288)摩訶大将棋起源説反駁7:考古学と天文学と将棋

図1.第一次平安京の北西部分と第一次平安宮.上が南である.
図1.第一次平安京の北西部分と第一次平安宮.上が南である.

将棋史の解明にとって平安京は最大のキーポイントである。平安時代には摩訶大将棋の文献はなく、摩訶大将棋の駒の出土もない。しかし、摩訶大将棋の将棋盤は、平安京そのものとして残されていて、それが将棋の本質、つまり、将棋の呪術性を示してくれるのである。

 

摩訶大将棋の駒の名称と動きに注目すると、駒を五行、陰陽、十二支に分類した上で、六十干支の表をきちんと構成することができる。また、将棋盤については、条坊の1保=盤の1マスと見ることで、平安京と将棋盤は完全に一致する。駒が示す陰陽五行思想という呪術性に対して、では、将棋盤は何が呪術なのか。それは、平安京の条坊そのものが呪術性に由来するというのが答えである。平安京の条坊が、ある種の呪術に基づいて設計されていることを、以下で示したい。この呪術性は、平安京から将棋盤に転写されている。

 

さて、反駁論文では、駒の陰陽五行思想においても、平安京と盤との一致においても、かなり些細な部分を取り上げて、反論を展開する。たとえば、走り駒は12枚でなく14枚あるとか、十二支が全部揃っていないとかの観点でコメントがなされる。十二支が存在するからこその六十干支であり、様々なグルーピングのもとで12種のグループがいくつか現れればそれで問題はないであろう。平安京についても、盤との対応が、摩訶大将棋と大大将棋で、対応する向きが違う点(一方は東西、一方は南北)を疑問視する。一致していることこそがまず重要なのである。

 

復刻本に対しての、もし納得のいく反駁があるとすれば、平安京と盤とがきれいに対応したとしても、それに何か重要な点があるのか、という反論であろう。この点については、復刻本の発刊(2019年3月)以降の成果であるため、復刻本には書かれていない。しかし、きれいに一致するということは、単なる偶然というよりも、その裏には何か明確な事情があると考えた方が自然である。だから、駒に陰陽五行十二支が組み込まれ、さらに、盤がともかく平安京の条坊と一致したという時点で、将棋=呪術と思い込んでもいいぐらいなのである。駒に出現している陰陽五行思想の可能性を提示しているにも関わらず、反駁論文では、将棋の呪術性については一切の思慮がなされていない。

 

こういう状況のもと、我々の研究は、いったん将棋を離れて、平安京の文献学と考古学の情報収集に向かった。その結果、平安京の設計には、これまで考えられてきた以上に呪術との関係が深く現れていることがわかった次第である。以下、その概略を示す。

 

(いま書いているところです。。。)

 

上図は、第一次平安宮の復原である。大極殿院の北端から、平安宮の南端までの距離は200丈であり(これは考古学的に確定している知見)、その間には一辺40丈の正方形が5つきちんと入る(これは考古学的知見ではなく推定)。平安宮の南北を区切る一条大路と二条大路はともに17丈の幅を持つと考えた(一条大路については推定)。この場合、平安宮の形状はほぼ正方形となる。平安京に現れるこのような正方形の階層構造は、別稿で書くが、古代中国における天円地方の思想に深く関連するものなのである。

 

大極殿は平安宮の中心的建造物である。ところが、従来の平安宮の復原では、大極殿の位置の復原が大きな疑問なのである。つまり、中心的建造物であるということが、その位置自体には現れていない。現状の復原では、大極殿は非常に中途半端な位置に立っているのである。たとえば、大極殿は、中御門大路の中心から1丈だけずれているし、大極殿の位置に、上述したような200丈といった完数が現れていない。また、大極殿院の東西幅は42.4丈と復原されるが、この寸法も完数ではない。

 

こうした不自然さを修正するのが、第一次平安京の仮説であり、原案は1984年に瀧浪貞子氏により提起された。本稿では、第一次平安京として、北闕型の平安宮を想定しており、平安京自体が造営当初、図1に示されるとおり、2町だけ狭かったと考えている。

 

第一次平安京の北端は旧一条大路(=第二次平安京の土御門大路)であり、この道幅を二条大路と同じ17丈と想定した。延喜式には一条大路は10丈と記載されるが、これは第二次平安京の一条大路に対するものであることに注意されたい。この場合、大極殿の位置は、平安宮の北端から測って完数200丈に立つことになる。また、平安宮の南北幅は383丈となり、東西幅384丈とほぼ等しい(平安宮は正方形)。

 

(まだ書いている途中です)