82)師子の居喰い:摩訶大将棋はなぜ指されなくなったか

師子の居喰いが、いつ作られたのかははっきりしません。ただ、師子が盤上に登場した当初から居喰いができたということはどうもなさそうです。本稿は、この点について、象棊纂圖部類抄の中将棋のところ、仲人に関する記述をもとにして考えていきます。3件の記述があります。仲人に関する記述である点、ご注意を。


1)不行傍立聖目内 成酔象 (傍に行かず、聖目の内に立つ、酔象に成る)
2)或説云居喫師子許也 仲人立聖目外

(或る説云わく居喫師子許す也、仲人は聖目の外に立つ)
3)鳳凰仲人等 行度如大象戯 (鳳凰仲人等、行度は大象戯の如し)


聖目とは、中将棋の盤面にある点のことで、上下左右4マス目、全部で4つあります。聖目の内というのは、聖目よりも中央側(左右に関して)、聖目の外というのは、聖目よりも両端側(左右に関して)のことだと解釈しています。1)は聖目の内に、2)では聖目の外に立てると書いていますので、くい違っています。このくい違いを、どう解釈すればいいでしょう。むずかしい問題ですが、ここでは、ひとまず、次のように仮定して進めていきます。何かいいアイデアあれば、お教え下さい。なお、実際の中将棋では、仲人の位置は聖目の外です。内ではありません。


解釈:仲人は、聖目の内に立てる場合と、聖目の外に立てる場合があって、もし、聖目の外に立てた場合には、師子の居喰いありというルールにする。


或説云居喫師子許也、という記述の意味は、居喰いできない師子のルールもあったということでしょう。許す、という語句から類推すると、本来は、居喰いできないと見るべきです。つまり、当初は、師子の居喰いはなかったのでしょう。この点については、上記の聖目の内外の件をどう解釈しても、成りたちそうです。


ところで、この居喰いの問題は、摩訶大将棋と中将棋の成立に関する、あとかさきか問題に関連しますし、摩訶大将棋のルールにも関連します。なぜなら、象棊纂圖部類抄には、師子の居喰いについての記述は、中将棋のところにしかないからです。摩訶大将棋のところには、師子の行度についての言及はあるのですが(狛犬の行度との対比で書かれている)、それは、不正行度の二目踊りの駒であるということだけで、居喰いについては、何も書かれていません。


もし、中将棋が先に成立していたとすれば、師子は居喰いしますから、摩訶大将棋の師子も当然、居喰い可能です。一方、摩訶大将棋が先に成立していたとすれば、師子の居喰いは、摩訶大将棋のルール次第となります。しかし、摩訶大将棋口伝には、居喰いのことが一言もなく、こんな特殊なルールが口伝されないはずもないでしょうから、居喰いはなかったと考えるのが妥当です。とすれば、後になって、中将棋の師子のルールで、「或説云居喫師子許也」が出てきたのも納得がいくのです。


駒の機能の進化過程を考えると、師子という踊り駒が、はじめに師子ひとつだけで出現したということは、考えにくいのではないでしょうか。不正行度の踊り駒(師子)が出た時点で、ふつうの踊り駒(正行度の踊り駒)も出現していたと考えるのが妥当でしょう。師子の出現が中将棋からであったとする説(=中将棋の成立が大将棋や摩訶大将棋よりも前であるとする説)には、この点からも、何らかの補足説明が必要だと思われます。師子の不正行度2目踊りは、少なくとも、飛龍、猛牛の正行度2目踊りとともに出現した方が自然です。この件と関連して、師子と狛犬が同時に出現したという可能性にも言及すべきですが、後日にまわすことにします。なお、上記3)の「行度如大象戯」という記述は、大将棋が中将棋よりも先行したということを表しているものと言えそうです。


本稿、摩訶大将棋の復刻の問題に関連し、非常に重要です。摩訶大将棋の師子に居喰いはなかったかも知れません。今、私が指している摩訶大将棋は、師子と狛犬の居喰いがルールに組み込まれています(象棊纂圖部類抄にあるとおり、2駒の同時居喰いも可能です)。そして、もし、このルールをはずすと、摩訶大将棋が少し面白くなくなるのは確かでしょう。復刻と対局を、別問題にしなければならないかも知れません。つまり、昔のとおり復刻した摩訶大将棋を味わうか、または、面白くした現代摩訶大将棋を指すか、ということです。


