2013年
3月
20日
水
45)摩訶大将棋のブログ_01:目次
1ページが長くなるのはよくないらしいです。このあたりで一区切りし、別ページに移動します。間違っている投稿、怪しい投稿、書きかけの投稿もありますので、新しいページにてコメントします。01)~44)の投稿で再検討が必要な話題ありますでしょうか。お問い合わせの欄、またはコメント欄からご連絡いただきましたら、再度投稿したいと思います。以下、目次です。
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摩訶大将棋のブログ_01:目次
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44)師子の居喰い:2駒同時の居喰いも可能(2013/03/04)
43)ゲーム学会とーくかふぇセッション:摩訶大将棋(2013/03/02)
42)踊一目 = 居喰い(速報)(2013/02/26)
41)摩訶大将棋 第1回プリンセスKG杯(2013/02/10)
40)大将棋の駒「石将」が出土した可能性(速報)(2013/02/03)
39)嘉吉三年写本を原本とする古文書(速報)(2013/01/02)
38)摩訶大将棋の特徴:成りのタイミング(2013/01/01)
37)摩訶大将棋の特徴:踊り駒(続き)(2012/12/26)
36)摩訶大将棋の特徴:踊り駒(2012/12/24)
35)仏教を表現したボードゲーム:摩訶大将棋(2012/12/22)
34)第2回 摩訶大将棋ワークショップ(2012年12月8日)(2012/12/03)
33)第9回寝屋川囲碁将棋まつり(2012年11月23日)(2012/11/22)
32)摩訶大将棋と摩訶大大将棋: 名称について(2012/11/02)
31)摩訶大将棋の模擬対局(お知らせ)(2012/10/29)
30)気になっていた象戯圖のこと(2012/10/24)
29)水辺で楽しむ摩訶大将棋(水都大阪フェス2012)(2012/10/20)
28)仮説:平安大将棋の駒の初期配置(2012/09/21)
27)宝応象戯の伝来仮説と習書木簡の酔象(2012/09/19)
26)興福寺の習書木簡:横行の駒? 卆の駒?(2012/09/17)
25)桂馬の動き: 昔は違っていたかも知れません(2012/08/23)
24)泰将棋は箸をもって指すべし(再考)(2012/08/15)
23)摩訶大将棋の駒を作ります --8(2012/06/08)
22)摩訶大将棋の駒を作ります --7(2012/06/07)
21)泰将棋は箸を使って指すべし(2012/05/14)
20)奔獏の駒と土御門天皇(2012/04/12)
19)奔獏かもの駒:徳島県川西遺跡からの出土(2012/04/11)
18)摩訶大将棋の序盤の特徴:踊り駒(2012/04/04)
17)摩訶大将棋の駒「自在王」が出土した可能性(2012/04/04)
16)唱導大将棋の存在(2012/04/03)
15)大型将棋と脳トレ(2012/03/31)
14)デジタル摩訶大将棋(その1)(2012/03/30)
13)曼荼羅と小中大将棋: 9・12・15について(2012/03/30)
12)摩訶大将棋ワークショップ開催:2012年3月31日(土)(2012/03/30)
11)大大将棋の駒「奔獏」が出土した可能性について(2012/03/10)
10)踊りの強化が摩訶大将棋(2012/03/10)
09)摩訶大将棋の駒を作ります --6(2012/02/24)
08)摩訶大将棋の駒を作ります --5(2012/02/05)
07)摩訶大将棋の駒を作ります --4(2012/02/05)
06)摩訶大将棋はダブルスだったという仮説(2012/02/04)
05)摩訶大将棋の駒を作ります --3(2012/02/04)
04)摩訶大将棋の駒を作ります --2(2012/02/02)
03)摩訶大将棋の駒を作ります --1(2012/01/29)
02)大大将棋の通説の駒初期配置図は間違い(2012/01/26)
01)摩訶大大将棋は大大将棋よりも先にできたという説(2012/01/26)
00)摩訶大将棋のブログを始めます(2012/01/26)
2013年
3月
04日
月
44)師子の居喰い:2駒同時の居喰いも可能
どうして今まで気づかなかったのか、不思議です。象棊纂図部類抄の中将棋のところには、次のようにはっきりと書かれています。この部分は何度も読んできたのですが。でも、気づきませんでした。
師子居喫 一枚二枚可随時 (師子ノ居喰イ、一枚二枚時ニ随ウベシ)
喫は「食う」の意味で、居喫は居喰いのことです。ここまでは問題なかったのですが、「一枚二枚可随時」を読み流してしまっていたということです。居喰いは一枚でも二枚でも随時可能、と読んで何の問題もありません。そのとおりの意味で捉えるべきでしょう。
居喰いで隣接する2駒を同時に取れることは、師子が2目踊りであることからも自然です。2目踊りの駒は2駒まで取ることができますので。不正行度のジグザグ踊りで2駒捕獲するのと同様、居喰いでも2駒捕獲できるようです。王将の動きを2回続けて動く、という便宜上の説明では居喰い(駒のところに行って、また元の位置に戻る)では、1駒捕獲が当然と考えることになりますが、師子の機能は、投稿42)のところでも書きましたとおり、踊2目と踊1目のふたつの機能です。踊2目で2駒捕獲、踊1目(=居喰い)でも2駒捕獲と考えてみました。
としますと、3目踊りの狛犬は、居喰いで3駒同時の捕獲ができると解釈していいかも知れません。ただ、狛犬に敵駒3駒が隣接した状況でこちらの手番というケースはないとは思いますが。
この件、ゲーム学会の全国大会前に気づき発表したかったのですが、結局しませんでした。いかがでしょう?
最後に、踊りの定義について、再度考えてみたいと思います。これまで、踊りの定義として、
投稿36)では、1手で複数個の駒を取ることができる機能、
投稿42)では、着地位置で駒を取るのではなく着地しない位置で駒をとることのできる機能
と書きました。本投稿での居喰いは、たまたま、この2件の定義のどちらもを満たしています。
踊り1目=居喰い、という可能性は結構ありそうです。残る問題は、踊り1目に「1目歩く」だけの機能を入れるべきかどうかという点なのですが、現時点では、1目だけ歩くことはできない、という考え方でいます。まだ調査中で、この件、近日中にまた投稿します。
2013年
3月
02日
土
43)ゲーム学会とーくかふぇセッション:摩訶大将棋
今回は、私の体調不良(声が出せない)のため広報しませんでした。摩訶大将棋の模擬対局をゲーム学会第11回全国大会の1セッションで、次のとおり行います。
日時:2013年3月3日(日)午後1時~午後3時(予定)
場所:大阪電気通信大学 駅前キャンパス:ゲーム学会第11回全国大会の会場にて
対局は葛原vs木村(プリンセスKG杯)、大野vs高見の2局を同時進行でやります。模擬対局と書きましたが、もちろん真剣勝負。対局は12時くらいから始めておきますので、3時までには終わっていると思います。対局の途中で、盤面解説をはさみながら対局します。
もし声が大丈夫なときには、師子の居喰い、狛犬の居喰いをディスカッションしたいと思っています。
2013年
2月
26日
火
42)踊一目 = 居喰い(速報)
速報というのもおかしいですが、昨日、踊り一目の謎が解けました。たぶんですが。
踊一目というのは、たぶん居喰いのことです。
踊三目は金剛と力士、踊二目は猛牛と飛龍、では、「不踊一目二目」(一目二目をば踊らず)の一目をば踊らずとは、何か、このことがずっと気がかりでした。
狛犬は踊三目、一目二目要に随てこれをつかう、象棊纂圖部類抄の狛犬のところにある記述です。狛犬は三目踊りですけど、二目踊りでもいいし、一目踊りでもいいですよ、という意味になります。「狛犬は師子の如し」ですから、つまり師子は、踊二目、要に随て一目もつかう、です。一目踊りはつまり居喰いということになります。狛犬は踊三目の金剛・力士にもなれ、踊二目の猛牛・飛龍にもなれ、踊一目の師子にもなれるということです。
踊二目不踊一目(二目を踊る、一目をば踊らず)は猛牛です。
中将棋の角鷹は、たとえば、踊二目一目(二目も一目も踊る)という表現ができると思います。
踊りの定義も、これでやっとすっきりしました。踊りというのは、着地位置で駒を取るのではなく、着地しない位置で駒をとることのできる機能のようです。以前の投稿で書きましたjump and
eatを定義にした場合、踊三目と踊二目は説明できますが、踊一目がうまく説明できません。踊一目とは、一目にある駒を動かずとることになります。不踊一目、一目には進めません。踊一目、これでも一目には進めませんが、駒は取ることができます。
以上のとおり、踊一目を解釈した場合、狛犬の動きは次のようになります。
1)全方向で居喰い可能(師子と同じ)
2)1目には進めない
3)全方向に踊り2目(師子も同じことが可能)
4)全方向に踊り3目
狛犬は師子の如し、確かにそのとおりです。
問題は中将棋の角鷹です。古文書にははっきり居喰いと書かれていますので、1目には進めないはずですが、Webを見ますと、1目に進めるという説がかなり多いです。中将棋を指されている方は、角鷹で1目進んでいるのでしょうか。この件是非確認してみたく思います。
きちんとした投稿、また後日に別投稿します。ひとまず、書き急ぎました。
2013年
2月
10日
日
41)摩訶大将棋 第1回プリンセスKG杯
また案内が直前になってしまいました。とりアート2012(2月10日~11日)の会場内にて、摩訶大将棋のイベントを開催します。お近くの方是非お越し下さいませ。
○ とりアート2012(第10回鳥取県総合芸術文化祭)
日時:2013年2月10日(日)~11日(月・祝)
場所:鳥取県 米子コンベンションセンター
駒と将棋盤を4セット用意していますので、実際の対局を楽しんでいただけます。現代の将棋とは一味違う鎌倉時代の将棋で中世の気分を味わって下さい。
マニュアルも多数用意しています。はじめての方もお気軽に体験してみて下さい。摩訶大将棋の詳しい説明もいたします。
なお、11日には、摩訶大将棋 第1回プリンセスKG杯の準決勝を公開対局で行います。
とりアート2012の詳細は次のサイトです。
http://www.artsfriend.com/toriart/upload/user/00002933-Xlcs15.pdf
http://www.artsfriend.com/toriart/upload/user/00002933-CV3cGR.pdf
http://www.artsfriend.com/toriart/
2013年
2月
03日
日
40)大将棋の駒「石将」が出土した可能性(速報)
今日、四條畷市立歴史民俗資料館に行ってきました。上清滝遺跡から出土の王将の駒を見るためです(他の出土品からの推定で1184年と言われています)。展示はありませんでしたが(少し前に入れ替わったとのことです)、スタッフの方にいろいろと情報いただきました。ありがとうございます!
