葉をここで使わせてもらいました。二中暦の大将棋のところがB級資料だとすると、いろいろと問題になってくるでしょう。現状、二中暦の記述は、とにかく正しいものだとして取り扱われているからです。二中歴の記載が、黎明期の将棋の基本形であり、将棋の出発点だったとみなされているのです。本当にそうなのでしょうか。


二中歴の将棋は、どうも将棋の原点ではなさそうだというのが、今の私のスタンスです。この点は、研究者、愛好家の皆さんといっしょに、いずれきちんと検討されるべき課題だと思っています。


2015年

3月

28日

146)将棋の駒の生命力

前稿からの続きとなります。投稿145)では、鳥獣戯画の乙巻の最後に描かれている獏の絵と、出土した奔獏の駒とを結び付けましたが、実は、それだけではありません。


乙巻の絵巻の最後のあたり、描かれている動物が強さの順に並んでいるとすれば、その最後の3つ、つまり、強さのベスト3は、獏、象、龍ということになります。さて、ここで、古い時代に出土した小将棋以外の駒のことを思い出してみて下さい。全部で4つあります。そのうちの3つは、川西遺跡の奔獏、興福寺の酔象、中尊寺の飛龍です。古代ないし中世前期という古い時代の出土駒3つは、乙巻の最後の強い3頭に一致するのです。これを、単に偶然の一致とみても問題はないでしょうが、そうみるならば、この件はこれでおしまいということになります。


以下、雑感と空想です。

投稿40)に書いているのですが、上清滝遺跡の王将の出土駒の件です。この件、後日談があり、間近に出土駒を見せてもらっています。駒の裏も見せてもらえないでしょうか、と聞きますと、どうぞ、ということで、透明のふたを開けてもらって、駒を裏返しました。そして、その後の1週間ほど、私は寝込んでしまうわけです。昔の王将の駒を触ってしまったからだろう、そういう気持ちになったことを覚えています。出土駒は、すごい威力なんだなあと。


1000年ほど前の駒が、いま現れてくるわけですから、その点だけでも、やはり、すごいことではあります。駒の持つ生命力と言えばいいでしょうか。加えて、古代の将棋が陰陽道の一部だということ、そのことも関係するのかも知れません。とにかく、遊戯となる前の将棋の駒、陰陽道の神事と関わっていた駒、そういう呪術の駒が、1000年ほど経って地面の下から現れて来るわけです。駒の持つ呪術の力も、それはすごいものではないでしょうか。


奔獏、酔象、飛龍が地面の下から現れた、それは、強い駒だから、力のある駒だからです、と言ってしまうのは、まあ、多少はおかしいでしょう。ただ、そういうことがあっていいのではと思うこともあります。ともあれ、今出てきている、奔獏、酔象、飛龍の駒は、とても強い駒だったのでしょう。数多くある駒の中、偶然にひとつ掘り出されたわけではないのです。奔獏も、酔象も、飛龍も、見つかるべくして見つかったというべきかも知れません。

 

最後に獏の話を。

獏は、現代日本では、動物園にいる獏を思い出すとおり、獣の一種でしょう。そして、古代中国にあっても、獏は、獣の一種だったようです。しかし、古代日本では、獏は獣ではなく、麒麟、鳳凰、龍と同じく、霊獣だったらしいのです。獏は日本に伝わってから霊獣になったという珍しい存在です。これは、遣唐使の廃止以降、いろいろな日本独自文化に見られる、日本的熟成のひとつなのではないでしょうか(まだ不勉強です。こういう解釈は間違っているかも知れません)。時代は前後に振れるかも知れませんが、平均値で言えば、平安時代後期、摩訶大将棋シリーズの創生は、まさに、霊獣の獏と同じ、日本的熟成の例だったかも知れません。


2015年

3月

25日

145)奔獏の駒と鳥獣戯画

投稿142)の続きを少し書きます。続きのうち、人物に関する件は、また別に投稿します。


投稿142)では、鳥獣戯画の乙巻が摩訶大将棋と関連していると書きましたが、正確には、摩訶大将棋シリーズとでも言うべき大型将棋のことを想定したものです。摩訶大将棋そのものではありません。十二支や三十六禽の駒がある将棋のことを、ぼんやり思い浮かべていました。平安時代に、そうした将棋があったのかどうか。


鳥獣戯画の丙巻と丁巻は鎌倉時代の作ですから、本稿で問題とするのは、平安時代の作、甲巻と乙巻の方です。甲巻で遊戯を扱った鳥獣戯画が、乙巻で、当時の大型将棋、摩訶大将棋シリーズを意識していたかどうか、その点を空想しています。


