27)宝応象戯の伝来仮説と習書木簡の酔象

日本の将棋の起源を、8世紀の中国、宝応象戯に求める考え方は、Web上にいくつか見つけることができます。ここでは、宝応象戯の説明を抜きにして、一気に本論のみ書くことにします。宝応象戯については、2つのキーワード(宝応象戯、平安将棋)をあわせて検索してもらえればと思います。

 

25)の投稿にて、昔の桂馬の動きが、今の動きとは違うという可能性について書きました。ただ、これは不思議なことで、チェスにも象戯にもチャンギにもタイの将棋にも全部、桂馬の動きが存在するからです。

 

ところで、桂馬の動きが見当たらない将棋がひとつあり、それが宝応象戯です。また、宝応象戯は駒の名称が2文字というのも共通点で、このあたりのいろいろは、将棋の歴史(妄想)のブログにも詳細な解説があります。宝応象戯と平安将棋の関連性については、各説さまざまですが、本稿では、次の2点、想像を膨らませたいと思います。歩卒=歩兵、輜車=香車、については、完全に合致ですので、ここには異論がでません。

 

1)天馬 = 桂馬
天馬は角角越3目、桂馬は角角越2目と、若干の違いはあります。ここで注目したいのは、天馬が、今の桂馬の動きではないということです。

 

2)宝応象戯のふたつの軍の将が、玉将と酔像。
習書木簡の酔像が確かだとする場合、酔像のポジションは、王将に相当しかあり得ません。ただし、38枚の将棋(玉の上に酔像がある)ではなく、想定されるのは36枚の将棋で、一方の王将が酔像です。こう考えてみると、後に大将棋が作られたとき、酔像が成れば太子(=王将相当)というルールがあったのも、かなり自然に思えてきます。

 

というわけで、25)と26)の投稿は、宝応象戯を持ち出すことでうまく結びついてしまいました。もし、昔の象戯(今の桂馬の動きがあるはず)が日本に伝わってある程度流行したのだとすれば、平安将棋には、今の桂馬の動きがあったはずです。しかし、ありません。これは宝応象戯が物(昔の象戯)としてではなく、書物の中の話、物語としてまず伝わったからではないかと考えてみました。

 

将棋は物としてではなく、物語として伝わってきた。
本稿、このフレーズが書きたかっただけかも知れません。

 

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コメント: 4
  • #1

    長さん (水曜日, 19 9月 2012 09:24)

    日本の将棋が、隣国・朝鮮、中国で、実際遊戯されている
    ゲームを、帰国者が見よう見まねで真似て輸入し、言葉だ
    け翻訳したようなものでは無い事は、確かですね。
    チャンギやチャンシーと、平安将棋では、いろいろと相違
    点がありますからね。
    日本の将棋はその発祥に、「忘れ去られた縁起物語」が有
    る、訳有り文化じゃないのでしょうかね。

  • #2

    mizo (金曜日, 21 9月 2012 08:10)

    「天馬」の動きに関する記述は2箇所です。
    「天马斜飞度三止,」(天馬斜めに飛んで三つを超え)
    「斜去三尺,止。」(斜めに走り出して、三尺のところで止まった。)
    「玄怪録」は怪異譚で、その中の「岑順(人名)」についての章は、小人の戦争が将棋の駒の幽霊であったというのがオチになっています。他の駒の説明も同様ですが、正確に駒の動きを説明しようという意図はありません。それではネタバレになってしまいます。
    「馬」の動きも正確に説明すると実際の戦闘場面とそぐわないことになります。通常の3倍近い速さで方向も自由に進むイメージを表現していて、結果として「馬」の動きとしても矛盾しない表現だと思います。
    わざとぼかした表現がしてあるものは、根拠となり得ないように思われます。

  • #3

    T_T (金曜日, 21 9月 2012 19:05)

    mizoさんへ
    いただきましたコメントですが、むしろ元投稿の主旨の方に沿っているように思います。

    本稿では、実際の宝応象戯(昔の象戯)と、物語の中の宝応象戯が一致していなかったことが重要点だと考えています。実際の宝応象戯がきちんと伝わったとしますと、通常の桂馬の動きが日本の古代将棋にあったはずです(しかし、そうなっていません)。これは、物語の中の宝応象戯の方が強く伝わったと考えると納得がいきます。原将棋の考案者は、玄怪録の物語を読み、一方でおぼろげながら知っていた昔の象戯(しかし、きちんとは知っていなかった)をその物語の戦いに重ね合わせ、想像を膨らませたのだと思います。天馬(=桂馬)を、物語の中のとおり、ななめに飛び跳ねる駒として作りました。

    もちろん、上の考え方も想像を膨らませているわけですが、もう1点、補強材料があります。それは、象戯の駒が1文字であるのに、将棋の駒は2文字だという点です。この点も、将棋の歴史(妄想)のブログにて指摘されていたと思います。昔の象戯がそのまま伝わっていたとしますと、将棋の駒も1文字だったのではないでしょうか。歩卒が歩兵として、輜車が香車として、名前と動きがほぼ物語のとおりに、再現されています。興福寺の習書木簡の酔像の酔の字が、卆(卒と同じ)の字だったとしても、それはそれでエキサイティングではあります。物語の中の宝応象戯と、昔の象戯と、日本の古代将棋がまだ混沌としていた時代ということになります。

    将棋は物語として伝わった。果たして本当なのかどうか。

  • #4

    mizo (金曜日, 21 9月 2012 23:32)

    私はいわゆる「宝応象戯」(ゲームとして整合性を持った将棋)の存在に懐疑的で、怪異譚の材料として当時の将棋類の駒をつまみ食いして利用したと思っています。
    また、シャンチーやその仲間は、王将に当たる駒の名称が、必ず異なります。「将/帥」など。しかし、日本の将棋類には双方の王にあたる駒の名称が異なることはなかったと思います。副王にあたる「金将」が2枚駒に変化する中で、新たな副王「酔象」(瑞像)が一枚駒として創られたと、私は考えています。