私は、Webの情報しか見ていませんでしたので、上清滝遺跡の出土は1枚だと思っていましたが、少なくとも3枚は出ているようです。この3枚の写真が、館内に置いてある「わたしたちの四條畷」という2006年発行の本に掲載されていました。
次の点、可能性として速報したいと思います。実物の出土駒をいつ見れるのかわかりませんが、見ればはっきりとしますので、まだ見ていない時間の間は、推理・想像を楽しんでいたいと思います。投稿11)で、本横の駒を奔獏ではないかと推論したのと似た感じです。
1)王将と言われている駒は、写真では、それほど明瞭ではありません。第1印象は、石将かと思ってしまいました。
2)駒のサイズも王将にしては、細長いです。
3)表が石将だとすると、大将棋の駒ということになります。裏が奔石なら摩訶大将棋の駒なのですが、たぶん裏は無地でしょう(王将の駒とされていることからも)。
4)歩兵の駒も出ています。裏は不明です。裏を見ることができれば、大将棋の成りについての情報を得ることができます。金なのか不成りなのか。
出土駒の写真は、「わたしたちの四條畷」の本の98ページにあります。お近くの方は、是非見ていただければと思います。石将だという目でみれば、石将です(もちろん、王将だという目でみれば、王将です)。この石将、応援します。石将にまさかの脚光を。
いま体調かなり悪いのですが、これだけ書いてから寝ようと。。。
ひとつ前の投稿も速報のままですいません。
結果は出ているのですが。。。
(江戸時代後半の古文書でした。紹介のフレームワークとして象棊纂圖部類抄を使ったという感じです。この件また後日に書きます。)
2013年
1月
02日
水
39)嘉吉三年写本を原本とする古文書(速報)
年末、ある駒師さんから古文書の情報を教えていただきました。早速、今日確認に出かけたところ、すごい古文書でしたので、まずは速報します。
この古文書は、嘉吉三年写本(またはこの系統の写本)を原本とした写本です。嘉吉三年写本をルーツにする古文書には、水無瀬神宮の象戯圖、東京都立図書館の象棊纂圖部類抄がありますが、これらを基にしたものではないようです。自序の部分がところどころ違いますし、駒の動きのマークも違います。以下、速報です。
1)駒の動きのマーク:
象戯圖や象棊纂圖部類抄では線と丸を使っていますが、今日の古文書は、線と2種類の丸(中塗りの丸と輪郭だけの丸)を使って表現しています。踊りと越しの区別、正行度の踊りと不正行度の踊りの区別ができているように思います。
2)桂馬:
小将棋の図に桂馬の動きが図示されていました。同じ動きは、象戯圖や象棊纂圖部類抄では、大将棋以上の桂馬の動きに相当します。桂馬の動きの件については、以前の投稿25)をご参照下さい。なお、象戯圖、象棊纂圖部類抄では、小将棋の桂馬の動きは記載なしです。
3)駒の動きの違い:
桂馬以外にもかなりあります。たとえば、猛牛は、頭究歩角角行となっており、全く違っています。
いろいろ検討材料があります。象戯圖(1592年)よりもずっと古い写本かも知れません。桂馬の動きがまだ二中暦の動き(桂馬前角超一目)だった頃の写本でしょうか。是非知りたく思うのは、そもそも、嘉吉三年写本には、駒の動きを示すマークはついていたのかどうかということです。
ひとまず置きます。近々詳しく投稿いたします。
2013年
1月
01日
火
38)摩訶大将棋の特徴:成りのタイミング
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
2013年の最初の投稿は、まだ結論がはっきりしていない成りの問題について書こうと思います。象棊纂圖部類抄では、成り駒は明記されており問題ないのですが、いつ成るかの記述がありません。大将棋あるいは中将棋の成りのタイミングと同じにするという考え方もあり得ますが、古文書に記述がない以上、結論には至りません。何よりも、摩訶大将棋を対局したとき、面白くなければ、それはかつてのルールではなかっただろうと考えています。
現時点では、以下のように考えるのが適当だと思っています。この説は今行われている摩訶大将棋・順位戦のルールとは少し違っていますが、こちらの方がより古文書に則した表現となっています。実戦上は、ほぼ同じ指し方になると思いますので、あまり状況は変わりません(成るか成らないかがほぼ同じ)。
摩訶大将棋の成りの規則(成りのタイミング)
1)師子、奔王、龍王、龍馬: 不成
2)走り駒・踊り駒: 敵陣にて駒を取れば成る(*1)
3)上記以外の駒: 敵陣自陣を問わず駒を取れば成る(*2)
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*1)歩の並びの次の列(走り駒)、その次の列(踊り駒)が該当。すべて金に成る。
*2)各駒固有の成り駒になる。ただし、取った駒が提婆/無明だった場合、教王/法性に成る。
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以上が成りの規則ですが、この規則は象棊纂圖部類抄の次の記述(マイクロフィルム番号:80)から類推したものです。
何馬にても敵方の無明を取りたる馬を敵の内外を論ぜず、
其所より取替えて法性に成りてつかふなり
この記述から、摩訶大将棋で何らかのイベントが起こるタイミングとして、1)敵陣に入る、2)駒を取る、の2つが候補となり得ることがわかります。これを成りのイベントに適用してみました。次の2つのケースを考えてみます。
a)敵陣に入れば成る
これは本将棋や中将棋、あるいは平安将棋から考えて妥当かも知れませんが、このルールで摩訶大将棋を対局すると面白くありません。つまり、下段3列の小駒(成れば、いわゆる奔駒となり、ダイナミックな戦いができます)は敵陣までが遠く、なかなか成れません。
b)駒を取れば成る
このルールでは、走り駒・踊り駒が1回だけの攻撃となりますので、やはり面白くありません。攻撃後に金となるため、摩訶大将棋に固有の走り・踊りの特徴がほとんど出せません。
どちらかと言えば、b)が通説ですが、結局は、どちらも面白くないわけです。古文書の記載に反することなく、どのように解釈を進めれば、面白くなるのか? この方向で、成りのタイミングを解釈したのが、上記ルールの2)3)となります。基本的には駒を取れば成る、ですが、走り駒・踊り駒に対しては、「敵陣で」取れば、という条件を付けました。
ところで、ここで、古文書の上記原文(少し意訳しますが)の、『敵陣自陣を問わず駒を取れば・・・』という箇所が意味を持ってきます。もし、法性への成りのことを記述するなら、上記原文は、敵陣自陣を問わず、という意味に相当する箇所は不要であり、
「何馬にても敵方の無明を取りたる馬を、其所より取替えて法性に成りてつかふなり」
これで十分でしょう。
駒を取るとき「敵陣で」という条件のつく場合が他にあった、だから、敵陣自陣を問わず、という注釈が必要だったのではないでしょうか。それが、走り駒・踊り駒の成りの条件:敵陣にて駒を取れば成る、だったのではと考えました。
なお、投稿33)で紹介したルールでは(教王、法性への成り解説は省略していますが)、
1)敵陣に入ったとき(強制成り)
2)相手の駒を取ったとき(成りか不成りかの選択が可能)
となっています。実戦では、ほぼ同等ですが、成りか不成りかの選択ルールに関して文献上の根拠がないため、問題に思っていました。本稿のルールでは、成りか不成りの選択をルールとせずに同じことを実現できます。つまり、走り駒・踊り駒(不成りを選択したい駒)は、敵陣以外で駒を取ってもルール上不成りです。一方、小駒(成りを選択したい駒)には影響がありません。
また、本稿のルールでは、駒を取らない限り、走りと踊りが敵陣でも生きますので、より激しい攻撃となります。ゲームバランスは実戦対局で確認しなければなりません。終盤、駒のすいた敵陣に鉤行、摩羯、狛犬が入った場合ですが、攻撃が強くなる分には問題ないだろうと考えています。確認の上、ルールをきちんとした文面で公開します。いましばらく時間を。
2012年
12月
26日
水
37)摩訶大将棋の特徴:踊り駒(続き)
投稿36)の続きです。
3)猛牛・飛龍
3目踊である金剛(四方)・力士(四角)の、2目踊バージョンが、猛牛(四方)・飛龍(四角)と考えるのが自然です。ただ、象棊纂圖部類抄には、猛牛・飛龍については直接の記述はありません。関連する記述が、驢馬の箇所にあり、次のとおりです。
