195)TGS2016: 5)明月記の大将棋:「三盤了」の謎

藤原定家の日記「明月記」、正治元年(1199年)五月十日の条に「三盤了」が出てきます。

 

自夜暁更甚雨如注、終日不休、河水大溢、依番為上格子参上、

殿下出御、於御前指将碁、国行被召合、三盤了、殿下御堂了退下

 

後鳥羽上皇の御前で定家が将棋を指したという記事です。文面の流れからも(洪水が起こり、その報告に行きました。そして、・・・という流れです)、当時の将棋が単なる遊戯でないことは明らかですが、本稿のテーマはこの件ではなく、対局数の方です。三盤了。3回も指したというのです。

 

この三盤了のことは、ずっと謎でしたが、今年7月の学会発表で、その答えの候補を提示できたものと思っています。指された将棋は、現状で既知の将棋から選ぶとすれば、大将棋か摩訶大将棋でしょう。少なくとも、指された将棋は平安将棋や平安大将棋ではありません。本稿、この点がテーマとなります。以下、次のリンクに。

 

日本の古代・中世の将棋を具体的に記述する古文書は、実は2つしか残されていません。13世紀はじめに編集された事典「二中歴」と、15世紀の写本で各種大型将棋について書かれている「象棊纂圖部類抄」だけです(※注1)。象棊纂圖部類抄(1443年)のあとの将棋本で最も古いものは諸象戯図式(1694年)ですが、象棊纂圖部類抄から250年も後の時代ということもあって、間違いを誘う情報も多く含まれます。これ以降にもいろいろな将棋の古文書が出版されていますが、象棊纂圖部類抄を超える情報を提供する本はありません(※注2)。結局のところ、将棋の黎明期を探るためには、現状では、二中歴と象棊纂圖部類抄の情報だけが頼りだと言えるでしょう(※注3)。

 

この2つの文献に記載されている将棋の種類は次のとおりです。

 

    二中歴: 平安将棋(8マスか9マス 未確定)、平安大将棋(13マス)

象棊纂圖部類抄: 中将棋(12マス)、大将棋(15マス)、大大将棋(17マス)、

         摩訶大将棋(19マス)、延年大将棋(25マス)

 

したがって、現時点で、将棋の駒、初期配置、ルール等の具体的な内容にまで踏み込んで議論が可能な将棋は上記の7種類しかありません。このうち、延年大将棋は文字通り、延年の儀式のツールとしての将棋ですので、遊戯としての将棋は6種類となります。

 

本稿、くどくどと書いています。

脈絡なく突然にですが、言いたかったことは次のことです。

 

古文書に書かれて現代にまで伝わった将棋に対して、私たちはそれなりの敬意を払わねばと思っています。将棋をよく知るある人物が、その将棋を取り上げ、古文書に残した、この事実は重要です。このことは、いろいろな点でその将棋が「面白かった」に違いないことを教えてくれています。

 

ですので、象棊纂圖部類抄の中で言えば(遊戯そのものが伝わった中将棋は別として)、大将棋、大大将棋、摩訶大将棋は、重要視しなくてはいけないのです。大将棋は面白くない、指されたことはなかっただろう、多くの文献でこういう表現を見てきました。直感的にはそうでしょうが、古文書にきちんと伝わってきた将棋はそういうものではありません。

 

実を言いますと、象棊纂圖部類抄の大将棋(15マス)のことを、私もさほど気にかけていませんでした。はじめは、あまり面白くはない将棋だろうと思っていましたが、これは完全に間違いです。この件、明日の投稿にて詳細します。

 

たとえば、平安時代か鎌倉時代かに、摩訶大将棋よりもまだ大きい21マスの将棋Yがあったとしましょう。しかし、この将棋Yは広い意味で「面白くなかった」と考えていいでしょう。象棊纂圖部類抄の原本(遅くとも1443年以前)は、この将棋を取り上げなかったのですから。たとえば、平安大将棋とは違う別の13マスの大将棋Zがあったとしましょう。しかし、この大将棋Zも面白くなかったのです。仮にごく短い期間成立していたのだとしても、それは面白くはなく、すぐに消え、古文書には取り上げられなかった。遊戯にとって、その痕跡の有無は面白さの有無でもあります。

 

さて、平安大将棋についてです。まだ結論は出せていませんが、平安大将棋に面白さがあるのかどうかという点、いかがでしょう。個人的には、徐々に二中歴の記述の方を疑いつつあります。二中歴は事典であり将棋本ではありません。二中歴の編著者の将棋の知識は確かだったのでしょうか。平安時代と現代とでは違うという方もおられますが、人がその遊戯を面白いと感じるかどうかは、たぶん変わらないのではないかと。

 

ここで再び、脈絡なく飛びます。

 

ところで、大型将棋史には、通常の歴史学とは大きく異なる点があります。研究対象の時代に実際に戻ることができるという点です。それは空想の中でなく、現実の中で戻ることができるのです。たとえば、現代の私たちが平安時代の将棋をそのままに遊ぶということです。試しに遊ぶことができる。これはすばらしい!

 

やっと、本稿のタイトルの件になります。明月記に登場する将棋は、時代的には、平安将棋または平安大将棋が想定されることが多いのですが、明月記の他のところで、将棋の駒の動きが思い出せない云々の話があり、また、同時代の関連する古文書の記述も考えあわせれば、明月記の将棋は大型将棋の一種だと思われます。

 

さて、明月記の将棋が平安大将棋だったとします。皆さんは平安大将棋を3回指すことができるでしょうか。今のところ、私は無理です。だから、平安大将棋ではないと言い切るつもりはありませんが、それよりも、ずっと可能性の高い候補があるのです。大将棋(15マス)と摩訶大将棋。昼から夕方までの時間だとして、3回なら十分に指すことができるでしょう。

 

大型将棋史は物理学に似たところがあります。理論将棋史学と実験将棋史学。本来的に、歴史学は文献学と考古学の上に成り立ちますが、大型将棋史では、さらに、実際に遊ぶ、試しに遊んでみるという作業を加えることができます。実験将棋史をする人を私は何人か知っていまして、その方々をとても敬服し、とてもなつかしく感じている次第です。

 

とりとめなく書いてしまいました。大雑把ですが。きちんとはまたいずれ再度の投稿とします。ともあれ、文献上にない将棋、将棋盤の上に並べることのできない将棋は、大型将棋史の将棋ではなく、文学の将棋ということになります。

 

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※注1)「象戯圖」(水無瀬神宮所蔵)もほぼ同じ文献です。

 

※注2)大型将棋の駒の動きに関するWikipediaの情報が間違っているのは、江戸時代の古文書だけを情報源としているからだと思われます。勝手な想像ですが、象棊纂圖部類抄や象戯圖は、かつては入手困難だったのかも知れません。

 

※注3)もちろん、各種日記や物語中からも将棋に関する情報を抜き出すことはできますが、将棋のルールや使用する駒について具体的に書かれているのは、二中歴と象棊纂圖部類抄だけとなります。