まず、乙巻に登場する動物ですが、登場順に、次の15種類と見ることができるでしょう。

1)馬 2)牛 3)鷹 4)狼 5)鶏

6)鷲 7)? 8)麒麟 9)豹 10)山羊

11)虎 12)獅子 13)龍 14)象 15)獏

このうち、7)の動物については、亀のようでもあり犀のようでもあり、空想上の動物のようでもあり、特定はされていません。摩訶大将棋と関連するというスタンスからは、ここでは、狛犬と見ます。一角獣というのがポイントですが、この件、本稿の話題ではありません。


これまでの研究解説を読みますと、乙巻が何を表現しているのか、結論は出ていないようです。動物の絵のお手本だったという説が多数派ですが、お手本説は、絵巻の制作者の側から見れば、少し単純すぎるような気がします。制作の動機にもっと含まれた何かがあるとしましょう、そうすると、関連する人物からは、制作背景に将棋が思い浮かぶのです。この件また後日に。


結論のみ急ぎます。投稿142)で書きましたが、一番初めに馬、これが将棋を暗示しているのかも知れません。上記11)虎のあとに、獅子、龍、象、獏という順番は、一番強いものに向かって、強さの順に並んでいるのではないでしょうか。とすると、獏が一番強いわけです。


将棋の駒の獏は、奔獏の駒しかありません。知られている将棋の中では、大大将棋で初めて登場します。さて、奔獏はどれほど強いのかというと、とても強いのです。前後6方に走り、左右は5目の踊りです。奔王よりも強いでしょう。獏は強い、これは当時の共通認識だったかもです。


やっと、本題です。

3年前、投稿11)や投稿19)で取り上げましたが、いわゆる、「本横」の駒のことを思い出して下さい。当時の本ブログでの将棋歴史認識は、間違いだらけですが、「本横」の件については、変わっていません。まだ奔獏だと思っています。奔獏の駒が出土したという、この可能性は、今回の件で、3年前よりも大きくなりました。


本稿、全部書けませんでした。この続き、近々に引き続き投稿します。

なお、お分かりだと思いますが、絵巻に出てくる順に、摩訶大将棋の駒を言いますと、

狛犬、麒麟、猛豹、??、盲虎、師子、龍王(龍馬)、酔象、奔獏

です。??のところの絵は山羊です。羊は、十二支と駒との対応がまだわかっていません。


平安時代の後期、動物になぞらえるという風潮は、年中行事絵巻でもそうですし、そういう時代の空気があったのでしょうか。この点は、これから調査しないといけません。ただ、平安時代に摩訶大将棋シリーズが存在したとして、その駒の中に、酔象や師子、麒麟や龍王、そして、いろいろな動物が含まれていたとしても、何の不自然さもありません。


鳥獣戯画の中に多くの動物や霊獣が並ぶのと同様、将棋の中にも多くの動物や霊獣が並んでいたという風景。鳥獣戯画を見て摩訶大将棋を作ったというよりは、摩訶大将棋を念頭にして鳥獣戯画の乙巻を書いた、こういう説明は、いかがなものでしょうか。この件、鳥獣戯画に関係する人物のことを思いますと、もっと確かなものになります。


2015年

3月

20日

144)吉備真備の詩文と将棋伝来

(文章追加・修正の上、3月中にきちんと投稿いたします)


次の一節は、吉備真備が書いたと思われている詩文の一節です。


舞鳳帰林近 盤龍渡海新


鳳は、自分(吉備真備)のことでしょう。林は、故郷の日本を意味しているかも知れません。夜遅く、次のように読み下した後、少し眠れませんでした。


舞う鳳、林に帰ること近く、

盤の龍、海を渡ること新たなり。


この件、実はたわいない話しなのですが、盤の龍をどうみるかということです。盤を将棋の盤、龍を将棋の駒(たとえば、飛龍のような)とみれば、ということです。将棋が伝来した、まさにその瞬間を詩でもって表現したと。


盤の龍、海を渡ること新たなり・・・ どうぞ、ひとときお楽しみ下さい。


2015年

3月

20日

143)象戯経:ヤフーオークションに登場

(文章追加・修正の上、3月中にきちんと投稿いたします)


この出品をリンクで公開してもいいのかどうか未確認です。出品された巻物は、1694年の写本です。これが、水無瀬神宮の象戯圖からの写本なのか、曼殊院の古文書からの直系なのかということを話題にしたく思います。結論は、前者です。


ただ、この巻物は貴重です。書としての出品だったと思いますが、将棋の古文書としても、100年離れてはいますが、象戯圖に次ぐ古さです。業者さんは、出品の前に、博物館関係者に連絡されたのでしょうか。


2015年

3月

20日

142)鳥獣戯画と摩訶大将棋

(文章追加・修正の上、3月中にきちんと投稿いたします)

 