上下踊二目不踊一目、如猛牛
2目を踊る、1目をば踊らず、が順当な読みとなります。なぜ、「猛牛の如し」なのかですが、猛牛が上下左右の2目踊り、驢馬が上下の2目踊り、ということで納得できます(*注1)。
ところで、飛龍の方ですが、関連する記述は中将棋の箇所に出てきます。
鳳凰飛角、不如飛龍
とあります。
鳳凰は四角に2目跳ねる駒、一方、飛龍は四角に2目踊る駒、と考えれば、不如飛龍の意味がはっきりします。鳳凰はななめ1目にある駒(敵も味方も)を越して進みますが、飛龍は着地点は同じでも、越した敵駒をとることができます(つまり、これが踊りの特徴です)。鳳凰はjump、飛龍はjump and eatの駒です。
古文書には、飛龍がななめ1目に進むことができないとは書いていませんが、
1)猛牛と飛龍が対応した関係にある(金剛と力士の対応関係と同じ)
2)猛牛が1目に進むことができない
この2点から、飛龍はななめ1目に進むことはない、と解釈できます(*注2)。
まとめますと、次のような記述があったとしてもおかしくなかったと考えています。
猛牛:四方踊二目不踊一目
飛龍:四角踊二目不踊一目
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*注1:驢馬は、この箇所では踊りと書かれていますが、別の箇所では跳ねると書かれています。現状、驢馬を2目越しの駒と考えています。
*注2:平安大将棋の飛龍の動きは、二中歴には「四隅超越」と表現されています。以下、根拠のない話しではありますが、摩訶大将棋の飛龍と着地点は同じで、しかし、まだ踊りの概念が作られていなかったのだろうと想像しています。
2012年
12月
24日
月
36)摩訶大将棋の特徴:踊り駒
摩訶大将棋を最も特徴づけるものは踊り駒の存在で、正行度で踊る(直線的に踊る)駒が、7種類あります。大将棋や中将棋にもある師子(獅子)の駒も踊りの範疇にはいるわけですが、これは不正行度の踊り(じぐざぐに踊る)です。
本稿の踊りの動きは1592年の写本である象棊纂圖部類抄に基づいてまとめられています。摩訶大将棋が現代に伝わっていない以上、古文書の記載だけが唯一の拠り所となりますが、十分な記載とは言えません。そうした場合、試験対局を重ねることで妥当な結論を選択することになります。まず、踊り駒の定義ですが、次のように表現してみました。
踊り駒の定義:1手で複数個の駒を取ることができる駒(*注1)
以下、踊り駒の具体的な動きを古文書の記載と合わせて検討します(*注2)。
駒の動きについては次のサイトに一覧・図示されていますので、是非ご覧下さい。
http://makadai.makomayo.com/comas/
1)狛犬(こまいぬ)
師子との対比で動き方の解説がなされています(*注3)。
師子の動き方は確実ですので、これを手がかりにできます。
(一部読み下し)
四方四角踊三目其中一目二目要に随てこれをつかう、
師子の如し、但し師子は踊二目不正行度、狛犬は踊三目八方正行度す
古文書にある「師子の如し」がキーポイントとなります。2目踊りの師子が2駒を取れますので、3目踊りの狛犬は3駒を取ることができます。また、師子が味方の駒を飛び越せるように、狛犬も飛び越すことができます。師子は王将2回分の動きで最大2駒を取りますが、狛犬の場合は、直線的に3目を進み(正行度)、敵駒が線上の1目2目3目にあった場合全部とることができます。
「其中一目二目要に随てこれをつかう」
この記述から狛犬の着地位置は、3目に限らず、2目でも1目でもよいと解釈できます。2目に着地した場合は2目踊りとなります。1目の場合は、踊りの特殊性はなくなります。
2)金剛・力士
方向の違いだけで動きは同じですので、金剛についてだけ説明します。金剛の記述は次のようになっています。
四方踊三目不踊一目二目越馬、四角歩一目
不踊一目・・の箇所を以前の投稿9)では、踊らざれば一目、と読んでしまい、解釈を間違ってしまいました。ここは、
三目を踊る、一目二目をば踊らず、馬を越す、
と読むべきで、この読みですべて解決したように思います。つまり、金剛は四方(前後左右)で狛犬と同じく3目踊り(飛び越えた相手駒も取ることができる)ですが、着地点はいつも3目のところだけとなります。1目2目に進めることはできません。「一目二目要に随てこれをつかう」ことのできるのは狛犬だけで、金剛と力士はこれができません。
2目踊りの飛龍と猛牛も同じ理由で、1目だけ進めることはできません。「踊り2目、1目をば踊らず」、とありますので。ただ、あと少し補足が必要で長くなりますので、この項、ここでいったん中断し、後日に投稿します。羅刹、夜叉についてもそのときに書くことにします。
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*注1:余談ですが、踊り=おおどり(たくさん取る)、という言葉合わせの可能性はどうでしょうか。
*注2:本稿の見解は以前の投稿とは違っており、本稿が正しい見解です。投稿9)の内容は無視して下さい。
*注3:これも余談ですが、師子と狛犬は本来ペアで現れるべきで、この点から、師子の導入の一番はじめは、もしかして、摩訶大将棋ではないかとの考え方を持ち続けています(狛犬の駒ができたとき、同時に師子の駒も作られた)。
2012年
12月
22日
土
35)仏教を表現したボードゲーム:摩訶大将棋
摩訶大将棋には仏教関連の駒名が多く、大型将棋の中では最も仏教色の強い将棋です。このブログの始めごろ、公卿の日記の記述から極楽往生との関わりを漠然と考えていましたが、どうもそうではないようです。摩訶大将棋には、仏教の教えが強烈なルールとして組み込まれており、仏教を味わうゲームとも言えるでしょう。
この件については、たとえば、次のWebサイトでも述べられています。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/bknk/maha.html
摩訶大将棋では、提婆(だいば)の成りである教王(きょうおう)、無明(むみょう)の成りである法性(ほっしょう)が、ひときわ重要な駒です。教王と法性は、2つの強い駒の機能を併せ持つため、さらに強く非常に強い駒となります。
教王:奔王+狛犬(正行度3目踊り)
法性:奔王+師子(不正行度2目踊り)
摩訶大将棋は、結局のところ、提婆を教王にする将棋、無明を法性にする将棋と考えていいかも知れません。終盤近く、提婆が教王に成り、無明が法性に成れば、勝ちはほぼ確実となります。また、ルール上、教王と法性は盤面から無くなることはなく、対局中、仏教(たぶん法華教だと思います)がずっと見えています。無明とは何か、法性とは何か、という問いかけでしょうか。
提婆、無明、法性、これらの語句はWebで検索するとすぐにわかります。
たとえば、無明即法性、これは法華経の中にありました。
教王の情報だけが、なかなか見つかりませんでしたが、理趣経には、次のような記述があるようです。
「此の最勝の教王を持せん者は一切の諸魔も壞すること能わず」
ここで、教王が経典を意味することを知りました。教王は、経王、ということなのでしょうか。経王=最もすぐれた経典。もし、摩訶大将棋の教王が法華経のことを指すのだとすると、鎌倉時代、日蓮宗との関連が気になります。摩訶大将棋の創生は、京都ではなく鎌倉だったのかも知れません。そして、鶴岡八幡宮から出土した鳳凰の駒(裏は奔王)は摩訶大将棋の駒なのかも知れません。
話は変わりますが、薬師経には、次のように大型将棋に関係する駒名がかなり現れます。
或有水火刀毒懸嶮惡象師子虎狼熊羆毒蛇惡蠍蜈蚣蚰蚊虻等怖。
若能至心憶念彼佛恭敬供養。一切怖畏皆得解脱。
最古の出土駒が出ている興福寺の国宝館には薬師経がありますので、その関連もあって、
これは!、と思いましたが、そうではありませんでした。調べてみると、他の経典にも、師子、虎、狼、豹、熊は結構でてきます。駒によく使われるのも納得がいきました。
2012年
12月
03日
月
34)第2回 摩訶大将棋ワークショップ(2012年12月8日)
摩訶大将棋のルールは会場にて冊子を用意しています。初めての方もどうぞお気軽にご参加下さい。午後4時ごろまで受け付けをしています。
第2回 摩訶大将棋ワークショップ
