100)八道行成(再考):酔象と猛豹

クリエイターEXPO東京の中で、摩訶大将棋のふとしたやり取りがありました。それを言われた方は、何を意図することもなくだったのでしょうが、後で思い返してみるにつけ、私には、八道行成の大きなヒントに思えて仕方ありません。本稿、この件について書きます。ただし、根拠はなく単なる感想です。

 

八道行成は、将棋の駒を使うには違いないのですが、いわゆる将棋という遊びではなかったかも知れません。この筋書を、クリエイターEXPOの最中、ずっと考えていました。八道行成には、酔象がいただろうか、猛豹もいたのだろうかということについてです。

 

この件、ともあれ、週末に試さなければです。今思っているゲームシナリオで、これで八道行成が果たしてゲームとして成立するのかどうかということです。

 

こちらには、8枚の歩兵の列と、その後ろに、香車、桂馬、銀将、玉将、金将の列が並んでいます。向こう側(敵陣)の端、中央には、酔象と猛豹の2枚が並びます。この2枚をとれば勝ちとなります。1枚を仕留めれば勝ちというのが十六むさしですが、古文書に記載されているとおり、八道行成を十六むさしとよく似た形のものとして想定してみました。八道行成は、酔象と猛豹という恐ろしい2枚を仕留めるゲームではないかという案です。

 

敵陣(端から2列目を想定)に行けば、歩、香、桂、銀は金になります。後ろに行けない酔象と、横に行けない猛豹を、後ろにも横にも行ける金で追い詰めるゲームというわけです。はじめから金で追ってもいいわけですが、八道行成の「行成」というネーミングも取り入れないといけません。

 

ところで、ここからが本論となります。興福寺の駒(1058年と1098年)は、本当に小将棋の駒だったのでしょうか、という点です。仮に八道行成のルールが不明だったとしても、八道行成が将棋の駒を使うものだったとして、しかし、いわゆる将棋ではなく、十六むさしと類似のボードゲームだったとしたら、どうなのでしょう。

 

玉将の上に酔象がいる小将棋が、すでに平安時代にあったのだということが、なかなか考えづらいのです。それならば、むしろ、投稿95)のように、敵の玉を酔象と考えるか、または、本稿のように八道行成のようなボードゲームを想定するかということになっている次第です。

 

ひとまずは、1058年の習書木簡にもどらないといけません。はじめて酔象の字が発見さられたのが、この習書木簡です。ここに、猛豹という文字は出てこないのかどうか、これは確認してみる価値がありそうです。吉備真備説を追っている手前、大江匡房の言葉も重要視しています。そこでは、酔象と猛豹がペアで現れます。このペアの2駒を、ただ将棋の中の2駒とみるのではなく、もっと特別な2駒として、たとえば、上記したような八道行成のゲームの中の酔象と猛豹のような存在としてとらえています。

 

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コメント: 12
  • #1

    mizo (水曜日, 09 7月 2014 06:56)

    八道行成は中国だけでなく朝鮮でも遊ばれていたようです。
    「子ども観に関する比較教育文化的考察」(全ミン楽)からの孫引きです。「韓国古典名誉精選4『士小節』(1775)」(明文堂、ソウル1987)
    p312より
    「象戯圍碁,隻六骨牌,紙牌擲柶,意銭従政圓,擲石毬,八道行成」が子供に禁ずべきものとして挙げられています。(従政圓は従卿圖の読み取りミス?)
    日本の八道行成が独自のものであったという想定は、やや苦しいかと思います。

  • #2

    長さん (水曜日, 09 7月 2014 16:37)

    奈良で現実に既に出土が確認されている五角形駒「醉象」については、それが、竜王や竜馬に成る飛車及び角行が、どう見ても存在しない時代の物であるという点で、奇怪、ですらあると、私は思います。

  • #3

    mizo (水曜日, 09 7月 2014 16:56)

    「醉象」というと、中将棋以降の「太子」成りの駒のイメージが強いので、「竜王や竜馬に成る飛車及び角行が、どう見ても存在しない時代の物」に違和感を感じられるのだと思います。
    不成りの「醉象」が12世紀の興福寺で単独で創案されたとすれば問題はないと思います。(「醉象」は仏典からで、大将棋の「盲虎」「猛豹」「悪狼」「猫又」とは経歴が違うと思います。)

  • #4

    長さん (木曜日, 10 7月 2014 08:27)

    mizoさん。コメントありがとうございます。中将棋ではなくて、朝倉小将棋を、私は強く意識しています。

  • #5

    T_T (木曜日, 10 7月 2014 12:35)

    mizoさんへ(コメント#1に)
    コメントありがとうございます。

    ただ、なぜそのようなご指摘がでるのかよくわかりません。本稿、和名類聚抄(938年)の八道行成についてですが、引用されているのは、それより800年以上後の韓国の文献。そこに、八道行成の記載があるので、八道行成は、日本独自ではないとのご意見で、なぜでしょうか。

