先日、曼殊院を訪ね、一冊の古文書を見せていただきました。表紙には「将碁馬寫」という紙片が貼られています。紙の種類、サイズ、製本の仕方から江戸時代初期の写本でしょう。外見が類似する別の古文書が曼殊院にありますが、江戸時代初期のものです。
上で、写本と書いてしまいましたが、奥書はありませんので、何とも言えません。ただ、記述内容からは写本と考えた方が面白そうです。本は江戸時代ですが、内容は江戸時代よりも古く、つまり写本元も古いだろうという可能性です。
まず、表紙に書かれている将碁という語句ですが、将棋のことを、将碁と書いた時代は、新猿楽記、台記、明月記の時代です。あとは、駒の字の書き方についての記述、麒麟抄の将碁馬書事。もちろん、江戸時代、将棊または象戯と書いていた時代に、著者が、麒麟抄の字の将碁を模したという可能性もあるでしょうが、本ブログは、そうでないと思いたいわけです。
将碁馬寫は、中将棋の駒の字の書き方作法というべきものです。中将棋の駒の字が並んでおり、若干の注釈もありますが、基本的には、字が並んでいるだけです。しかし、この古文書は、将棋の歴史解明にとっては、非常に重要な資料となりそうです。さすが曼殊院秘蔵の古文書。本稿にそのデジタルコピーをつけたいところですが、あとしばらくお待ち下さい。まだ公開許可を取っていません。
ここでは、ひとまず次の2点を書いておきたく思います。
1)成金の駒の字の書き方。銀、桂、香、歩の成金の字が4つ並べられており、金の字の崩し方が、この順に大きくなっていく。
2)成り駒の字は、崩すのが原則である。しかし、太子の駒だけは楷書であり、崩していない。
1)の知見については、伝えられた実際の駒からもわかることなのですが、古文書の記述として残っているということが重要です。これは、最古の記述ではないでしょうか。麒麟抄の将碁馬書事にも、成金は崩すようにと書いてありますが、ここまでの具体的な記述ではありません。将碁馬寫と将碁馬書事を比較することで、小将棋の歴史に関することがいくつか議論できますが、また後日に。摩訶大将棋関連を優先させたくです(書き残していることが多々あります)。
2)は非常に重要な点です。大型将棋の歴史を、きちんと伝えてくれています。成り駒なのに、なぜ太子の字は崩さないかという点ですが、それは、表が太子という駒がないからです。つまり、太子の駒は成り駒にしかありません。
表の駒なのか裏の駒なのか、それを区別していたらしく、これが字を崩す理由です。ですので、表の駒がない場合、区別する理由はなくなり、字は崩さなくても大丈夫です。たとえば、飛鷲や角鷹は崩されています。なぜなら、飛鷲や角鷹は、表の駒として、すでに別の将棋にあったからなのです。この件、ひとつの説として、投稿77)に書いています。飛鷲と角鷹は、延年大将棋(=泰将棋)の駒に由来しています。そして、著者は、中将棋の飛鷲と角鷹の起源も知っていたということになります。将碁馬寫の原本は、そういう古い時代に書かれたという可能性もあるでしょう。
中将棋の駒の字の書き方という観点から、将碁馬寫と水無瀬神宮の象戯圖を見比べてみるのも面白いです。象戯圖では、成り駒の龍王と龍馬は崩していますが、飛鷲と角鷹は崩していません。これは、飛鷲と角鷹が、中将棋の表の駒としては、存在していないということからきています。水無瀬兼成は、中将棋の起源については、もはや知っていなかったのでしょう。
水無瀬兼成が写した嘉吉三年(1443年)の写本では、中将棋の図はどうなっていたのか、飛鷲は崩されていたのかどうか。将碁馬寫が崩されていたのであれば、嘉吉三年の本も崩されていたでしょう。なぜ飛鷲は行書なのだろう、兼成は思ったかも知れません。
この嘉吉三年の本もまた曼殊院の秘蔵本ですが、ともあれ、将碁馬寫は、非常に貴重です。天皇や秀吉の書簡が並ぶ曼殊院のガラスケースの中にいっしょに並べてもいいように思いますが、いかがなものでしょうか。
本稿、上記2)の件で、まだ続きます。続きは早々に投稿します。延年大将棋と鳥獣戯画と関連します。