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日時:2012年12月8日(土)10:00~17:00(受付:9:40~16:00)
場所:大阪電気通信大学 駅前キャンパス 1階小ホール(京阪電車寝屋川駅下車:徒歩3分)
参加費:無料
主催:ゲーム学会
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プログラム(予定)
セッション1(10:00~11:00)
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摩訶大将棋の模擬対局
甲斐誠也、田村一樹、大野 峻
摩訶大将棋用デジタル将棋盤の製作
福井俊介、海林元樹
デジタル摩訶大将棋の開発
飯田 聡
古文書で読み解く摩訶大将棋
高見友幸
セッション2(11:00~17:00:休憩随時)
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摩訶大将棋の対局体験
大型将棋に関する意見交換・談話会
対局に使用する盤と駒:次の3セットを用意しています。
杉の将棋盤&黄楊の駒
檜の将棋盤&楓の駒
紙の将棋盤&杉の駒
この他、デジタル将棋盤も展示します。駒の行先表示や相手駒の効き表示が実装される予定です(現在開発中)。
また、Androidタブレットのタッチパネル上で動作するデジタル摩訶大将棋も
用意しています。21インチ・タッチパネルのタブレットを使用予定です。
2012年
11月
22日
木
33)第9回寝屋川囲碁将棋まつり(2012年11月23日)
アナウンスが前夜になってしまいましたが、明日、大型の黄楊の駒で摩訶大将棋の模擬対局を行います。時間、場所は次のとおりです。
日時: 11月23日(祝)10:00~17:00
場所: 寝屋川市民会館
詳しい場所は、次のサイトをご参照下さい。
http://igoshogineyagawa.org/
模擬対局ができる将棋盤は1面だけとなります(黄楊駒 & 吉野杉の将棋盤)。
予定だったLED表示のデジタル将棋盤は間に合いませんでした。初展示は12月8日(土)の第2回摩訶大将棋ワークショップでと考えています。デジタル将棋盤はほぼ動作していますので、明日は、プロトタイピング版を撮影したムービーのみ持っていきます。
展示用に10.5インチタブレットのデジタル摩訶大将棋も1面あります。ただ、10.5インチですと、マス目が小さくなり、小指でのタッチとなります。指しにくく実戦には不向きです。当初予定では、23インチのタッチパネルを使うはずでしたが、間に合いませんでした(明日の午前に配達予定です!)。こちらも、12月8日ということになります。
対局は、多くの方に体験していただきたく思いますので、持ち時間を次のようにしました(とは言え、これでも1時間少しかかってしまいますが)。
持ち時間:20分
秒読み:20秒(3回まで)
双方が秒読みになった時点での取った駒の数を数えます。だいたいの勝ち負けの目安になりますし、摩訶大将棋の中盤までの雰囲気を十分味わうこともできます。
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問題となる摩訶大将棋のルールですが、ここより以降は、また詳しく別投稿として取り上げたいと思っています。ひとまず、次のように設定しました。これが一番面白くかつ史実に近いだろうと感じています。
古文書によれば諸説ありますが、駒の動きと駒の成りのルールについては、象棊纂圖部類抄(1443年の写本を1592年に写本したもの)の記述を基にして、まとめました。古文書はこの文献のみ参考にしていますのでご了承お願いします。ルールの冊子はぎりぎりの今日出来上がっています。リクエストをいただいています方々には、来週早々にデジタル版をお送りいたします。
象棊纂圖部類抄で不明なのは、羅刹、夜叉、桂馬、驢馬が越か踊かという点と、成りの規則です。これらの点は他の駒との釣り合いや妥当性で決めました。詳しい理由は会場にてお話しいたします。
主な駒の動き:
力士:4角3目踊り(1目2目は越)、上下左右に1目歩く
金剛:上下左右3目踊り(1目2目は越)、4角に1目歩く
狛犬:4角上下左右3目踊り(1目2目も着地可能)
羅刹:前2角3目踊り(1目2目は越)、下左右に1目歩く
夜叉:4角2目踊り、前に1目歩く
飛龍:4角2目踊り
猛牛:上下左右2目踊り
桂馬:前2角2目越し
驢馬:上下2目越し、左右に1目歩く
主な成駒:
麒麟:師子に成る
鳳凰:奔王に成る
後ろ3列にある小駒:奔駒に成る(奔の冠がつく:金将 --> 奔金)
奔駒の動き:動く方向は成る前と同じで、その方向に走る。ただし、1目2目は越。
成りの規則:次のいずれかのケースで成ることができる。
1)敵陣(端より6列目まで)に入ったとき(強制成り)
2)相手の駒を取ったとき(成りか不成りかの選択が可能)
また、いずれ詳しく投稿いたします。それでは、明日、お会いできること楽しみにしています。よろしくお願いいたします。
2012年
11月
02日
金
32)摩訶大将棋と摩訶大大将棋: 名称について
摩訶大将棋と摩訶大大将棋は同じものを指しています。ときどき聞かれますが、どちらの名称でもいいのではと思っています。
摩訶大大将棋という名称ですが、古文書(たとえば、象棊纂圖部類抄)では、大型将棋をマス目の数の順番に並べているため、
大将棋(15マス)、大大将棋(17マス)、摩訶大大将棋(19マス)、
となっています(字は、古文書によって様々ですが)。この場合、大大将棋よりさらに大きいという意味で、摩訶大大将棋という名称が使われているものと思われます。摩訶は強調のための語句です。
ただし、歴史的な発展過程から見ますと、成立した順が、
大将棋 --> 摩訶大将棋 --> 大大将棋です(マス目の順ではありません)。
この場合は、大将棋より大きいという意味で、摩訶大将棋という名称になります。
実際、古文書のいろいろな箇所で、摩訶大将棋という語句が見られます。Webで閲覧できるものとしては、国立歴史民俗博物館の聆涛閣集古帖・戯器の摩訶大将棋図の画像があります。
http://www.rekihaku.ac.jp/publication/rekihaku/130witness.html
このブログでは、歴史的発展の方を重視し、摩訶大将棋という名称を使っています。古典将棋は発展の歴史が結構面白いわけですが、この点は、将棋の歴史(妄想)のブログに詳述されています。
2012年
10月
29日
月
31)摩訶大将棋の模擬対局(お知らせ)
開催直前での参加申込みとなりましたので、まだWebページには案内されていませんが、先週、出展することが確定しましたのでお知らせします。お近くの方、いかがでしょうか。
第9回寝屋川囲碁将棋まつり
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日時: 11月23日(祝)10:00~17:00
場所: 寝屋川市民会館
出展タイトル: 摩訶大将棋の模擬対局(案:予定)
出展者: 甲斐誠也 & 大阪電気通信大学 高見研究室(案:予定)
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当日は、寝屋川市長杯争奪囲碁将棋トーナメントがあるそうです。その他、駒の製作実演や中将棋の展示・対局もあります。入場料500円です。
摩訶大将棋の模擬対局は黄楊の大型の駒を使うことができる見込みです。デジタル盤(行き先をLEDにて表示)ができているかも知れません(可能性60%)。棋譜の自動生成も現在開発中ですが、これが間に合う可能性は30%ぐらいでしょうか。
摩訶大将棋の駒の入手先や、駒のサンプルも展示の予定です。今のところ、次のサイトにて購入可能です。
http://item.rakuten.co.jp/nekomado/shogi-052/
駒の字を印字した透明シールを配布できればと思っています。当日、インクジェットプリンタを持っていくか、または、デジタルデータの配布でもいいかも知れません。まだまだ未定なこと多いですが、ひとまず、本投稿にて初アナウンスします。
2012年
10月
24日
水
30)気になっていた象戯圖のこと
今日、象戯圖のことをある方より少しだけお聞きすることができました。
ありがとうございました!
