245)将棋盤と平安京:摩訶大将棋起源説の傍証

摩訶大将棋が原初の将棋であることは、本ブログにていろいろな観点から書いてきましたが、今年になってからも、多くの進展がありました。その中でも、将棋盤のサイズの問題は、影響が大きい問題です。最近になって、本稿を強力に支持する材料も揃いましたし、先日の学会にてその件の発表も終わり、いちおうのスクリーニングも済みました(特に問題なしです)。本来は、強力な支持材料の方から投稿すべきですが、ひとつひとつが非常に長い話で、投稿に時間がかかります。それで、まず、投稿243)の将棋盤の件、直接的な根拠を書きます。平安京の町並み自体が摩訶大将棋の将棋盤であったという考え方です。

 

この考え方は、古代の将棋が呪術だったということを前提にしています。ですので、将棋を遊戯の観点から考えておられる方にとっては、すぐ賛同してもらえないかも知れません。これだけだと、偶然だろうと思われるかも知れませんが、実は、中国の将棋(象棋:シャンチー)も、将棋盤のサイズは、長安の都の町並みから来ているのです。どうして、こういう単純なことが今まで無視されてきたのだろうか不思議ですが、それは、文献に引きずられているということなのでしょう。摩訶大将棋は19×19マス、大将棋は15×15マスとはっきり書いてある、だから、それでOKと思っているだけです。しかし、どうも、象戯圖の記述は間違いです(間違いは多々あります。ご注意を)。

 

以下に、平安京の町並みの図を作りました。いかがでしょう。摩訶大将棋の将棋盤そのものと見れるかどうかが第一関門となります。横19マス縦16マスです。歩兵と歩兵の間隔は4マス、仲人と仲人の間隔は2マスで、世界の将棋類に共通です。この説明に加え、長安の都とシャンチーの関係も同じですということを挙げれば十分だと思っていたところ、先日の学会では、大型将棋を全くご存知ない方から、それだけでは無理というコメントをもらいました。ですので、この結論を納得してもらうためには、

1)摩訶大将棋起源説

2)将棋は神事であり呪術であること

の方を先に納得してもらわないといけないのだろうと思います。これまでの発表や論文で十分納得いただけると個人的には思いますが、まだ論文にしていない部分も、今後少しずつ投稿し、強力な援軍にしたく思います。31枚の謎や二中歴の解読は、呪術を説明する上で非常に大きいのですが、先日の発表では、駒の動きをきちんと把握している人でない限り、全くついて来てもらえませんでした。

 

ですので、本稿では、まず、大大将棋の将棋盤の話しから入ることにします。下の図(と長安の図も必要です)を見ていただくとわかるのですが、大大将棋の将の駒が最下段に並ばない理由がはっきりします。それと、大大将棋は、摩訶大将棋はじめその他の大型将棋とは違い、南北に対局者が座ります(摩訶大将棋は東西に座る)。つまり、古代の中国風です。たぶん、大大将棋の駒は交点に置かれているでしょう。一部の駒は一文字だったかも知れません。兵の出土駒などはその可能性があります。

 

本稿については、最終的には、31枚の話、二中歴の話、宝応将棋の話、摩訶大将棋の成りの話やルールの話しを順に聞いていただくことになります。実は、将棋盤が変わったこの機会に他のルールも改変しています。象戯圖の序文は、全然関係のない文章に思えても、実は将棋の駒のことやルールのことが書かれています。なかば暗号のような文章と言えます。

 

長く書くつもりはなかったのですが、長くなりました(説明を全然せずに)。ともあれ、下の図面をどうぞお楽しみ下さい。図は、きちんと設計された、当初の平安京の町並みです。ただ、平安京は、造営されて早々に、右京や下京の方から寂れていきます。平安京を模した将棋盤も、だから、次第に小さくなっていったわけです。説明少なくすいません。この件、また別に投稿します。

 

平安京の町並み
平安京の町並み