鳥獣戯画と後白河上皇と将棋のことを今日は書く予定でいましたが、その前に、一点、狛犬のことをきちんと書いておかねばと思いましたので、まず、この件を投稿します。狛犬の起源や歴史については、次の2文献でいかがでしょうか。全体像をひととおり見渡すことができると思います。
「狛犬事典」、上杉千郷(戎光祥出版、366ページ、2001年11月)
「獅子と狛犬」、MIHO MUSEUM(青幻舎、304ページ、2014年9月)
将棋の歴史を考える上で、狛犬は非常に重要です。大きな手がかりとなるのは、狛犬の駒が摩訶大将棋にはあるのに、中将棋と大将棋にはないという点です。摩訶大将棋は狛犬と師子の両方の駒を含みますが、中将棋と大将棋には、師子の駒だけしかありません。ところで、古代日本では、狛犬と師子はいつも対になって現れます(この件については、上記の文献を参照下さい。詳しく解説されています)。ですので、師子だけがあって狛犬がないという中将棋と大将棋の形は、かなり不自然ということになります。
ただ、この不自然さは、中将棋や大将棋が摩訶大将棋をもとにして作られた将棋だと考えれば、特に問題はありません。摩訶大将棋から駒数を減らした将棋が大将棋/中将棋だと考えるのです。摩訶大将棋(片側96駒・50種類)から31駒を除いた将棋が大将棋(片側65駒・29種類)であり、さらに19駒を除けば、中将棋(片側46駒・21種類)ができ上がります。この進化の過程で新しく追加された駒はなく、大将棋/中将棋の駒は、すべて、摩訶大将棋にある駒ばかりです。つまり、大将棋/中将棋の師子は、その成立時に師子だけが導入された(狛犬を入れず師子だけが入った)のではなく、摩訶大将棋では揃っていた狛犬と師子のうち、狛犬が除かれた結果、師子だけが残ったと見た方がいいでしょう。狛犬と師子が将棋に導入された当初は、当然、狛犬と師子の駒がペアになって入っていたはずです。その将棋のひとつが摩訶大将棋だったのでしょう。
古典将棋が、原初に存在した摩訶大将棋から、大将棋、中将棋へと駒数を減らしつつ発展していったという点は、狛犬に注目する以外にも、たとえば、十二支に対応した駒に注目することからも類推できます。摩訶大将棋には、十二支の駒がほぼ揃っているのですが、大将棋には、十二支の駒のうち6枚だけしか含まれていません。これは、摩訶大将棋にあった十二支の駒の一部が除かれて、大将棋ができたということの現れです。十二支の駒の一部を含む大将棋がもともとあり、その後に完成した摩訶大将棋でやっと十二支の駒が揃ったというのはおかしいでしょう。なお、摩訶大将棋にある十二支の駒の話しは、投稿105や投稿127に書いています。また、狛犬と師子の話も、これまでにも、本ブログの所々に書いていますので、本稿、これ以降が本題となります。
ところで、狛犬と師子がいつもペアで現れるという件ですが、これは、古代の日本において、そうだったということです。現代においては、神社やお寺の前に左右に並ぶのは師子ではなく狛犬ですし、お祓いで舞うのは獅子舞だけなのですが、古代においては、師子と狛犬が一体ずつ左右に並び、舞うのは師子舞と狛犬舞の両方です。ですので、将棋の黎明期、古代の日本では、狛犬と師子は切り離して考えることはできません。なお、狛犬と師子の相違点は、目立つ点では、口の開きの阿吽と角の有無ですが、詳しくは文献を参照下さい。
さて、狛犬と師子の起源なのですが、この点はまだ確定していないようです。まず師子舞と狛犬舞があり、続いて、置物としての師子と狛犬が出現したという説の方が多数派でしょうか。右図に、摩訶大将棋の狛犬と師子の初期配置を示しました。図は玉将とその上に並ぶ5駒です。狛犬と師子は、左右に並ぶのではなく、縦に前後に並んでいます。平安時代、天皇の行幸の折、その行列の先頭を、道祓いの狛犬舞と師子舞が舞っていました。たとえば、枕草子にも、その記述が次のように現れます。
還らせ給ふ御輿の先に、獅子、狛犬など舞ひ、あはれさる事のあらむ、時鳥うち鳴き、頃のほどさへ似るものなかりけむかし。(第208段)
おはしまし着きたれば、大門のもとに、高麗、唐土の楽して、獅子、狛犬をどり舞ひ、乱声の音、鼓の声にものもおぼえず。(第262段)
摩訶大将棋の狛犬と師子は、置物として左右に並ぶ狛犬と師子のイメージではなく、行幸の列の前にいる狛犬舞と師子舞ではなかったかと考えます。もし、摩訶大将棋のクリエイターが、神社の師子と狛犬をイメージして、駒を創作したのだとすれば、師子と狛犬の駒は左右に並んでいたはずだからです。しかし、摩訶大将棋はそうではない。このことは、摩訶大将棋の成立時期も規定することになるでしょう。狛犬と師子が方々の神社に現れ始めた鎌倉時代ではなく、まだ狛犬舞が舞われていた平安時代が濃厚です。
狛犬舞は、舞楽の舞ですから、田楽や猿楽よりも前の時代の話です。狛犬舞は現代には伝わっていませんが、果たしていつ頃消えてしまったのか。ともあれ、摩訶大将棋の起源は、またしても古い方向へと傾きます。本ブログにて何度も繰り返していますように、摩訶大将棋に現れる伎楽面の駒(=踊り駒)の、その伎楽の時代へと近づいてきました。また、このことは、摩訶大将棋が、小将棋、大将棋、摩訶大将棋とどんどんと駒を増やしてできた後世の将棋ではなく、黎明期の将棋であった可能性、つまり、古い時代の将棋であったことの証左にもなりそうです。
さて、やっと、鳥獣戯画の話に入ることができます。前置き長すぎですいません。少し前に、鳥獣戯画の乙巻は、全部が将棋の駒である可能性について書きました。もちろん、狛犬も入っています。鷲の次、麒麟の前に書かれています。これは、当時、兕(じ)と呼ばれていた霊獣です(と、断言していいのかどうか)。鳥獣戯画の論文はまだそれほど読んでいませんので、確かなことは言えませんが、たぶん、どなたかが指摘しているだろうと思います。兕という霊獣の絵は、山海経が元祖だと思いますが、いろいろなところにあります。この兕の絵とよく似た絵が乙巻にもあるわけです。
ここで、本稿、いったん置きます。まだまだ、ありますので。
最後に1点だけ。白川静の字通で兕を引いてみて下さい。類聚名義抄で、兕の訓読みは「こまいぬ」とのことです。鳥獣戯画の乙巻の絵(麒麟の前の絵)は、兕の絵に似ています。そして、平安時代、兕を「こまいぬ」と読んでいた。こういうわけで、鳥獣戯画のその絵は狛犬だろうと考えました。古文書に書かれているとおり、背中の皮も硬そうで、確かに鎧が作れそうです。