曼殊院宮が所持の本(1443年に写本したもの)は、古典将棋の原典とでもいうべき古文書です。この本の写本は4巻が残っているそうです。水無瀬神宮に2巻、東京都立図書館に1巻、大橋家文書に1巻です(のはずです)。水無瀬神宮の1巻が象戯圖と呼ばれているもので、東京都立図書館所蔵の1巻が象棊纂圖部類抄です。
私は象棊纂圖部類抄のコピーを持っていますが(実物も見ています)、気になっていることのひとつが、巻物中の次の箇所でした。
(文章の冒頭より、読み下し、一部意訳)
皆金に成るその他の小駒は皆走り駒になる。元の行き先を違わずして走る也。そのうち1目2目をば踊らず、皆駒を越す。麒麟鳳凰の如くには非ず。(以下略)
文の始まりが唐突です。この文章の前に何かの文章があったのではと思っていましたので(写本の写し漏れがあったのではと)、この点、同じ写本である象戯圖と比べてみたかったのですが、今日、それがかないました。
結果、象戯圖も同じ記述だそうです。というわけで、この件、残りは水無瀬神宮のあと1巻と大橋家文書の1巻となりました。ゆっくりと機会を待っています。
ところで、上述の箇所は、これまであまり問題にされていませんが、摩訶大将棋にとって非常に重要な箇所です。ひとつは踊りの定義を限定できること、ひとつは小駒の成駒(奔金、奔狼、奔熊等々)がかなりユニークなことです。
たとえば、力士は、3目を踊りますが(1目2目にある敵の駒も取ることができる)、1目2目に行くことはできません(つまり、踊らざれば1目2目、駒を越す)。
しかし、狛犬は、3目を踊り、かつ1目2目に降り立つこともできます。踊らざれば1目2目駒を越す、ではなく、要に随いて1目も2目も使うと書いてあるからです。
奔金は、1目2目を超えて走る駒のようです。つまり、すぐ前に駒がいても飛び出していけます。逆に、1目2目にいる敵の駒は取ることができません(1目2目をば踊らず、ですので)。
踊り駒のこと、奔金のこと等、積もる話は山のようにあります。以前の踊りに関する投稿で思い違いをしていたこともあり、その修正もしないといけません。
これらの件、また投稿いたします。
2012年
10月
20日
土
29)水辺で楽しむ摩訶大将棋(水都大阪フェス2012)
水都大阪フェス2012(つなぐプロジェクト)に出展し、先週から展示をしていたのですが、アナウンスの件、うっかりしていました。次のとおりです。
水辺で楽しむ摩訶大将棋
甲斐誠也 & 大阪電気通信大学 高見研究室
日時:10月13日(土)~10月21日(日)
午前10時~午後5時
場所:大阪中之島公園
中央公会堂前 水上ステージ横
摩訶大将棋の対局もしています。
どうぞお越し下さいませ。
http://www.osaka-info.jp/suito2012/index.html
http://www.osaka-info.jp/suito2012/pdf/suito_web.pdf
2012年
9月
21日
金
28)仮説:平安大将棋の駒の初期配置
以前、02)の投稿で、大大将棋の駒初期配置について取り上げました。通説は間違いなのではということを書きましたが、本稿の主旨も同じです。今回は平安大将棋についてです。通常考えられている平安大将棋の初期配置は、二中暦の文面どおりに次のように考えられています。
注
歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩
奔飛 虎 横 虎 飛奔
香桂鉄銅銀金玉金銀銅鉄桂香
-----------------------------------図1
図1で飛は飛龍ですが、この飛龍の配置と駒の動きについては、二中暦では、
飛龍在桂馬之上 四隅超越
となっています。
飛龍在桂馬之上 => 飛龍は桂馬の上にある、という文をそのままに解釈すると、当然、図1にようになります。しかし、これはきれいでありません。むしろ、下のようにきちんと並んでいる方が自然です(図2)。
注
歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩歩
奔 飛 虎 横 虎 飛 奔
香桂鉄銅銀金玉金銀銅鉄桂香
-----------------------------------図2
二中暦の記述を前提として、では、それをどう解釈すれば図2のようになるのでしょうか?
飛龍在桂馬之上 => 飛龍は桂馬の行先上にある
と考えてみました。将棋の歴史(妄想)のブログでも指摘されていますが、駒のちょうど上にある場合は、頂にありという記載がされており、横行、猛虎、奔車の3つについてはそう書かれています。しかし、飛龍についてのみ、飛龍在桂馬之頂、とは書かれておらず、桂馬の上なのです。ここを攻略点としました。なお、駒の動きは次のとおりです。
桂馬:ななめ前方の2マス目に跳び越す(角角越2目)
飛龍:ななめ前方・後方の2マス目に跳び越す(角角腎腎越2目)
図2のような配置にすれば、桂馬と飛龍が交互にななめに飛び越して出て行けますので戦略的に明解です。似たような駒の配置は摩訶大将棋にも見られ、角行のななめ下に飛龍、竪行の真下に猛牛、龍馬のななめ下に羅刹、といった配置です。たとえば、ななめ方向の攻めに、角行と飛龍、龍馬と羅刹が連携するという戦法になります。
今回もまた桂馬の動き(角角越2目)が重要なキーポイントとなりました。古文書に記載されている昔の桂馬の動きをもとに、これまで、次の3点を取り上げています。
1)普通唱導集の大将棋の駒組(投稿25)
2)宝応象戯と平安将棋の関連性について(投稿27)
3)平安大将棋の初期配置(本稿)
仮に桂馬の動きが今も昔も同じだったとすれば、上の3件は説明ができません。特に、1)と3)が説明できる点、古文書に記載されている桂馬の動き(角角越2目)はかなり信頼できるのではないかと思っています。
2012年
9月
19日
水
27)宝応象戯の伝来仮説と習書木簡の酔象
日本の将棋の起源を、8世紀の中国、宝応象戯に求める考え方は、Web上にいくつか見つけることができます。ここでは、宝応象戯の説明を抜きにして、一気に本論のみ書くことにします。宝応象戯については、2つのキーワード(宝応象戯、平安将棋)をあわせて検索してもらえればと思います。
25)の投稿にて、昔の桂馬の動きが、今の動きとは違うという可能性について書きました。ただ、これは不思議なことで、チェスにも象戯にもチャンギにもタイの将棋にも全部、桂馬の動きが存在するからです。
ところで、桂馬の動きが見当たらない将棋がひとつあり、それが宝応象戯です。また、宝応象戯は駒の名称が2文字というのも共通点で、このあたりのいろいろは、将棋の歴史(妄想)のブログにも詳細な解説があります。宝応象戯と平安将棋の関連性については、各説さまざまですが、本稿では、次の2点、想像を膨らませたいと思います。歩卒=歩兵、輜車=香車、については、完全に合致ですので、ここには異論がでません。
1)天馬 = 桂馬
天馬は角角越3目、桂馬は角角越2目と、若干の違いはあります。ここで注目したいのは、天馬が、今の桂馬の動きではないということです。
2)宝応象戯のふたつの軍の将が、玉将と酔像。
習書木簡の酔像が確かだとする場合、酔像のポジションは、王将に相当しかあり得ません。ただし、38枚の将棋(玉の上に酔像がある)ではなく、想定されるのは36枚の将棋で、一方の王将が酔像です。こう考えてみると、後に大将棋が作られたとき、酔像が成れば太子(=王将相当)というルールがあったのも、かなり自然に思えてきます。
というわけで、25)と26)の投稿は、宝応象戯を持ち出すことでうまく結びついてしまいました。もし、昔の象戯(今の桂馬の動きがあるはず)が日本に伝わってある程度流行したのだとすれば、平安将棋には、今の桂馬の動きがあったはずです。しかし、ありません。これは宝応象戯が物(昔の象戯)としてではなく、書物の中の話、物語としてまず伝わったからではないかと考えてみました。
将棋は物としてではなく、物語として伝わってきた。
本稿、このフレーズが書きたかっただけかも知れません。
2012年
9月
17日
月
26)興福寺の習書木簡:横行の駒? 卆の駒?
