211)将棋史の2択:摩訶大将棋と平安将棋、どちらが先か

中世以前に限れば、古文書(二中歴と象戯圖)で存在が確かな古典将棋は次の7種です。 

 平安将棋(縦横9マス) <-- 異論もあり得ますが、いちおう9マスとしておきます。

 中将棋(縦横12マス)

 平安大将棋(縦横13マス)

 大将棋(縦横15マス)

 大大将棋(縦横17マス)

 摩訶大将棋(縦横19マス)

 延年大将棋(縦横25マス

 

ところで、上記7種の将棋の成立順について、本ブログでは、いちおう以下のように考えています。ただ、去年の夏ごろまでは、平安将棋と平安大将棋は除外し、発表や展示をしていました。いろいろと論拠が固まってきましたので、去年の秋以降は、平安将棋まで含めて発表し始めています。

 

ほとんど異論が出ないのは、次の2つの流れです。ですので、本稿では話題にしません。

○ 摩訶大将棋 --> 大大将棋 --> 延年大将棋        ○ 大将棋 --> 中将棋

 

検討されるべきは、次の2つの説です。

A説(本ブログの説)  :摩訶大将棋 --> 大将棋 --> 平安大将棋 --> 平安将棋

B説(一般的な説・通説):平安将棋 --> 平安大将棋 --> 大将棋 --> 摩訶大将棋 

 

A説の可否は、一言で言えば、摩訶大将棋の玉将を薬師如来と見るのかどうかということだけです。玉将=薬師如来を納得していただいている場合、関連する問題点もほぼすべて納得ということかと思います。つまり、守護する十二神将の駒、供養としての伎楽面の駒(踊り駒)、供養としての桂と香、大地を鎮める地理の駒の存在、歩き駒の動きのパターン、狛犬師子のこと、仲人が横に歩くこと、麒麟鳳凰が踊ること、法性がなくならないこと等々、いろいろなことが、互いに関連しあって矛盾することがありません。

 

一方で、B説の論拠ですが、実は、論文、単行本含め、どこにもきちんとした説明がなされていないのではないでしょうか。将棋は小さいものから大きいものに発展していくものだという暗黙の了解だけが理由のように思います。平安将棋が、文献学的にも考古学的にも最古だということがありますが、しかし、これは将棋の成立順までを規定するものではありません。

 

摩訶大将棋は文献的には最古でなく、確実な出土駒もありません。しかし、摩訶大将棋が、平安将棋(文献学・考古学的には11世紀前半)よりも古い将棋らしいことは、摩訶大将棋そのものの中に現れています。下の「続きを読む」のリンクを参照下さい。

 

(2017.03.19 23:55)

 

摩訶大将棋を薬師信仰に則った呪術としての将棋と見る場合、10世紀前半ぐらいまでの将棋という可能性が濃厚です。さらに遅いとなれば、阿弥陀信仰が全盛の時代となってしまうからです。この時代推定は、狛犬と師子の縦並び(つまり、狛犬舞と師子舞だった時代)、伎楽面の駒が取り入れられていることとも合致しています。

 

成立順の件ですが、大きい将棋から小さい将棋へと変化したのか(つまり、駒が削減される)、小さい将棋から大きい将棋へと変化したのか(つまり、駒が追加されている)は、摩訶大将棋の駒がかなり系統だった構成となっているため、駒が徐々に追加された結果、出来上がったとは考えにくいでしょう。逆に、B説に立つ場合、駒の追加がかなり不合理なものとなります。

 

なお、成立順の考察は、将棋伝来の問題にとっても重要です。一番古い将棋が伝来当初の将棋ということになるわけですから、伝来したのが摩訶大将棋か平安将棋かで、かなり様相が変わるのではないでしょうか。

 

本稿、いったんここで終えます。また後日、補足的に投稿します。

(以上、2017.03.20 00:40)

 

(以下、2017.03.22 11:30 補足)

摩訶大将棋そのものが伝来したというのは考えにくいです。伝来元の候補としては、まず中国ですが、狛犬--師子、薬師如来--十二神将、伎楽面といった文物の事例は中国ではあまり見られません。そもそも玉将=天皇という対応づけ自体が日本でしか成立しないものですし、駒の構成、踊り駒、成りのルール等も日本独自だろうと思われます。では、何が伝来したのかと言われますと、ここでは短く表現できませんが、何かが伝来しているというのが、今の見解です。わかりにくくてすいません。このあたりは、後日の投稿となります。不思議なことですが、伝来してきたと思わざるを得ない文献の記述があります。