摩訶大将棋の桂馬の動きは、右図の桂馬1である。●が動きの着地点を表し、その途中飛び越えていく○の位置に敵駒があれば、その駒を取ることができる(この機能は踊りと呼ばれる)。なお、平安時代の大型将棋では、駒を越す駒はすべて踊り駒である。
一方、今の桂馬の動きは、桂馬2であり、すぐ前に駒がいてもその駒を飛び越して進むことができる。ところで、中国象棋の馬の動きは、今の桂馬の動き(桂馬2)を左右と後方に拡張したものであるが(いわゆる八方桂)、桂馬2と象棋の馬の違いは、動きの違いだけではないことに注意されたい。象棋の馬の動き方の起源は「踊り」であった可能性が高い。つまり、馬は前後左右に駒がある場合、その方向には、桂馬飛びはできないというルールがある。これは、馬の動きが踊り(=動きを2回くり返すこと)の動きだからなのである(この件については、別稿)。
さて、本題に入る。反駁論文では、摩訶大将棋の復刻で得られた桂馬の動きについて、次のように書いている。「平安将棋から現行将棋、はてはチャトランガ、象棋などに桂馬相当駒が存在する「桂馬」の動きの評価が短絡的にすぎるように感じられる。」
読者の多くは、上の記述に対しては、さほど気を止めないものと思われるが、実は、大きな仮説が含まれている。その一方で、摩訶大将棋の桂馬の動きは、古典籍に記載どおりの動きを採用しているだけであり、仮説の方が間違っている可能性が高い。その仮説は次のとおりである。
反駁論文が前提とする仮説:チャトランガの馬相当の駒の動きは、八方桂の動きである。
反駁論文では、 おそらく、チャトランガやシャトランジの馬相当の駒を、八方桂の動きだと考えている。馬の動きについては、これまでのチェス関連の論文や単行本をきちんと読んでみるとわかるように、実は、文献学的な根拠は何もない。注意すべき点は、議論している時代が、遅くとも10世紀前後であるということであり、この時点での動きがわかるのは、摩訶大将棋の桂馬の動きだけである。象棋はこの時代にはまだ存在が不明であり、チャトランガやシャトランジは、駒の動きが不明である。動きは不明なのであるが、たぶん、中世の動きと同じだろう(単なる推測!)と思われているにすぎない。
世界中のチェスの研究者が、シャトランジの馬の動きを、今のチェスのナイトの動きと思っているかも知れない。桂馬飛びの動きは当初からあったと、ただ思い込んでいる。この状況は、将棋史の研究者が、昔の桂馬の動きと今の桂馬の動きを同じだと思い込んでいるのとよく似た状況である。
以下、反駁論文への返答としては、象棋の馬が八方桂の動きだと仮定して話しを進める。その場合でも、将棋伝来当初の桂馬が今の桂馬の動きだとするには、なお非常に無理があることを説明したい。平安時代(二中歴)の桂馬の動きが今と違うことは、単に桂馬の駒の動きだけの問題ではなく、将棋史解明の核心に近い問題である。たとえば、別稿で取り扱うが、二中歴に記載の銀将、銅将、横行、盲虎等の駒の動きについても同じ議論をする必要がある。
桂馬の動きが昔と今とで違うと言ったときに、よく反論の材料とされるのが、たとえば、右図に示した象棊纂圖部類抄の桂馬の動きである。反駁論文では、復刻本の図52(象戯圖)を挙げているが、反論内容は同じである。復刻された実際の動きは、飛龍の前だけの動き(ななめ45度の動き)が、桂馬の動きである。本稿冒頭の図1に桂馬と飛龍を縦に並べた。
桂馬の動きと飛龍の動きが違うという主張の論点は、桂馬の動きを示す朱点の位置が、ななめ45度の方向ではなく、もう少し90度に近い側に傾いていて、桂馬飛びの方向に近い、というのである。右図がまさに、この点を明瞭に示すわけで、確かに、飛龍はほぼななめ45度に点が並ぶのに、桂馬はそうではない。
ただ、上の反論は、桂馬の動きが途中の点を含め2点で示されていることを考慮していない。点はマスの位置に打たれる。したがって、もし桂馬飛びを示す場合には、図1の(桂馬2)のように、2点が縦に垂直に並ぶ必要があるのである。しかし、右図では、桂馬の前方の点は、ななめに打たれている。ななめに打たれていれば、これは、ななめ45度に進むという以外にない。本来は縦に並べて打つべき朱点が、少しななめになってしまうということはないであろう。なお、図2の桂馬は、象棊纂圖部類抄の中で最も桂馬の点が縦に近く並んだものを選んでいる。ほぼななめ45度の方向に点が並ぶ図もあるため、大型将棋の桂馬は、飛龍の動きということで間違いないであろうと考える。
さらにあと1点、反証を挙げておきたい。これは、1)象棋やシャトランジが将棋の元の形だとし、2)象棋やシャトランジの馬が桂馬飛びの動きであることの2点でもって、桂馬がななめ45度の動きでないことを否定する説に対してのものである。ただ、上で述べたとおり、シャトランジの馬が桂馬飛びかどうかは不明であり、象棋の馬は、10世紀にはまだ存在の確証はないので、この反証は、逆に、象棋やシャトランジが将棋の元の形でないという前提を考え直す問題提起になっているとも言えるだろう。
さて、反駁論文では、次のように書かれている。『摩訶大将棋を日本将棋の祖と考えた時、摩訶大将棋の「桂馬」の動きが現行将棋の「桂馬」の動きと異なるのは、不都合な証拠となる。現行将棋の「桂馬」は特殊な動きであって、二方佳、八方桂の違いはあるもののチャトランガ、チェス、象棋などと基本的な動きと配置が共通することの説明が難しいからである。』この文章は、次のような別の視点に立って考えてみれば、非常に論点が明解となるだろう。
将棋の桂馬は二方桂であるのに、チャトランガと象棋は八方桂であるのはなぜか?
これに対する答えでよく聞く説は、八方桂の前には二方桂がインドや中国にあったとするものである。こういう想像が学術的ではないことは言うまでもない。もちろん、それを立証する文献もない。だとすれば、桂馬が二方桂であったとしても、ななめ45度動きであったとしても大差ないであろう。
重要な点は、何が確実な情報なのかということである。10世紀においては、チャトランガや象棋の八方桂の駒は不明である。一方で、10世紀の日本において、ななめ45度動きの桂馬の存在した可能性がある。このシナリオを却下することなく、将棋史全体の中に組み入れることができるのかどうか。この点が問題となるわけであるが、結論のみ書けば、桂馬はななめ45度に動く踊り駒と考えて間違いなく、将棋史のグランドプランの中に矛盾なく収まるのである。
実は、銀将の動きに対して、同じようなこと、つまり、昔と今で銀将の動きが違うことを説明する必要があるのだが、これは、桂馬よりももっと反論が多いであろう。桂馬と違い(*注)、二中歴に記載される動きが今の動きなのである。別稿にて取り上げたい。ただ、桂馬のように、象戯圖の図からも動きが明らかで、二中歴にその記述がきちんとある場合でも、なお、今の桂馬の動きだという反論も多かったことを考えると、銀将については、そう信じる人だけがそう信じてもらうというのでもいいかなと思う。なぜなら、銀将は、世界の将棋史解明においては、キーになる駒ではない。キーとなる駒は銅将である。
*注)本稿では取り上げなかったが、二中歴に記載される桂馬の動きは、二方桂とは読み難く、ななめ45度動きとするのが妥当である。