鳥獣戯画の甲巻、乙巻は、成立の経緯は謎ですが、平安時代後半の成立です。ところで、鳥獣戯画の乙巻の内容は、摩訶大将棋のことをそのまま表現しているかも知れません。注目点は、登場する動物と霊獣が、摩訶大将棋の駒と一致するということだけでなく、それらの動物たちが、全部戦っているということです。この点、重要です。


乙巻の冒頭は、馬が戦う絵です。馬でなく、駒を想起させたかったのでしょう。また、鳥獣戯画の関係者を調べてみると、将棋の関係者が揃います。鳥羽上皇、後鳥羽上皇、・・・。これを偶然と考えていいのかどうか。それと、鳥獣戯画が、遊戯や競い合いをテーマにした巻物だということとも関連するのです。


ということ等いろいろ、鳥獣戯画の巻物を、旧世尊院の長い廊下に全部広げて、のんびり空想してみたく思います。巻物はコロタイプ印刷です。


2015/03/29追記:

本稿に追加修正するのではなく、投稿145)と投稿146)に、詳しく投稿しました。そちらの方を参照下さい。鳥獣戯画の件は、まだ全部書けていませんので、引き続き、別投稿として近日中に投稿予定です。


2015年

3月

20日

141)プリンセス金魚杯2015: 3月22日(日)旧世尊院

摩訶大将棋の展示・対局会(プリンセス金魚杯2015)

日時:平成27年3月22日(日)10:00~17:00

場所:旧世尊院客殿(国際奈良学セミナーハウス)

主催:日本摩訶大将棋連盟

後援:ゲーム学会

参加費:無料


プリンセス金魚杯2015:ベスト4の組み合わせは次のとおりです。


        準決勝A(22日 10:30~)

岡本和浩(愛知)-----

          |-----

谷口文隆(大阪)-----   |  決勝(22日 13:30~)

             |-------

豊田健多(大阪)-----   |

          |-----

田村一樹(大阪)-----

        準決勝B(22日 10:30~)


3局とも、将棋盤と駒での対局です。対局時計も使います。

アドバンスド摩訶大将棋も1面用意しますので、自由にご体験下さい。


次の新しい点、摩訶大将棋のご説明の際、話題にしたく思います。これらの件、このあと、続けて投稿します。短くですが。

1)鳥獣戯画と摩訶大将棋

2)象戯経:ヤフーオークションに登場

3)吉備真備の詩文と将棋伝来


それぞれの関連資料を持っていきます。鳥獣戯画は、コロタイプ印刷の巻物4巻を展示します。また、次の資料も展示します。すべて「詰棋めいと」からです。こちらも話題のひとつに。


門脇芳雄、将棋のルーツ考(1993)

岡本正貴 、『象戯經』の伝来(1994) 

旦代晃一、平安将棋の謎(1996、1997、1998)

佐藤宗弥、陝西省歴史博物館の将棋盤(1997)

木村義徳、平安将棋について(1997)

木村義徳、平安将棋をめぐって(1998)

旦代晃一、普通唱導集と鎌倉期の将棋(1999)

旦代晃一、棋の起源(2002)

河内 勲、将棋史を楽しむ(2002)


摩訶大将棋は、もしかして、日本将棋の黎明期の歴史と深く関係しているかも知れません。将棋の歴史ファンの皆様、お待ちしております。お気軽にお越し下さいませ。


お問い合わせは、次のメールアドレスにお願いいたします。

takami@maka-dai-shogi.jp


会場までのアクセスは次のサイトをご参照下さい。

http://nara-manabi.com/nara/access/

会場の旧世尊院客殿の様子は次のサイトです。

http://nara-manabi.com/nara/kyuseson/


なお、旧世尊院客殿は今月3月を持って閉鎖されます。そういうこともあって、再度、旧世尊院客殿を会場としました。


2015年

3月

19日

140)普通唱導集「仲人嗔猪之合腹」の意味するところ

2月28日(土)のラウンドテーブルにご参加いただきました皆様、どうもありがとうございました。大変実り多い研究会となりました。いろいろな件、すぐに投稿したかったのですが、体調悪くなかなか回復せず、だいぶ日があいてしまいました。


ところで、今週末3月22日(日)に摩訶大将棋イベントがあります。ベスト4にお集まりいただき、プリンセス金魚杯2015の準決勝、決勝戦が行われます。また、同じ会場にて、摩訶大将棋に関連する新資料を展示し、内容の紹介ができればと思っています。今夜、簡単な短文になりますが、新しい仮説、新しいシナリオをまとめて投稿いたします。詳しい内容は、22日に直接いかがでしょう。旧世尊院客殿にて、摩訶大将棋の対局を見つつ離れつしながらということで。摩訶大将棋が初めての皆様も、どうぞお気軽にお立ち寄り下さいませ。


