106)なぜ家の外で対局しないのか:日記に残る大将棋

投稿15)にて一度取り上げましたが、次の文献は、大型将棋のことを考える上でとても大きなキーポイントを提起しています。

 

大下博昭、中世日本における将棋とその変遷

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN10113157/nk_14_23.pdf

 

この論文に、次の3点が指摘されています。

1)14世紀までの将棋の対局形態は、それ以降のものとは大きく異なる。

2)14世紀までの将棋は、多くが、家の中の者だけで行われた。また、

多くの対局は天皇あるいはお殿様のリクエストがあって行われている。

3)天皇あるいはお殿様は、対局をするのではなく、対局を見るだけである。

 

投稿15)の頃には、まだ、陰陽道のことは全く考えていませんでしたが、「遊戯だけの目的としてはなかなか説明がむずかしい」と自分でも書いていたようで、しかし、それ以上は考えが発展しなかったのでしょう。

 

現状ですが、個人的には、もうはっきりとしたひとつの回答が出たという感じでいます。つまり、中世のはじめ、この頃の将棋は、純粋な遊戯というのではなく、呪術だったという答えです。少なくとも、摩訶大将棋は呪術だったと思われます。

 

この答えは、今後いろいろな場で発表されて、叩かれなければなりません。それを経て、賛同を得るのか、不合理な点が見つかり引き下げるのかということになります。実験物理学のデータを追試するような感じと考えています。

 

将棋の歴史研究家の皆様、上に挙げた1)~3)の事実をどのように解釈されるのでしょうか。それぞれの方が、一家言お持ちだと思います。

 

この話題、少しの文章で説明することはできませんし、呪術という言葉もあいまいです。古代/中世の将棋と呪術、と言った場合の、呪術の意味する範囲ですが、あまり限定することも無理で、占いやおまじない、お祝いまでを含んだ広範囲な意味を想定しています。そういう内容の神事ととらえています。

 

上記の指摘1)で、対局形態が変わったのは、将棋が、純粋な遊戯になったからだろうと考えます。ただ、それまでの将棋が、遊戯ではなかった、というわけではありません。将棋が呪術であるためには、将棋が面白い遊戯でもあることが必要です。

 

この件、まだまだ長いです。なぜなら、同時に考えなければならないのが、遊戯とは何か、ということだからです。遊戯とは何か、次の投稿になりますが、そもそも、後世で遊戯と言われているものは、元は呪術であったり神事であったものが、非常に多いのです。このことを、全世界的なスケールで考える気にはなりませんが、独自の陰陽道を持つに至った平安、鎌倉の日本の中だけで考えると、はっきりとしています。

 

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コメント: 4
  • #1

    mizo (土曜日, 23 8月 2014 21:03)

    将棋の歴史研究家ではありませんが、将棋の歴史愛好家の一人として
    1)14世紀までの将棋の対局形態は、それ以降のものとは大きく異なる。
    2)14世紀までの将棋は、多くが、家の中の者だけで行われた。また、多くの対局は天皇あるいはお殿様のリクエストがあって行われている。
    3)天皇あるいはお殿様は、対局をするのではなく、対局を見るだけである。
    以上の結論は、史料の偏りによると思われます。14世紀までと後で異なる史料が使われています。また、記録に残されたものと残されないものの違いを考える必要があると思います。天覧試合は必ず記録に残りますが、通常の暇つぶしは記録の価値なしと考えられるからです。また、将棋を楽しんだのは、貴族や上級僧だけではありません。鳥獣戯画の絵画資料には、屋外で子供(遊女?)と下級僧が将棋を指している図があります。貴族の屋敷で働く者や寺院の下級僧は、自由に文字を操ることはできなくても、将棋を楽しむ程度はできたと思われます。(坂田三吉翁の例)

  • #2

    T_T (日曜日, 24 8月 2014 17:03)

    mizoさんへ
    コメントありがとうございます!

    鳥獣戯画の将棋らしきものですが、将棋ではなかったのではと考えています。それは将棋という名称で呼ばれていたかも知れませんが、将棋とは違う別のゲームだったというシナリオです。この件、現状ではまだ何とも言えませんので、その傍証を探しています(というよりも、偶然に傍証と出くわすのを気長に待っているという感じです)。

    史料の件ですが、平安、鎌倉、室町と時代をまたいでいますので、史料が異なるのは仕方ないのではないでしょうか。それと、将棋は遊ばれていたけれども、記録には残らなかったという可能性もかなり小さいかと考えます。公卿たちは全く指さない、しかし、公卿の家に出入りしている人は指していた、そういう状況があり得るだろうかということです。

    大下氏が指摘されている、2)と3)が14世紀までの将棋の特徴です。まず、これを認めた上で、話しを進めるかどうかですが、mizoさんは、この特徴をよしとはされていないのでしょうか。

    仮に将棋が遊戯だったとすれば、天皇のリクエストとは別に、公卿同士が指すだろうと考えます。そして、日記にも一般事例の記述として残るでしょう。しかし、日記にはそういう記述がありません。将棋は遊戯以外の何らかの要素を持っていただろうと考える理由です。

  • #3

    mizo (日曜日, 24 8月 2014 21:38)

    私の想定は、貴族でない人々は「小将棋」を楽しんでいたというものです。出土駒も「小将棋」のものでない駒は、ほとんど出土していません。貴族の日記には、残るはずがないものです。
    公卿たちは「中将棋」を楽しんでいたと思われます。増川先生のご研究では「中将棋」の方が公家の日記に多いそうです。私は取り捨ての大将棋系列自体が、庶民との差別化のために開発されたと考えています。(木村先生のように将棋の普及に伴う熟練化がおこり、上級者がより高度の物を求めて大将棋を開発したとすると、渡来から大将棋までが短すぎます)
    階層により楽しんだ将棋が異なると思います。最近「中将棋迷人戦」を見学いたしましたが、2時間近くかかる将棋と高価な駒を、貴族・上級僧以外の人々が楽しんだとは想像できません。
    大下先生のご研究も公家社会と将棋類ということでしたら可能性があると思います。将棋一般の歴史ではないと思います。

  • #4

    長さん (月曜日, 25 8月 2014 11:55)

    単純に、中将棋に比べて、平安大将棋~奔横入り大将棋~普通唱導集大将棋の系統は、序盤以降は盛り上がらない為、棋士が無理やりリクエストされなければ自発的に指さないためだと思っていました。なお別の所に書いたように個人的に、摩訶大将棋は、西暦1400年には無かったと思っています。なお、大下博昭先生の論は、大将棋~中将棋系列を見ていると、私も思います。たとえば持ち駒制小将棋は、調査した文書を作れる、資料の棋士は余り指していない。