    それと、中国の文献の方ですが、これの調査にはかなり時間がかかりますので、のんびりとやっています。牽道八道行城という単語が、奈良時代以前から出現しています。「行城」という言い回しが、シャンチーを想起させますし、八道行成と将棋に関連する何かとの関係性も見せてくれています。

    ともあれ、八道行成が、将棋類であっても、将棋の駒を使うボードゲームであっても、いずれにせよ、早い方の伝来に目を向けて悪くないはずです。

  • #6

    T_T (木曜日, 10 7月 2014 12:45)

    長さん、mizoさんへ(コメント#2~#4に)
    コメントありがとうございます。

    出土した1098年の酔象の裏が王子でしたら、小将棋の駒だったのかと、多少は納得できますが、この酔象はそうではありません。この場合、酔象の裏を玉将相当にまでランクアップした理由が、かなり絞られるだろうと考えたわけです。つまり、酔象は、十六むさし的なボードゲームの敵将(本稿)か、相手の玉将の名前が酔象(投稿95)かと考えたわけです。

    象棊纂圖部類抄に一覧されている将棋は、ある時代の将棋一覧ではなく、将棋の時間的な発展を見渡しているわけですが、そうすると、酔象が、将棋黎明期の早い時期に出るのは、やはり、不自然な感じが大いにします。その不自然さを受け入れ、早々に酔象入りの将棋があったと考えるのも、それはそれでいいわけですが、それよりは、たとえば、ボードゲームの酔象として使われていたと、そう考えるのはどうでしょうか、というのが本稿の主旨です。

    思い切った書き方をしますと、興福寺の駒は、将棋の駒ではなく、八道行成というボードゲームの駒だったという案はどうでしょうかということになります。

  • #7

    長さん (木曜日, 10 7月 2014 14:27)

    高見先生
    #6で御回答どうもありがとうございました。コメントを頂き改めて、興福寺出土駒の画像を見てみました。将棋用には、違いないんじゃないでしょうかね。この醉象も五角形駒ですし。確かにこの醉象駒は、裏が太子では無いので、朝倉小将棋用には、少なくとも使いづらい事は、確かだと私は思いますが。ただしどんな将棋に使うのかは、平安小将棋には、醉象は不要なはずな為、「基本的に謎」と見ます。
    「応用的見解」としては、興福寺の出土駒の場合、駒の種類によって、大きさを極端に変えていない事から、そもそもここで出土する駒は、「将棋のルールを作るための研究用の駒」だったのかもしれないという、大胆な想像を今しています。玉将、金将、銀将、兵、象、馬、車、という7種の、作者(達)がその当時知っていた、チャトランガ系ボードゲームの素材を使って、「小将棋」を調整する現場が、西暦1098年時点での、興福寺そのものっていうのは、どうでしょうかね。銀のイメージと象のイメージとを比べて、いろいろ試してみたが、結局、象は余分で、小将棋の駒は6種で良いので、醉象は二中歴以前に無くなり、のちの平安小将棋が、じょじょにこうした研究課程から、確定していったとか言う仮説です。興福寺が、将棋の歴史になんらかのかかわりのある藤原氏、たとえば藤原道長の菩提寺系ですしね。
    なお蛇足ですが、銀・桂馬・歩兵(香車は未出土)の成りの「金(将)」の字の崩し方を見てみると、聞いているほどには、差を付けていないように私には感じられました。西暦1098年時点の興福寺の「試作ゲーム」では、取り捨てルールだったんじゃないんでしょうかねぇ。ついでながら、玉将の裏が「成将」とも読める駒が有りますが、こんな駒を作るのは、成りのルールを調整しているときの行為であると、経験上、私は思います。「玉将」が、敵陣に入った時、「自在王」にでもしてみて、試した跡ですかね。この方向での「ルール改善」は、当然失敗だったはずですが。

  • #8

    mizo (金曜日, 11 7月 2014 00:00)

    「和名類聚抄」に読み方があることから、「八道行成」が中国伝来のゲームであることは定説だと思います。「狐と鵞鳥」のゲームの仲間だといわれています。駒に能力の差がある点が将棋に通じるという意見を述べ、将棋は敵味方で同じ能力の駒を同じ数ずつ持つ(名称・配置は異なる場合がある)ので、関係がないと増川先生に指摘されました。一方が強力な駒を持ち、他方が弱い駒を多数持つというゲームです。駒は2種類以外は考えにくいと思います。
    また、自陣敵陣の向きがないので、五角形の将棋駒の必然性はないと思います。陰陽道でも将棋型はあり得ないと思います。正五角形となると話は違います。

  • #9

    T_T (金曜日, 11 7月 2014 02:42)

    長さんへ(#7)
    コメントありがとうございます!