もちろんまだまだ検討余地ありですが、摩訶大将棋のひとつの疑問が解けるのかも知れません。摩訶大将棋は、なぜ、指されなくなったのだろうかという疑問です。摩訶大将棋を実際に指してみると、これはもうはっきりとわかるのですが、とても面白い将棋なわけです。そんな面白い将棋が、後世にまで残らなかった、なぜだろう、これは私には大きな謎でした。

 

駒数の問題ではないことは確かです。たぶんルールの問題でしょう。中将棋が出現し、その中で、師子の居喰いルールが現れ、中将棋の時代となったわけですが、そのころには、もう摩訶大将棋は口伝だけの存在になっていたということです。もし、居喰い師子狛犬の摩訶大将棋がはじめからあったのだとしたら、どうなっていたでしょう。

 

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コメント: 7
  • #1

    mizo (日曜日, 12 1月 2014 17:01)

    象棊纂圖部類抄の中将棋の図の後の説明、私には、よく分かりません
    1)不行傍立聖目内 成酔象
    (傍に行かず、聖目の内に立つ、酔象に成る)
    説明に先立つ図では、仲人は聖目の外に立っています。現在の中将棋もそうです。一つ内側に入ると龍馬・角行・龍王の行く道の邪魔になるのであり得ないと思います。
    聖目の解釈について間違いがある可能性もあります。横行が反車香車の邪魔をしているように、わざと邪魔な配置にしようとした可能性もあります。
    2)或説云居喫師子許也 仲人立聖目外
    (或る説云わく居喫師子許す也、仲人は聖目の外に立つ)
    「或説云」というのは、異説を述べる場合だと思います。「居喫師子許也」は他に居喫が許されている飛鷲・角鷹の居喫を否定する文でしょうか。
    3)鳳凰仲人等 行度如大象戯 (鳳凰仲人等、行度は大象戯の如し)
    中将棋に先立って大将棋があったという説は、普通唱導集により定説になっています。それを裏付けていると考えられます。

    私は、普通唱導集の大将棋は、130枚の「大将棋」ではなく、飛車が最強の大将棋「普通唱導集大将棋」(成りは金成りのみ、金将より明らかに強い駒はなし)であったと考えています。

    今、気づきましたが拙案「普通唱導集大将棋」に麒麟鳳凰を入れていませんでしたが、入れた方が良いことが分かりました!獅子・奔王・龍王・龍馬の4枚(明らかに金将より強い)は中将棋で加わったとして別にすると、小将棋と中将棋を比較したときの増加駒は、最強「鳳凰」最弱「仲人」になります!
    鳳凰から仲人までの(普通唱導集)大将棋にある駒の動きは(普通唱導集)大将棋と同じであるという記述だと思います。

  • #2

    長さん (水曜日, 15 1月 2014 15:52)

    「1)不行傍立聖目内」は、私にも良く判りません。
    横へ行けないので、「星」の列線を越えて、中央筋の戦いに、
    中将棋の仲人は、参戦できないと言いたいのでしょうかね。

  • #3

    T_T (木曜日, 16 1月 2014 11:31)

    mizoさんへ
    コメントありがとうございます!

    鳳凰仲人等 行度如大象戯
    の件ですが、象棊纂圖部類抄には大象戯の内容も書かれています。ですので、その書物内で、大象戯と書けば、これは明らかに、その書物に書かれている大象戯のことで、他の大将棋を指しているとは考えにくいのではないでしょうか。もし、象棊纂圖部類抄の原本の著者が、他の大将棋を想定して、そのように書いたのだとすれば、誤解を呼ぶ、よくない文章ということになります。

    それと、普通唱導集は1300年前後の成立ですので、年代のことを考えると、どうも記述内容が古いようです。または、すべてを表現していないかもです。唱導集で言っている大将棋は、象棊纂圖部類抄の大将棋のことかも知れません。その時代には、もう、大将棋も摩訶大将棋もできていたでしょうし。ただ、中将棋ができていたかどうかは不明です。1300年前後に中将棋が成立していたことを感じさせる資料はありますでしょうか。日記にも、まだ中将棋という言葉は出てきません。

  • #4

    T_T (木曜日, 16 1月 2014 11:43)

    長さんへ
    コメントありがとうございます!