ラウンドテーブルのうち、摩訶大将棋関連に限定しますと、一番投稿したい件は、

1)久保さんの発表:象戯圖の大将棋に記載の、仲人の動き

2)私の発表しました象棊纂圖部類抄の中将棋のところ、仲人の動きの記述

3)山本先生に教えていただきました、仲人の動きと「仲人嗔猪之合腹」の関連

この3点から、何が言えるのかということです。


後日、別投稿にて、きちんとまとめますが、結論は、やはり仲人は、前後だけでなく、左右にも1目動けるということです。注意すべきは、象棊纂圖部類抄の大将棋の仲人が左右に1目動けるということであり、中将棋の仲人は左右へは動けません。


この件、上記1)のとおり、文献上の証拠が残っていますし、なぜ仲人と嗔猪が横に並ぶのかというと、どちらも横に利いているからだというのが、上記3)のアイデアです。これらと投稿116)の説明も合わせて考えれば、大将棋の仲人は横に動くということでいいのではないでしょうか。


普通唱導集の「仲人嗔猪之合腹」に対する解釈は、仲人が横に動くということの傍証になります。加えて、象棊纂圖部類抄の大将棋の成立時期の件ですが、中将棋よりも早かったということになります。


2015年

2月

28日

139)プリンセス金魚杯2015:摩訶大将棋トーナメント戦

摩訶大将棋の展示・対局会イベントを、次のとおり、行います。

どうぞお気軽にお越し下さいませ。


摩訶大将棋の展示・対局会(プリンセス金魚杯2015)

期間:平成27年3月22日(日)10:00~17:00

場所:旧世尊院客殿(国際奈良学セミナーハウス)

主催:日本摩訶大将棋連盟

後援:ゲーム学会

参加費:無料


プリンセス金魚杯2015(摩訶大将棋のトーナメント戦)の公開対局がメインイベントとなります。トーナメント戦は、現在、予選の対局を受付中です。

日程と対局場所を調整の上、随時、対局を進めています。

3月22日(日)は、準決勝(10:30~)と決勝戦(14:00~)のみを行います。


お問い合わせ、お申込みは、次のメールアドレスにお願いいたします。

takami@maka-dai-shogi.jp


会場までのアクセスは次のサイトをご参照下さい。

http://nara-manabi.com/nara/access/

会場の旧世尊院客殿の様子は次のサイトです。

http://nara-manabi.com/nara/kyuseson/


2015年

2月

20日

138)ラウンドテーブル「将棋の歴史について考える」開催

次のとおり、ラウンドテーブル「将棋の歴史について考える」を開催いたします。

皆様のご参加をお待ちしています。


ラウンドテーブル「将棋の歴史について考える」

日時:平成27年2月28日(土)13:30~16:20( 受付:13:00~ )

場所:大阪大学 中之島センター( 7階 講義室702 )

主催:ゲーム学会

後援:日本摩訶大将棋連盟

参加費:無料(要申込み) 申込み先:takami@maka-dai-shogi.jp

当日参加も受け付けていますが、当日参加分の配布資料は用意しておりませんので、

ご了承下さいませ。

 

会場までのアクセスは次のサイトをご参照下さい。

http://www.onc.osaka-u.ac.jp/others/map/index.php


スケジュール

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13:30 ~ 15:00 セッションA:研究発表/話題提供

15:10 ~ 16:20 セッションB:ラウンドテーブルディスカッション

 

16:40 ~ 18:30 懇親会( 参加費:3000円 )

講義室702に、ホテルからのケータリングを頼んでいます。


プログラム:セッションA

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A01 コロタイプ印刷による象戯圖の復元 久保直子(島本町教育委員会)

A02 『普通唱導集』の大将棋について  溝口和彦(遊戯史学会会員)

A03 易占と摩訶大将棋         高見友幸(日本摩訶大将棋連盟)

A04 大将棋の成りに関して       山本博史(近畿大学)

A05 興福寺出土酔象駒とその周辺    鈴木一議(橿原考古学研究所)

A06 将棋駒の創造と仏典        古作 登(大阪商業大学)

A07 将棋と古代の軍事         中根康之(大阪電気通信大学)

A08 将棋伝来経路解明の焦点      清水康二(橿原考古学研究所)

A09 伝来に関する21の関門  松岡信行(NPO法人『将棋を世界に広める会』ISPS) 

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2015年

1月

28日

137)摩訶大将棋の展示・対局会・関連発表:2015年春

2015年春の展示、対局会、関連発表のご案内です。

お問い合わせは、次のアドレスにお願いいたします。

takami@maka-dai-shogi.jp

 