    試作段階の駒ということですか。否定はできないわけですが、確率的には非常に小さいものとなります。

    つまり、将棋という確定したゲームで使われた駒の数と、試作で作られた駒の数を比べたとき、前者の方が圧倒的に多いだろうからです。ですので、出土して見つかる可能性も前者が圧倒的に高く、しかし、現実は、試作の方が見つかってしまったというケースなわけですよね。

    将棋の駒だけれども、「将棋」以外のゲームで使ったという考え方は、不自然でしょうか。将棋という言葉の初出である新猿楽記には、囲基、雙六、将碁、弾碁という順番で並んでいますが、本来の将棋という遊びであれば、むしろ囲碁の方に並べて置くべきところ、弾碁(=おはじき)の方に並べられています。もう少し軽いゲームだった可能性もあるのではないでしょうか。

    新猿楽記は、興福寺の出土駒とほぼ同時代の書物ですが、その150年ほど後の普通唱導集には、囲碁、小将棋、大将棋、双六の順に並びます。こちらの並びなら納得がいきます。つまり、この頃にはすでに囲碁と同様の頭脳スポーツ的な本来の将棋になっていたのでしょう。

  • #10

    T_T (金曜日, 11 7月 2014 02:59)

    mizoさんへ(#8)
    コメントありがとうございます!

    中国の八道行城については、調査中ですので私からはまだ何も言えませんが、狐と鵞鳥に似たゲームだという定説は誰が書かれているのでしょう。中国古代の文献では、縦横8マスであること、西域の遊びであること、だけしか書かれていないように思われます。

    もし、古代中国の文献から確定しているのであれば、和名類聚抄の記述が不明であることが、むしろ不思議に思います。

    八道行成は、将棋とは別系統のゲームであり、発展して将棋になったとは想定していません。将棋発祥はまだぼんやりしたままですが、陰陽道説に基づいて思索している状態です。伝来は8世紀でも、表の社会に出現していない時期が長かったのだろうという考え方で今はいます。ツールとしての将棋の駒だけが表に出て来ていた時代、それが、10世紀、11世紀で、興福寺の酔象の時代も、まだ、何か別のボードゲームとして遊ばれていたというアイデアでいろいろ追っています。

    2種類の駒以外が考えにくい理由、何かありますでしょうか。たとえば、並べ方はともかくとして、敵が酔象と猛豹、こちらは多数の金将でうまくいくように思うのですが。

    酔象と猛豹の死角(後ろと横)を、後ろも横も動ける金将で攻める。この件、成立するかどうかは来週に確認してみます。

  • #11

    mizo (金曜日, 11 7月 2014 06:12)

    「狐と鵞鳥」について
    盤上遊戯(ものと人間の文化史29)増川宏一1978
    Ⅳ盤上遊戯の種類4包囲ゲーム
    p147
    「わが国で古代から遊ばれていた包囲ゲームは、八道行成(やすかり)とよばれているが、…」
    p150
    「狐と鵞鳥 ヨーロッパで最も有名な包囲ゲームは<狐と鵞鳥>と呼ばれ…」
    >8
    「狐と鵞鳥」のゲームの仲間だといわれています。

    誤解を招く表現でした。八道行成は包囲ゲームの仲間だというところを、包囲ゲームという言葉が一般的でないと判断し、現在も遊ばれ内容に疑いがない「狐と鵞鳥」をその代表として選びました。
    なお、線上を駒が動くのも特徴で、将棋類とは異質です。(シャンチーは囲碁の影響で変化)

  • #12

    T_T (金曜日, 11 7月 2014 12:15)

    情報ありがとうございます!

    手元にありませんので、早々に確認してみます。
    ひとつの書籍にそのように書かれていたということよりも、著者がなぜそのように結論づけたのかという点が、問題となります。古代のことですので、結局は、古文書だけが頼りですが、参考文献として、どの古文書が引用されているのでしょう。

    日本の古文書を調べる限り、今のところ、八道行成がどういう遊びであったか、私が調べた範囲では、確かな記述はどこにもありません。日本では、和名類聚抄の記載が最古のものだと思いますが、そこでは、八道行成の説明に涅槃経の一節が引かれているだけ、何らかの遊びであることはわかりますが、それ以上のことは何もわかりません。

    なお、和名類聚抄の記載は、以下の涅槃経の一部と完全に一致しています(pdf中を八道行成で検索)。
    http://enlight.lib.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-MAG/mag201337.pdf