先日、橿原考古学研究所附属博物館に行ってきました。いい博物館でした!
興福寺の出土駒が常設展示されています。写真撮影とWeb掲載の許可をいただきましたので、1枚、有名な習書木簡の写真、右に置きます。実物はやはり迫力です。何しろ1000年前に書かれた文字ですから。
この習書木簡には、歩兵、金将、酔像の3つの駒の字があると発表されています。酔象の駒は酔像だという解釈のようです。本の中の写真で見たことはあったのですが、そのときは、わかりにくいこともあり、酔像の文字がどこに書かれているのかは確認していませんでした。展示の前ではかなりじっくり何度も眺めました。
酔像(酔象)の文字は、酔は何とかわかりますが、像の方は思い込みが必要です。酔像の駒があるという解釈以外に、次の2つも可能かも知れません。
1)横行が書かれている可能性:
酔像よりもさらに不明確ですが、この場合、二中暦に記載のある駒ということで。
2)卆が書かれている可能性(酔の右だけを一文字と解釈):
木簡には、7、8個の歩兵が書かれています。歩兵に相当する、象棋の卆の駒も2個含まれているという解釈です。卆の下に象の駒も書いたことになります。将の駒もあります。
2)の方が面白そうです。象棋が伝来してきたちょうどその時代に、若い僧侶が将棋と象棋の駒の字を取り混ぜて書き遊んでいた、という風景でしょうか。酒田市で出土した「兵」の駒も象棋由来かも知れませんが、こちらとの関連も見えてきます。「卆」の駒は出土されないでしょうか。
2012年
8月
23日
木
25)桂馬の動き: 昔は違っていたかも知れません
桂馬の動きは、今も昔も同じだと思っていましたが、そうでないかも知れません。古文書のWeb公開・学会発表についていま申請中ですので、以下、結論だけ書き、これまでの資料だけでフォローしたいと思います。
桂馬の動きは、二中暦に記述されています。
桂馬前角超一目
「前の角を一目越える」、つまり、左右のななめ上、2マス目に飛び跳ねる、と解釈できます。そう読まず、左右のななめ上のマス目のひとつ前のマス目、と当然のように思ってしまうのは、現代将棋の桂馬の動きを知っているからでしょう。結論は、昔の桂馬は、左右のななめ上、2マス目に飛び跳ねると、いうものです。他の古文書にそれらしき記述もありました! 以下、これまでにある資料からのフォローです。
1)摩訶大将棋の2列目の整然さ:現代将棋の動きだと、桂馬だけが奇妙になります。
驢馬(頭究・越2目)
桂馬(角角・越2目)
猛牛(頭究腹背・踊2目)
飛龍(角角腎腎・踊2目)
上の踊りの意味についてもほぼ解決していますので(解決していそうに思えます)、この件また後日にでも。
2)普通唱導集の記述:現代将棋の動きだとすると、桂馬で支えるの無理です。
仲人嗔猪之合腹 昇桂馬而支得
の下りですが、これは、次のような配置ではないでしょうか。
○○○嗔仲○
○○○○○○
○○○○○桂
初期配置は、大将棋の場合、次のとおりです。
○○○○仲○
○○○○○○
○○○○○○
○○○嗔○○
○○○○○○
○桂○○○○
仲人(1目前進)、嗔猪(4目前進)、桂馬(ななめに2回跳ねる)
仲人は嗔猪が守り、嗔猪は桂馬が守っています。
たぶん、ある時点で、桂馬は、チャトランガの馬の動き(ただし、2方のみ)に変わったのでしょう。いつ変わったのか、ひとつの候補としては、中将棋の成立以後だと思われます。平安将棋から、いくつかの大将棋を経て、中将棋ではいったん桂馬が姿を消します。まだ中将棋が全盛だった時代、ある時点で、小将棋の持ち駒ルールが編み出され、それと同時に桂馬の動きも改変されたのではないでしょうか。もし桂馬の動きが昔のままだったとしたら、将棋の戦法も奥深くならないかも知れませんので、桂馬の動き改変の件かなり重要な点かと思います。
2012年
8月
15日
水
24)泰将棋は箸をもって指すべし(再考)
以前の投稿、21)の投稿ですが、「箸をもって指すべし」、という泰将棋に関する記述について書きました。古今将棊圖彙の中にある文章です。そのときは、箸ではなく、著の書き間違いだろうという見解、つまり、駒の種類が多く複雑なのでマニュアルを見ながら指せばいい、ということで落ち着きました。しかし最近また、箸のままでいいのではないかという考えでいます。
泰将棋は箸をもって指すべし。
箸は、はしではなく、サイコロと見るべきかも知れません。昔は、箸の形状をした棒をころがしてサイコロのかわりとしていたらしいのです。箸と書いてサイコロを意味し、これは、六博(将棋の前身という説もあるようです)で使われていたとのことです。
参考サイトは、いろいろありますが、たとえば、次のところどうでしょうか。
読み応えあるサイトです。ここで、サイコロを検索してみて下さい。
と金倶楽部:世界の将棋史 21世紀の知見
http://www.tokinclub.com/dp/node/207
サイコロをもって指すべし。
どういうことでしょうか。泰将棋のルールとして、サイコロを使う?
もし、ルールだとすると、たとえば、サイコロの目の数だけ連続して指すことができる、というのはどうでしょう。対局時間は短くなります。戦略性もかなり低くなりますが、面白いかも知れません。
この件、夏休み中に確認してみます。泰将棋だけでなく、摩訶大将棋についてもこの方法で試験対局してみたいと思います。1手ごと交互に指す、このルールは大型将棋に関してはまだ自明ではありませんので(古文書では確認できない)、確認の価値はありそうです。
2012年
6月
08日
金
23)摩訶大将棋の駒を作ります --8
昨日、駒のサンプルが届きました!