1)ラウンドテーブル「将棋の歴史について考える」

日時:2015年2月28日(土)13:30~16:30

場所:大阪大学中之島センター

主催:ゲーム学会

後援:日本摩訶大将棋連盟


ラウンドテーブルですので、学会発表のようなフォーマルな感じにならないよう、ざっくばらんでと思ってます。現在、6件の発表が決まっています。発表タイトルとプログラムのおおよそが確定しましたら、また後日の投稿にてご案内します。


2)摩訶大将棋の展示

インタラクション2015にてデモ発表(採択確定、日時未定)

日時:2015年3月5日(木)~7日(土)のうちの1日

場所:東京国際交流館

摩訶大将棋とアドバンスド摩訶大将棋の紹介です。


3)摩訶大将棋の展示・対局会(プリンセス金魚杯2015)

期間:2015年3月22日(日)10:00~17:00

場所:旧世尊院客殿(国際奈良学セミナーハウス)

主催:日本摩訶大将棋連盟

 

まだ検討中ですが、当日は、プリンセス金魚杯2015(トーナメント戦)の公開対局を行う予定です。次のようなスケジュールで考えています。

午前:準決勝2局

午後:決勝戦


旧世尊院客殿にて対局できるのも、今回が最後となります。3月31以降は、旧世尊院は利用できません。客殿のだいたいの様子は、以下のサイトの写真をご覧下さい。

http://nara-manabi.com/nara/kyuseson/


ベスト4までの対局は、3月20日(金)までに済ます予定です。準決勝までの対局にはアドバンスド摩訶大将棋を、決勝戦は、将棋盤と駒を使用します。対局場所は、その都度調整させていただきます。詳細は、後日の投稿にて再度ご案内します。プリンセス金魚杯2015に参加ご希望の方は、上記のメールアドレスまでご一報下さい。


2015年

1月

20日

136)将棋の駒を使った占い:「長秋記」再々考

このテーマについては、「長秋記」再考(投稿132)のところで、投稿済みなのですが、細かな点は書きませんでしたので、この点を含め、再々考の投稿とします。


大治四年五月廿日丁酉、新院御方有覆物御占、覆以將棊馬、其數十二也、新院如指令占御


占いの種類は、覆物の中身を当てる占いで、易占の用語では、射覆(せきふ)と呼ばれているものです。上記の文章も、古事類苑の方技部七の易占のところ、射覆の項目に掲載されています。本稿にて注目しますのは、「覆以將棊馬」と書かれているところです。ここの解釈ですが、1)將棊ノ馬ヲ以テ覆フ、と読むのではなく、2)覆ハ將棊ノ馬ヲ以テス、だろうと考えています。


1)の場合は、覆う物として(覆うために)駒を使ったという意味で、2)の場合は、占う道具として駒を使ったということになります。覆=射覆とみるわけです。易占では、たとえば、50本の筮竹を使いますが、そうでなく、鳥羽上皇は12枚の駒を使ったということになります。駒をどのように使ったかは、長秋記だけでは不明ですが、何らかの方法で64卦を決めたのでしょう。


一方、駒で覆ったと読んだ場合ですが、射覆の対象は1点でしょうから、12枚の駒で12個の何かを覆ったということはないでしょう。駒で覆ったのだとすれば、12枚の駒でひとつの何かを覆ったことになりますが、そもそも、覆う物の数は重要でしょうか。其數十二也、と明記するのは、12枚という数が重要な数だからです。


結局、「覆以將棊馬、其數十二也」のところは、

覆物の占いには、将棋の駒を使った。その数は十二。

という解釈が妥当に思えます。十二という数の明記は、十二支の十二だからこそでしょう。十二支の駒を選んで占いに使ったということになります。駒の中からいろいろと見繕って、とにかく12枚を選んだという無意味なやり方は、易占では考えにくいです。易占が天の声を聞くものだとすれば、占うための道具も神聖なものであるべきで、使う駒は天の駒、十二支の駒しかないのでは、と考えます。


その当時は、玉将、金将、銀将、桂馬、香車、歩兵の駒しかなかったのだからという理由で、12枚の中に金将、銀将を含ませるのだとすれば、まさに本末転倒です。むしろ、『射覆で十二支の駒が使われたという事実があるのだから、当時、すでに、小将棋以外の駒も存在したのだろう』、逆にこう考えた方が自然ではないでしょうか。


それに、金将、銀将は地理の駒です。このことも重要でしょう。「天の声」を聞く易占を行うときに、天の駒があるにも関わらず、地の駒を使うのだろうかということです。


4 コメント

2015年

1月

18日

135)摩訶大将棋の駒:狛犬と鳳凰について

彫駒:狛犬(不成り)と鳳凰(成りは狛犬)
彫駒:狛犬(不成り)と鳳凰(成りは狛犬)

