今日、四條畷市立歴史民俗資料館に行ってきました。上清滝遺跡から出土の王将の駒を見るためです(他の出土品からの推定で1184年と言われています)。展示はありませんでしたが(少し前に入れ替わったとのことです)、スタッフの方にいろいろと情報いただきました。ありがとうございます!
私は、Webの情報しか見ていませんでしたので、上清滝遺跡の出土は1枚だと思っていましたが、少なくとも3枚は出ているようです。この3枚の写真が、館内に置いてある「わたしたちの四條畷」という2006年発行の本に掲載されていました。
次の点、可能性として速報したいと思います。実物の出土駒をいつ見れるのかわかりませんが、見ればはっきりとしますので、まだ見ていない時間の間は、推理・想像を楽しんでいたいと思います。投稿11)で、本横の駒を奔獏ではないかと推論したのと似た感じです。
1)王将と言われている駒は、写真では、それほど明瞭ではありません。第1印象は、石将かと思ってしまいました。
2)駒のサイズも王将にしては、細長いです。
3)表が石将だとすると、大将棋の駒ということになります。裏が奔石なら摩訶大将棋の駒なのですが、たぶん裏は無地でしょう(王将の駒とされていることからも)。
4)歩兵の駒も出ています。裏は不明です。裏を見ることができれば、大将棋の成りについての情報を得ることができます。金なのか不成りなのか。
出土駒の写真は、「わたしたちの四條畷」の本の98ページにあります。お近くの方は、是非見ていただければと思います。石将だという目でみれば、石将です(もちろん、王将だという目でみれば、王将です)。この石将、応援します。石将にまさかの脚光を。
いま体調かなり悪いのですが、これだけ書いてから寝ようと。。。
ひとつ前の投稿も速報のままですいません。
結果は出ているのですが。。。
(江戸時代後半の古文書でした。紹介のフレームワークとして象棊纂圖部類抄を使ったという感じです。この件また後日に書きます。)
コメントをお書きください
mizo (月曜日, 04 2月 2013 22:57)
『天童の将棋駒と全国遺跡出土駒』2003天童市将棋資料館の
p79の71番「上清滝遺跡」に写真があります。
確かに「石」とも読めそうです。裏は無地です。
ただ、私には王の方が自然な気がします。口の部分の右の縦棒がないと思われるからです。
歩兵の駒も同時に出土しています。こちらも裏は無地のようです。
また、両面無地の駒も出土しています。
これらのことから、出土駒は制作途中のものや失敗作であった可能性が高いと思います。
T_T (月曜日, 04 2月 2013 23:47)
コメントありがとうございます!
確かに右の縦棒はありませんが、その下の「将」の字の不正確さを考えると、その程度の間違いは許容範囲かも知れません。むしろ、王と考えたとき、真ん中の縦棒がまっすぐ下にのびているのではなく、どんどん左に伸びていることが問題点です。それと、王将の駒にしては細長すぎです。これまでに出土した玉将/王将の縦横比を計算しますと、この駒だけ特異です。
明日、学芸員の方に電話で裏がどうなっているのか聞くつもりでいました。
無地でしたか!
今日周辺に聞いてみたところでは、瓦将という意見もありましたが、裏が無地なら却下かも知れません。大将棋の「石将」だとすると、歩兵も大将棋の可能性が高く、そうすると、大将棋は、麒麟・鳳凰・酔象以外は、古文書の文面通り、不成りという可能性も出てきました。
なお、制作途中/失敗作という可能性は非常に小さいものと思われます。これまでの出土駒の中にそうした駒はほとんど見当たりませんので。失敗したら、すぐ消すか削るかしていたのではないでしょうか。
長さん (火曜日, 05 2月 2013 13:37)
写真写りの悪い出土駒も有るようですので、
実物調査の結果を期待しています。
ちなみにそれが石将だとして、その将棋駒の使
われた年が、1184年だとすると、二中歴に、
後期大将棋の記載が無いのが、ちょっと不自然
な気がしました。
なお関西はその年、源平の大合戦の渦中ですね。
のんびり、大将棋系の将棋、指せたのでしょう
か?
T_T (日曜日, 10 2月 2013 01:25)
コメントありがとうございます!
二中歴が再編集されておらず1120年代の情報と考えますと、そこから半世紀を経ていますので、特に不自然でもないかと考えています。
大将棋をする余裕の件ですが、この点は私には即答不可能です。天皇周辺や公卿の間では、結構あったのではと思います。近いところでは、後鳥羽上皇だと思いますが、源平の戦い以降、承久の乱まで争いだらけで、しかし、歌も将棋も宴会もいろいろなされていたのではないでしょうか。
長さん (火曜日, 12 2月 2013 11:32)
二中歴って鎌倉時代初期の、1210年編集じゃないのですか?
>二中歴が再編集されておらず1120年代の情報と考えますと、
>そこから半世紀を経ていますので、特に不自然でもないか
>と考えています。
T_T (金曜日, 15 2月 2013 02:36)
掌中歴と懐中歴が平安後期、二中歴の写本が鎌倉との認識です。
二中歴が、写本当時の状況にあわせて修正・編集されておらず、平安後期のままだとすると、という意味で書いています。
全く素人ですので詳しい時期のことは??なのですが。。。
もし、二中歴が写本当時の状況を表わしているのだとしますと、そもそも平安大将棋という呼ばれ方はしていないということも片隅にありました。写本の作成は鎌倉、しかし内容は平安後期、という考え方はいかがでしょうか?
長さん (金曜日, 15 2月 2013 10:51)
二中歴を写本するとき、麒麟抄の「裏金」の話じゃない
ですが、大将棋は平安大将棋だけではないという内容は、
いたずら書きしたくなる内容(「大将棋は鎌倉時代には、
いろいろ種類がある」とか)なのではないでしょうか。
個人的には、後記大将棋は鎌倉時代後期以後のように
認識しています。横行が、中央筋に有った時代のもの
くさい「奔横」駒が鎌倉時代中期と、当時の新聞記事から
個人的に認識している事もあって、後期大将棋は更に後かと。
実は、後期大将棋や摩訶大大将棋、摩訶大将棋が確立され
たのは、(適当に駒を発明して、一五×一五升目盤等に気分で
並べるのは勝手で、大将棋指しは指す毎に、別の将棋も適当
に指せた)普通唱導集大将棋時代(鎌倉末期~南北朝時代)
よりも後の、室町時代から戦国時代末期の、どこかの時代
なんじゃないんでしょうかね。
それでも従来説の中将棋並みで、相当に古い時代ですよね。