    仲人に何か別のルールがあった可能性もあるかなと考えていますが、現状、材料不足です。単なる普通の歩き駒、仲人にだけ、なぜこのように注釈が多くなされているのか、ということが気になります。他の駒で触れられているのは、飛鷲、角鷹の動き、師子の2駒同時居喰い、鳳凰と飛龍の違い(踊りと越しの違い)と言った複雑なことばかりです。

    不行傍、という書き方だと、仲人は横に動けないと解釈せざるを得ません。しかし、もし、仲人の横には、どの駒も移動できないと書きたかったのだとしたら、、、と考えてしまいます。

    このような現代風ボードゲームのルールは、将棋には似合わないですが、仲人(仲裁をする人)という名前のことを考えると、仲人のまわりで戦いは起こらない、とルールしていいのでは。復刻とは別の問題となりますが。

  • #5

    mizo (金曜日, 17 1月 2014 23:20)

    鳳凰仲人等 行度如大象戯 の件
    「その書物に書かれている大象戯のこと」
    一般論としてはその通りだと思います。しかし、なぜ「鳳凰仲人等」という表現がでるのでしょうか。
    象棊纂圖部類抄の中象戯の図は、駒の動きを成りを含めてすべて動きを表示しています。次の大象戯では、「奔王」「師子」「麒麟」「鳳凰」「醉象」「玉将」は解説済みとして表示がありません。
    私は、象棊纂圖部類抄は一度に書き上げられた物ではなく,各種資料をまとめた物だと思います。まとめる段階で編集が行われたと思いますが,元の文がそのまま残っているため、つじつまの合わない点があるのだと考えています。
    普通唱導集にあらわれる大将棋をもとにして中将棋が創られたとすると、(中象戯の)鳳凰仲人等の行度が(普通唱導集)の大将棋と同じだという説明は合理的だと思われるというのが,私の考えです。
    通説ですが、普通唱導集には「大将棋」「小将棋」しかなく、「中将棋」はその後に創られたということになっています。
    私は、普通唱導集の大将棋に中将棋の駒を取り入れて、現在に伝わる「大将棋」が創られたと考えています。そして「摩訶大大将棋」「大大将棋」「泰将棋」の順で駒が追加され駒の能力が拡大したと考えています。
    単純な物から複雑な物へと変化するのが遊戯の発達史として普遍的だと思います。複雑な物が突如出現し、簡略化していくという流れはあり得ないと思います。

  • #6

    T_T (土曜日, 18 1月 2014 13:36)

    コメントありがとうございます!

    象棊纂圖部類抄の原本は、各種将棋の資料の内容を合わせたものという解釈、了解いたしました。そのように考えれば、「行度如大象戯」の大象戯が、象棊纂圖部類抄にある大象戯ではないという考え方もあり得るかと思います。

    ただ、象棊纂圖部類抄の序文を読みますと、その格調の高さが伝わってきます。最後の方は、このままにしておくと、将棋が後世に伝わらなくなってしまう、自分が知る限りを書き留めておかねばと、そういう思いの篭った文面です。現状、個人的には、原本は、やはり、ひとりの人物が全部を書き連ねたものではと思っています。

    ある将棋については、全面的に別の書物の記述に頼ったとして、前後の関連を気に留めず、そのまま書き写すのかどうか。仮に、中将棋の箇所が、別の資料からだったとしましょう。そうだったとしても、原本の著者は、「行度如大象戯」を、そのすぐ後に書く、大象戯のことだと考えていたのだろうと思います。しかし、その著者の考えは間違いだった、そうでなく、行度如大象戯の大象戯は、実は、普通唱導集の大将棋のことだったと、そういうこともあり得るでしょう。

    さて、そのような場合、私はもう諦めざるを得ません。まだ十分に大型将棋の余韻が残っていた中世の時代、大型将棋のことを知る人物がいて、しかし、その人の考えは間違っていた、ということになるからです。

  • #7

    T_T (土曜日, 18 1月 2014 13:49)


    #5のmizoさんのコメントに対して、あと1点ですが、遊戯の発達は、「単純な物から複雑な物へと変化する」、これは、私もそのように思います。「複雑な物が突如出現し、簡略化していくという流れ」、これも考えにくいです。

    しかし、いろいろな点で(最近、いろいろ続けて投稿している点なのですが)、大型将棋については、この一般則がどうも当てはまらないかも知れません。つまり、摩訶大将棋先行説は、一般則にはないケースのようです。

    ですので、たとえば、師子と狛犬は同時に導入されたはず、とか、19マスなので囲碁版をそのまま転用したのだろう、とか、そういう思い込みだけでは、とても通用しないと考えています。それで、多少とも客観的なデータとして、王子と太子の件(投稿83)、飛鷲と角鷹の件(投稿77)、踊りの件(投稿76)、駒の重なり分布(投稿79)等、いろいろなアプローチを試みています。そして、そうしたデータは、いつも摩訶大将棋先行の方に傾くのです(データの解釈に一部、主観が入っているでしょうが)。