摩訶大将棋が大将棋よりも先に成立したということを手がかりにして、摩訶大将棋の復刻は大きく進んだ感ありです。右の写真は、駒遊び人さん作の彫駒、狛犬と鳳凰です。狛犬は不成り、鳳凰は狛犬に成ることに注意して下さい。この2駒は、復刻の成果の代表と言っていいものでしょう。


また、鳳凰は2目の踊り駒です(麒麟も同じく2目踊りです)。この件、投稿116)や120)あたりをご参照下さい。さらに、主要な踊り駒が伎楽面の名称に由来する駒であるかも知れないことを考えますと、このことが「踊り駒」という名称の起源になっている可能性もあります。


以上のことは、古文書に明記されているわけではありませんので、100%の断言はできないでしょうが、3分の2以上の同意が得られそうな感触です。ところで、鳳凰の駒は、中将棋や大将棋にもあり、鳳凰の駒の裏、つまり、鳳凰の成りは奔王です。ただ、このルールは、中将棋と大将棋のルールであり、摩訶大将棋では、そうでなかったと考えます(たとえば、投稿116参照)。


師子と狛犬でペア、麒麟と鳳凰でペアというのは確かと思われますので、麒麟が師子に成る以上、鳳凰が狛犬に成るというのは自然です。しかし、摩訶大将棋の鳳凰の成りは奔王、狛犬の成りは金であると、象棊纂圖部類抄には記されています。摩訶大将棋の伝承は、象棊纂圖部類抄の内容が記述された頃(最も新しくて1443年)には、もはや正しくなかったのでしょう。


摩訶大将棋から駒数を減らして大将棋が作られた際、揃っていた十二支の駒のいくつかがなくなったわけですが、同時に、3目の踊り駒がすべて取り除かれました。大将棋が考案された際、鳳凰の成り先であった狛犬がなくなったため、新しい成り先として奔王が選ばれたというわけです。


なお、狛犬は、当然、不成りであるべきです。成り先となっている駒は、成っていない駒が目指すべき到達点です。したがって、その到達点となっている駒々には、もはや「成る」という変化はあり得ません。師子(麒麟の成り先)についても、そのとおりです。師子はもとより師子であり、最後まで師子であるように、同じく狛犬もそうであるべきです。古典将棋において、その他の代表的な不成りの駒、金将、奔王、龍王、龍馬についても、不成りであることの経緯をきちんと考えてみる必要がありそうです。この件、後日にまた続けたいと思います。


2015年

1月

15日

134)興福寺と伎楽:摩訶大将棋が興福寺で作られた可能性

年末12月29日の朝に、次のテレビ番組がありました。

世界遺産・シルクロードから薬師寺へ ~1400年の時を越え甦る幻の仮面劇

http://www.bs-j.co.jp/official/yakushiji/


予想どおり、伎楽の話だったのですが、劇の内容は一部しかわからなかったです。伎楽の劇がどのようなものなのか、一度は実際の舞台を見に行かないといけません。


ところで、番組のナレーションで、「伎楽は平安時代には廃れました」というような意味のことを言っていましたが、これは正確な表現ではないでしょう。伎楽は奈良時代がピークでしたが、その後も結構長く演じられていたようです。以下のサイトに、東洋音楽学会の研究会(2013年2月)の予稿があります。興福寺では、1235年まで、44回の伎楽が演じられた旨書かれています。

http://tog.a.la9.jp/higashi/summary/sum_69_2.pdf


興福寺と東大寺は、他のお寺よりも、伎楽の廃れ方は小さかったようです。投稿108)で、摩訶大将棋と伎楽面との対応について書いていますが、そこでは、

○ 摩訶大将棋--伎楽--八部衆--興福寺

という連想ラインのことを少しだけ書きました(以降、きちんと書いていませんが、すいません)。しかし、上記のように、伎楽は、そもそもダイレクトに興福寺と関係していたのでした。伎楽面が八部衆と対応していたのも自然な話です。


どこかの投稿かコメントで書いたように思うのですが、正しいと思われることには、次々と、スピンが同じ方向を向き始め、根拠が確かなものになっていきます。十二支の駒はそういうふうでしたが、伎楽面の駒も同じ様相です。正しくない場合は、スピンは揃いません、ちらちらと自己矛盾が見えてきます。だから、正しくないことは、ある程度の思索を重ねると、正しくないということがわかります。これは、どうも、歴史学の特徴ではないでしょうか。素人がえらそうに言うのも何ですが(むしろ素人だから言えるのでしょう)。摩訶大将棋の後で大将棋ができたという件も、やはり、そうです。全部のスピンが、次々と同じ方向を向きます。だから、摩訶大将棋の先行説は、たぶん正しいのでしょう。


