279)平安大将棋から中国象棋が作られたという説について

将棋は中国から伝来したというのが通説であるが、将棋の陰陽五行説(=摩訶大将棋起源説)からは、意外なことに、将棋は中国へ伝わったということがわかる。伝来の方向は逆向きだったのである。

 

中国語、アラビア語の文献がまだ完全に調べ切れていないが、日本の古典籍からだけでも、標題の説は成立すると思う。本来は、この概要を3月に学会発表予定だったのが、今年はその研究会が中止となっている。それで、本ブログにてゆっくり公開していくことにした。すぐ結論まで進むのは無理なので、10回分ぐらいになるかも知れないが、おつきあいのほどを。

 

 

ふたつの将棋の初期配置を上に示した。中国象棋と平安大将棋は、駒数も駒の種類も全く違う。しかし、平安大将棋から中国象棋が作られたということを、ある程度までは示すことができるのである。この説は、本ブログにて提起している摩訶大将棋起源説に則ったものである。つまり、はじめに摩訶大将棋(96枚)があり(この将棋の原型は中国からの伝来である)、次第に駒数が少なくなって、大将棋(65枚)、平安大将棋(34枚)が成立した。さらに、平安大将棋は、平安将棋(小将棋)を作るのであるが、一方では、中国象棋の元にもなったらしい。

 

本題に入る前に、はじめに、中国象棋(シャンチー)ついてのいくつかの疑問を提示しておきたい。

1)兵/卒の駒はなぜ5枚しかないのか。他のすべての将棋類は、将棋もチェスもシャトランジも、盤の横方向に間を空けずに歩兵相当の駒が並ぶが、中国象棋の兵は、ひとつずつ間を空けて並んでいる。なぜか。

2)兵/卒の駒は下から4段目に並ぶ。チェスやシャトランジは下から2段目に並び、初期配置には空いたマス目はない。なぜか。

3)中国象棋の盤は、縦10目横9目である。一方、チェスとシャトランジは縦横8マス、日本将棋は縦横9マスと、いずれも正方形の盤を使うのである。なぜか。

4)兵/卒の駒は、成ると横にも進むことができる。なぜこういうルールになったのか。

5)象の駒は、ななめ2目の位置に進むことができる。なぜか。

(他の駒についても質問できるが、特に、象を取り上げた。Murrayさんがむかしの象の動きは銀将と同じ動きだったと主張するので。)

 

通説に則る限り、以上の疑問に答えることはたぶん不可能だと思われるが、仮に、平安大将棋から中国象棋ができたと考えると、3)以外は全部説明が可能となる。3)はすでに、論文と書籍で発表しているとおり、大型将棋の盤が平安京の条坊に対応させて作られたという仮説によるものである。この仮説は、大型将棋の駒に陰陽五行、六十干支がきれいに仕組まれていることから、さほど不思議な話ではないであろう。駒と盤に関するこれらの仮説は、中国象棋成立の経緯と合わさって、さらに強固な説となった(と思う)。

 

特に、上記4)と5)が大きい根拠となる。これについては、どこかの国の古代のゲームクリエイターが、そう作ったのだから、仕方ない、議論の余地はない、というような話しではないのである。駒の動きは、ゲームクリエイターの差配によるのではなく、きちんと説明することができる。つまり、将棋という「呪術」は、それ自体がある種のルールのもとで作られているらしいのである。兵の駒は成れば横にも動く。この動きは思いつきからできたものでなく(遊戯として設計されたわけではなく)、そうである必要があったということなのである。象の駒の動きも同じである。

 

そうは言うものの、中国象棋の象の動きも、シャトランジのフィールの動きも、ななめ2目/2マスの位置に動くとわかっているではないかと思われるかも知れない。しかし、調べてみれば、文献学的には、ペルシャやインドで、フィールの動きがななめ2目だということのきちんとした根拠は見つからない。Murrayの本を読んでも、ななめ2目に動くと書かれているだけである。

 

フィールの動きは、早くとも11世紀になってからの所産である。一方で、新しい将棋を作る「ルール」は平安時代前半のものであり、そのルールから得られた象の動きは、ペルシャのフィールからでなくて、どうも日本発である可能性が大きいのではないだろうか。

 

というような話題の周辺をあまり日を置かずに書いていきます。本稿はこのあたりで。