とり急ぎ、お知らせします。
つい麒麟と鳳凰の駒を撮影しましたが、これだと摩訶大将棋の駒ということにはなりませんね。いただいたサンプルは、このほかに、玉将(自在王)、無明(法性)です。また後日にでも。
幅36mmの駒です。サンプルでは獅子と書かれていますが、1592写本のとおり、師子にしていただくことになっています。
2012年
6月
07日
木
22)摩訶大将棋の駒を作ります --7
2セット目を作ります。今度は黄楊の駒です。今、ある人を介して、天童の駒師さんに摩訶大将棋の駒の制作をお願いしているところです。駒のサイズは普通よりも大きめの駒でお願いしました。摩訶大将棋の駒数の多さに加え、駒の大きさでも迫力を持たせれたらということです。
今週か来週にサンプルの駒が届くと思います。楽しみです。
摩訶大将棋は盤面の駒配置だけのものであり実際には指されていないだろう、本やWebを読んでいるとこういう考え方にときどき出会います。指されていたことを類推させる古文書の記述はあるわけですが、ただし、どの程度指されていたのかまでは不明ですので、指されていた、指されていない、の判断は、現状、個人の主観だけの問題となっています。
摩訶大将棋のトーナメント戦をしたいと思っています。摩訶大将棋を、まずは本来の駒の動かし方で、実際に対局すること、本気で対局すること、このことは重要です。踊り駒の並ぶ2列目の動きが議論となります。「踊り」をどう解釈するか、この点が焦点です。
2012年
5月
14日
月
21)泰将棋は箸を使って指すべし
摩訶大将棋については、書きたいことがたくさんあるのですが、時間がなかなかとれません。が、今夜、どうしても紹介したいことが1点あります。泰将棋のことです。先週、東京出張の帰りに、「古今将棊圖彙」のコピーを東京国立博物館でもらってきました。古文書を読み解くという観点からも大変面白い文書ですが、この点はまた後日に詳しく書くことにします。泰将棋については、見開きで1枚分の分量ですが、この中に次のような記述がありました。
以箸可指
「箸をもって指すべし」、だそうです。
これを比喩とみるか、本当とみるか。駒数が多くて駒がつかみにくいので、箸でつかんだらいいよ、ということを言ってるのかも知れません。この写本を作った人は、実際、箸を使っていたのかどうか、いずれにせよ、泰将棋は指されていたわけです。
ところで、泰将棋の成駒のことも書かれています。成駒は5枚で、酔象(太子)、麒麟(大龍)、獅子(奮迅)、無明(法性)、提婆(教王)となっています。たぶん、鳳凰の駒は、書き忘れたのだと思います。
泰将棋の文献での初出は、象戯図(1591年)=象棊纂図部類抄(1592年)=行然和尚の持っていた本(年代不明)ですが、ここには、泰将棋の成りは中将棋に従うと書かれています。謎はまだまだ多そうです。実は、先日、泰将棋の古文書(まだ未公開のもの)を見たという人と話をしました。この件についても詳細わかり次第書きます。
2012年
4月
12日
木
20)奔獏の駒と土御門天皇
これまでに出土した13世紀以前の駒の中で、大将棋に固有の駒は、鳳凰(鎌倉の鶴岡八幡宮)と飛龍(平泉)の2枚だけだったと思います。出土した場所は、どちらも、時の権力者の土地です。では、問題の奔獏かもの駒が出土した川西遺跡は歴史的にどのような場所だったでしょう。先日の高松出張の折、帰りは川西遺跡にも寄りました。低い山あいの中、空が大きく広がっていました。
川西遺跡に関する報告集の文面では、鎌倉時代初頭の瓦が出土しているとのことです(瓦を使用していたすれば、この時代では、かなり高貴な人物がいる建物だった可能性あり)。また、川沿いに石積みの護岸施設もあったらしく(これまでに発見された河川の護岸施設では日本最古らしいです)、船着き場として使われていたと考えられています。
11)の投稿では、土御門天皇のことを書きました。土御門天皇は阿波の国、川西の、この瓦葺きの屋敷を住居としていたのかどうか。
たとえば、15)の投稿にて引用の大下氏の文献(3ページ目~4ページ目:明月記からの引用)では、1199年5月10日から5月20日の間に4回の将棋の記述があります。このとき、土御門天皇は4歳、すでに在位中です(在位期間:1998年~1210年)。幼少の頃から周辺には将棋をする環境があり、おそらく自然と将棋を好むようになったものと思われます。
2012年
4月
11日
水
19)奔獏かもの駒:徳島県川西遺跡からの出土
高松への出張の途中、徳島県埋蔵文化財センターに寄ってきました。11)の投稿の奔獏かもの駒についておうかがいするためです。突然の訪問でしたのにいろいろと教えていただきました。問題の駒の可視光・赤外光の写真も見せていただきました。表も裏もはっきり見ることができました。ありがとうございました!
Webでは、たとえば、次のサイトに写真があります(西日本新聞)。
http://qnet.nishinippon.co.jp/shogi/20090313/20090313_0001.shtml
はっきりした写真であらためて見ますと、1文字目の「本」の字は奔と見ていいように思います。2文字目の「横」の字ですが、次の2点に注目です。上図にそのだいたいの感じを書いてみました。左側の字が「横」とみなされている字です。
1)木偏と思われている部首についてですが、木の右ななめ下にのびていく線が、実はありません。一見すると木偏に見えてしまいますが、線の数では、むしろ獣偏であり、つまり獏の部首です。
2)右側の真ん中の部分ですが、「横」の字だとしますと、ここは「由」という形がはいるはずです。ところが、由の真ん中の線は駒の割れ目がそう見えているだけなのではないでしょうか。真ん中の線はないように見えます。
駒の裏ですが、無地とみてよさそうです。ですので、大大将棋の水牛(裏が奔獏)、泰将棋の奔獏(裏は金将)の可能性はなくなりました。大大将棋の奔獏という選択肢だけが残ります。
2012年
4月
04日
水
18)摩訶大将棋の序盤の特徴:踊り駒
09)の投稿でも書きましたが、摩訶大将棋では、歩の列の後ろに走り駒が並び、走り駒の列の後ろが踊り駒の列となっています。この配置が絶妙です。右図では、飛龍、力士、羅刹が序盤早々踊っています。中央に位置する5枚の踊り駒はどれも3目踊りですので、まず一気に歩の前に踊り出ることができます。飛龍は2目踊りですが、角道に沿って使うのが面白いかと(右図ではまだそうなっていませんが)。
ところで、摩訶大将棋の通説のルールでは、踊り駒の動きが間違っているのではと思います(信頼できる古文書とは違っています)。通説では、踊らない駒が多すぎで、これでは、本来の摩訶大将棋の面白さを味わうことができないように思います。大型将棋の解説でよく見られる、「おそらく指されていなかったのでは」という言い方ですが、摩訶大将棋については当てはまらないかもです。
2012年
4月
04日
水
17)摩訶大将棋の駒「自在王」が出土した可能性
玉将の成駒、「自在王」の駒が出土したという報告はこれまでにありません。ただ、出土駒の1つにそうだとみなしても完全否定はできない駒があります。以下のサイトにその文献があります。
http://www.shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/06_miyake.pdf
8ページ目に王将/玉将の出土一覧表が掲載されています。この表の中で、大将棋と関連する可能性のある王将/玉将の駒の候補は4つあり(14世紀以前の出土駒に限定します)、その中で滋賀里遺跡から出土した王将が問題の駒で、裏面の中央に「王」という1文字が書かれています。この駒を摩訶大将棋の王将の成駒である、自在王とみることはできないでしょうか、というのが本稿の問題提起です。なお、残り3候補の駒の裏は無地のようです。
5ページ目には、滋賀里遺跡の出土駒のスケッチが載せられています。13世紀中頃の土器といっしょに出土したらしいですが、後世起源の可能性もあるとの記述があります。無地の裏面に落書きしたというレアなケースも含め、1枚だけですと、強い主張は何もできませんが。。。
2012年
4月
03日
火
16)唱導大将棋の存在
唱導大将棋のことを、先日のワークショップにて教えていただきました。この説は、将棋の歴史(妄想)のブログで、普通唱導集大将棋の提案として詳しく展開されています。すでに1年半前のブログです。
http://blogs.yahoo.co.jp/shoginorekisi/17367224.html
普通唱導集(1300年あたりに成立)の記述から、
1)飛車が最強の駒だったはず
2)したがって、奔王、龍王、龍馬、獅子等のさらに強い駒は存在しなかったはず
という推論です。詳しくは上記サイトをご参照下さい。
確かにそのとおりだと思いました。というわけですので、本ブログの10)の投稿で、将棋の成立順にきちんと唱導大将棋を入れねばなりません。現時点での修正版を下に示します。ところで、唱導大将棋の存在と関連して、次の点を指摘したいと思います。
◎ 普通唱導集が書かれた1300年よりずっと前に、鳳凰の駒(鶴岡八幡宮で出土)や、奔横(私見では、奔獏かと期待)の駒が出土している。つまり、大将棋が指されていたのは1300年よりずっと前のことです。
◎ 1300年当時、大将棋よりも前に成立していた唱導大将棋がまだ指されていました(でないと文献に出てきません)。
この説明として、次の2つの可能性を考えることができます。
a)1300年当時、大将棋はすでに廃れていたが、唱導大将棋は指し続けられていた。
b)1300年当時、唱導大将棋と大将棋(または摩訶大将棋、大大将棋の可能性も)の両方が指されていた。
師子や奔王等の大駒のない唱導大将棋の方だけ残った(aのケース)とは考えにくいですので、bが有望となります。15)の投稿のコメント欄にも書きましたが、普通唱導集の大将棋指しの扱いは、かなり低く、上から数えて56番目、博打打ちよりも下となっています(たぶん、大将棋指しも博打打ち相当だったのでしょう)。日記を書いていた公卿(普通唱導集では1番目の文人に相当)が、世間でそういう扱いの唱導大将棋を指していたでしょうか。公卿は唱導大将棋の発展版である大将棋や摩訶大将棋の方を指していたという考え方はどうでしょう? 2種の大将棋の並存する理由を、2つのプレイヤー層があったということで考えてみました。
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以下、将棋の成立順の修正版です。
1)平安大将棋:
2)唱導大将棋:
飛車・角行の出現
猛牛・飛龍の出現(2目踊り・正行度)
成駒??