さて、伎楽面に対応する8つの踊り駒(師子・狛犬・金剛・力士・麒麟・鳳凰・夜叉・羅刹)のことですが、興福寺で発案されたという考えは、どうでしょうか。

摩訶大将棋--伎楽--興福寺--古代日本将棋の大本山(何しろ酔象が見つかっていますから)

という連想ラインです。まだ空想にすぎませんが、楽しめる説ではあります。本稿、原初の摩訶大将棋は興福寺で作られた、という空想を書いて、終わりにします。


予定では、教訓抄に書かれている伎楽の話のはずでした。この件、また、後日に。教訓抄は言います。力士の面が踊るとき、笛を3回吹く。3回です。金剛の面も、羅刹の面もそうです。3目踊りですねえ、といういい加減な話しをする予定でした。ただし、実は、鳳凰の面でも3回吹きます。


2 コメント

2015年

1月

04日

133)必読の資料「唐代象棋漫話」:「象棋」第11巻 p53

「唐代象棋漫話」は中国の四川省で発行されている雑誌「象棋」に掲載されている文章で、第11巻の53ページにあるそうです。この資料の信憑性はしばらく問わないとして、ともかく内容が奇抜ですので、将棋の歴史に興味を持たれている方には必読の資料ではないでしょうか。


雑誌「象棋」の入手はたぶんむずかしいですし、中国語の翻訳もしないといけませんが、この点は心配不要です。「唐代象棋漫話」の内容を紹介した日本語の記事があります。次の雑誌です。

○ 詰棋めいと 第14号(1993年) 82ページ「将棋のルーツ考」門脇芳雄

この記事には、「唐代象棋漫話」の全文も掲載されていますので、原文にきちんとあたりたい方も問題ありません。なお、「詰棋めいと」は、国立国会図書館にありますので、コピー可能です(だと思います)。

 

問題は、「唐代象棋漫話」に書かれている重要な事実の出所が不明な点です。つまり、出展が書かれていません。これについては、「将棋のルーツ考」の著者、門脇芳雄氏も、記事の最後で問題にされています。記事は、この点は問い合わせ中であり、何かわかればまた報告したいという旨の文章で終わっていました。その後、何らかの報告が記事になっているか探してみたのですが、たぶん、なかったように思います。ただ、この件、記事よりずっと後の2004年に、Webの掲示板に、原典はいまだ不明であるとの旨、投稿されていました。

 

上記Webの投稿中に、1点、とても興味深い一文があり、調査必須です。

『西安の歴史博物館で「唐代の将棋」として日本将棋に酷似した(玉の頭に不明の駒があった由)粗末な盤駒が展示されていたのを見たそうです。』

とのことです。公的な博物館で展示されていたのは事実なわけですから、この件重く見る必要があります。


前置きが長くなりすぎました。唐代象棋漫話の詳細については、記事を参照いただくとして、個人的に一番気になるのは、玄宗皇帝が楊貴妃と指した人間将棋に、香車、桂馬、銀将、金将があったという唐代象棋漫話の中の記述です。史実だとすれば、将棋伝来に関する吉備真備説を完全に裏付けてしまいます。この内容は本当なのかどうか。


真偽が不明な以上、これは、信じるか信じないかの問題でしょう。私としては、とりあえず信じてみるというスタンスです。したがって、「唐代象棋漫話」「将棋のルーツ考」も、現状、私の中では参考文献リストに並びます。なお、唐代象棋漫話は、中国の象棋についての論文であって、日本の将棋についての論文ではありません。ともあれ、原典が明らかになることを待つのみです。

 

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2015年

1月

03日

132)「長秋記」再考:将棋のどの駒を使ったのか

投稿127)では、「将棋」という語句が出てくる最古の文献「新猿楽記」について検討し、新しい注目点を提示しました。本稿はこの続きとなります。「将棋」という語句が出てくる二番目に古い文献は「長秋記」ですが、大治4年(1129年)5月20日の条に、次の記述があります。長秋記は源師時の日記です。


大治四年五月廿日丁酉、新院御方有覆物御占、覆以將棊馬、其數十二也、新院如指令占御


関連する記述だけにあたる場合、長秋記そのものよりは、古事類苑の方技部を見るのが便利で、方技部七の易占のところ、497ページ(古事類苑 方技部/普及版 吉川弘文館)にこの記述があります(なお、古事類苑のデータはWebにもあります)。

 

長秋記の上の記述は、新院(=鳥羽天皇)が覆物の占いに将棋の駒を使ったという内容です。これまでの論文や書籍での解説では、占いに12枚の駒を使ったらしい、というところまではあるのですが、説明はそれだけです。では、どういう駒を使ったのでしょう。12枚だから、十二支の駒だった可能性ということも言えなくはないのですが、それでは空想にすぎません。


そこで、再度、投稿127)で取り上げた新猿楽記の文章を吟味していただきたく思います。

占覆物者如見目、推物怪者如指掌。進退十二神將、前後三十六禽。


投稿127)では、前半部(覆物の件)と後半部(十二神將と三十六禽の件)を別の項目と考えて解釈しましたが(それも可能ですが)、ひと続きの内容を表した文章と捉えるべきでした。これは、長秋記を再検討していて気づきましたが、そうすると、ひとつのことがはっきりと表れてきます。


ひと続きの内容と見た場合、後半部は、覆物の占い方の説明となります。この部分、覆物の占いには将棋の駒を使っていたという想定です。占いのときに、十二神将の駒や三十六禽の駒を動かしていたものと思われます。なお、このような解釈は、次の2点a)b)を合わせた、3点セットからの帰結です。


a)摩訶大将棋の駒には、十二神将(十二支)や三十六禽に対応した駒がある(摩訶大将棋の駒と言わず、古代の将棋の駒と言った方がいいかも知れません)。

b)覆物の占いには将棋の駒を使う(長秋記の記述)

c)陰陽師は、覆物の占いに、十二神將や三十六禽を使う(新猿楽記の記述)


覆物の占いに、十二神将や三十六禽の駒を使ったという推理ですが、いかがでしょう。この推理には、摩訶大将棋に十二支の駒があるという事実を意識しなければなりませんし、長秋記と新猿楽記を関連させて読み解かないといけません。ただ、この件、私には、知恵の輪がするりと解けた感触があります。さらに続く関連事項もあることから、覆物の占いに、少なくとも十二支の駒は使われていたものと考えています。後日の投稿となりますが、この件、象經序(投稿129)とも関連し、象戯はどうも易占として使われていたのではないかと思っています。将棋のルーツは易経ということなのでしょうか。


ともあれ、覆物の占い云々の中で重要な点は、十二支の駒や三十六禽の駒が使われていたということです。問題となる時代は、11世紀。この頃にすでに、猛豹、飛龍、悪狼、盲虎といった動物系の駒が多数あったということになってきます。このことを、皆さん、どのように思われるでしょう。この仮説の前提となる摩訶大将棋の十二支、三十六禽の駒に異論を出されるのか、または、新猿楽記の十二神将、三十六禽の解釈に異論を出されるのか、それとも、本稿に同意いただけるのか。


本稿のストーリーでいきますと、12世紀終わり頃の二中歴の将棋を、将棋の駒の種類の出発点として考えるのは、かなり危ういでしょう。また、駒の種類と連動して将棋の種類も再考が必要となります。頼長(台記)や定家(明月記)が指した大将棋は、二中歴の大将棋なのではなく、もっと本格的な大将棋、たとえば、摩訶大将棋のような将棋であったとして、少しもおかしくないだろうと考えます。


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2015年

1月

02日

131)摩訶大将棋の未:ブログ4年目

摩訶大将棋の未
摩訶大将棋の未

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

2012年1月から本ブログを始めていますので、今年で4年目になります。摩訶大将棋の復刻も最終段階に入った感があります。もうこれで終わりだろうと思っていたら、次の新しい発見があって、また別の新しい発見があって・・・ということのくり返しでしたが、もう大きな予想外はないだろうと思います。去年の秋に仲人の動きが解明されたことは大きかったです(投稿116、投稿120を参照下さい)。残す大きな案件は奔王の問題だけと考えています。この件、活字としての原文はわかっているのですが、原本をまだ見れずにいますので、投稿できていません。今月中には、仮説だけでも投稿します。

 

それと、当初思ってもいなかったことが、この1年でわかってきました。摩訶大将棋の復刻が、将棋そのものの歴史にもある程度の関連を持っていたということです。古代のボードゲームを、古文書の層の中から発掘している感じです。この件は、摩訶大将棋の駒の中に十二支の駒が含まれていたということが発端ですが、そういう単純な対応だけに留まらず、もっと深い事実が含まれていそうです。投稿129)に書きました象經序からの発展で、この場所には貴重な埋蔵物(文献)が続々とあります。今年は、しばらくは、この件での投稿が多くなると思います。


上図は、今年の干支、未の字です。玉将のまわりに、成り駒の王子、教王、法性、伎楽面の駒を横に7つ、斜めの線は、十二支のはじめ、子丑寅の駒と金銀銅将です。つまり、天の駒、地の駒ということです。酔象-王子、提婆-教王、無明-法性、玉将-奔王、狛犬-師子、龍王-龍馬のペアを並べて置いています。最後の1駒を猛豹にしました。猛豹は、非常に重要な駒ですから。


駒を並べたかったのですが、盤も駒も研究室に置いたまま、うっかりしていました。

 

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