P)大将棋:
成駒は3つだけ、残りはすべて不成
Q)中将棋:
多彩な成り
5)摩訶大将棋(=摩訶大大将棋)
ところで、成立順の問題ですが、将棋の歴史(妄想)のブログでは、2-->Q-->P(中将棋が先)の説が取られています。ただ、2-->P-->Q(大将棋が先)という説も却下できません。中将棋から駒数を増やして大将棋を作るのと、大将棋から駒数を減らして中将棋を作るのと、どちらが自然かということになります。また、成駒が唱導大将棋の段階でどうだったかという問題とも関連してきます。この件、まとまりましたら後日また投稿します。現時点では、成駒の問題が私には未解決です。
2012年
3月
31日
土
15)大型将棋と脳トレ
06)の投稿で、三条西実隆の日記を取り上げましたが、大将棋との関連を探るためにはもっと古い時代の日記でなければならないことがわかりましたので、最近は鎌倉時代の日記を中心に調べています。
12~13世紀の日記によれば、主として大将棋が、身分の高い公卿とその家来の間で指されているらしいこと、遊戯ではない何か他の要素があって指されているらしいことがわかっています。次の文献です。将棋をする形態が14世紀を境に(中将棋成立以降とそれ以前とで)異なっているという報告です。
中世日本における将棋とその変遷(大下博昭)
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN10113157/nk_14_23.pdf
また、この報告に関連した事項としてですが、たとえば、明月記(1213年4月27日)には、次のような記述があります。
四位仲房、此間聊病気、昨日自云、心神已不弁前後太惘然、是已及死期、
試差将棋、即與侍男始将棋、其馬行方皆忘、不終一盤云、已以爲覚悟、
是即死期也、太心細、慾見家中懸、侍男巡見家中了、安坐念佛二百反、
即終命、不幸短命太可悲
どうも死期が近づいているようだ、試しに将棋を指してみよう、駒の動かし方が分からない、やっぱりだめだ、そこで、
安坐念仏二百反
と書かれています。多分に憶測ですが、この場合、将棋は死期を悟るためのツールとして使われているようです。極楽往生を真剣に考えた時代、死ぬ直前には念仏を唱えることが絶対だったのでしょうか。このような極端な例でなくとも、大型将棋は、かつては、脳トレであったということはないでしょうか。
自分の家の中で、それも家来とだけしかしないという点、観戦が多いという点、遊戯だけの目的としてはなかなか説明がむずかしいです。
2012年
3月
30日
金
14)デジタル摩訶大将棋(その1)
飯田君がデジタル摩訶大将棋を開発中です(HTML5での開発)。右はその初期画面です。新型iPadで動作しています。
新型iPadを発売早々に買ったのは、デジタル摩訶大将棋を高精細画面でプレイするためです。新型iPadの画面サイズは2048×1536ピクセルで、この場合、摩訶大将棋の1マスは80ピクセルになりますので、駒も80ピクセル相当で表現できます。これが、たとえば、iPad2ですと、画面の横768ピクセルですので、1マスを40ピクセルでしか表現できません。デジタル摩訶大将棋はまさに新型iPadのためのアプリケーションだと思っていたわけですが、、、
実は、ブラウザが1536ピクセルまで対応していないとのことです!
高精細を使いたいときはアプリケーションで作らないとだめということになります。ただ、明日の摩訶大将棋ワークショップの大盤解説は、上図のHTNL5版をプロジェクタ投映して使います。
AS3での実装も同時進行でお願いします。---> 飯田君へ
それと、ユーザー側での駒の動きのカスタマイズが実装すべき重要な機能となりますのでこの機能もお願いです。
2012年
3月
30日
金
13)曼荼羅と小中大将棋: 9・12・15について
また象棊纂図部類抄(1443年文献の写本)からですが、序文の最後の方に次のような文章があります。
肇従縦横三ヶ之秤目
洎于摩訶大々之陣面
(読み下し)
縦横三個ノ秤目ヲ従ハシメテ :肇(はじめ)
摩訶大々ノ陣面ニソソグ :洎(そそぐ)
(直訳)
将棋の盤面を縦横3つに分割して、 :つまり、曼荼羅と同じ分割です
そこに大きな陣面を組み込む。 :駒が曼荼羅の要素となります
将棋の盤面に曼荼羅を見ていたとすれば、盤のマス目を3の倍数に作らないといけません。小中大将棋が、それぞれ、9、12、15マスで、ちょうどこの数に合致しています。中将棋のマス目の偶数が話題になることがありますが、奇数偶数の問題ではなく、3の倍数がキーとなっている可能性も出てきました。
大型将棋が跋扈していた時期を12~13世紀と見積もるとして、当初8マス、13マスだった京都の平安将棋が、9マスの小将棋と15マスの大将棋へと発展していった経緯を、曼荼羅をキーワードにして考えてみました。
曼荼羅だとすると候補は京都ではなく、鎌倉の方だという気がします。当時の京都の公卿は、浄土宗、極楽往生の思想がメインですので、密教(曼荼羅に関連する)なら鎌倉ではないでしょうか。鎌倉には幕府にとって重要な鶴岡八幡宮(源氏の氏神)があり、鶴岡八幡宮は密教寺院でもあります。
大将棋と中将棋は、京都の公卿や僧侶でなく、鎌倉の武士か僧侶が作ったという考え方はどうでしょうか。この場合、大型将棋の成立の流れを2地点で別個に考えた方がよさそうです。小将棋についてはしばらくさておきます。
鎌倉:平安大将棋 --> 大将棋 --> 中将棋
京都:平安大将棋 ----> 摩訶大将棋 --> 大大将棋
同じ京都の町中で、一方は盤面を拡大し、もう一方は縮小したということが、多少疑問ではあったわけですが(だから、摩訶大将棋が中将棋よりも早いと考えていましたが)、発展が離れた2地点で起こったとすれば、大丈夫です。
ところで、大将棋/中将棋固有の出土駒で最古の駒は、鶴岡八幡宮で出土しています(鳳凰です)。この気持ちのいい一致!
11)の投稿に書きましたが、徳島での出土駒が奔獏(大大将棋の駒)だとすれば、こちらは、京都派の方です。
2012年
3月
30日
金
12)摩訶大将棋ワークショップ開催:2012年3月31日(土)
お知らせが直前になってしまいましたが、明日京都にて、摩訶大将棋のワークショップを開催いたします。
ゲーム学会 第6回ゲームとーくかふぇ
テーマ:摩訶大大将棋について考える
日時:2012年3月31日(土)18:20~21:20
場所:キャンパスプラザ京都(JR京都駅前・七条側の西方向です)5階第1演習室
参加費:無料
概要:古文書の紹介/考察、大型将棋に関する意見交換、摩訶大将棋の対局、大盤解説(誰がするのでしょう?)。大盤解説には対局を模写したデジタル版の画面をプロジェクタで壁に投映します。
今のところ5名でのワークショップとなります。ゲーム学会の会員以外の方もどうぞお気軽にご参加下さい。当初予定としていました、摩訶大将棋の駒+デジタル摩訶大将棋の配布はいたしませんのでご了承下さい。次回の配布ということでお願いいたします。
「摩訶大大将棋について考える」をテーマとしていますが、大型将棋は相互に関連していますので、他の大型将棋愛好家の皆様のご参加もお待ちしています。また、摩訶大大将棋という名称についてですが、本ブログでも話題として展開していますとおり、成立した順序に重きを置いて、摩訶大将棋と呼んだ方が適切ではと考えています。摩訶大大将棋の名称は将棋盤の大きさに着目した呼び方で、後世の(もはや指されなくなってからの)命名の可能性大と考えています。同じく、中将棋も将棋盤の大きさに着目した呼び方ですが、こちらの方は、実際に指されていた当時にそう呼ばれていたわけですので問題ありません。
この点についてですが、あまり引用されていない資料がありますので、以下ご参照下さい。集古帖(国立歴史民俗博物館)という図録の中の1枚です。
http://www.rekihaku.ac.jp/publication/rekihaku/130witness.html
摩訶大将棋というタイトルがついています。駒の動きには一部間違いがあります。
2012年
3月
10日
土
11)大大将棋の駒「奔獏」が出土した可能性について
奔獏の駒が出土したという報道はこれまでにありません。ただ、「本横」という駒が、徳島市の川西遺跡にて出土したという報道が3年前にありました(2009年3月13日:徳島県埋蔵文化財センター発表)。13世紀の駒らしいです。駒の写真も公開されています。
写真を見ますと、「本」の字と思われている部分は「奔」と見れないこともなく、「横」の部分は確かに横なのですが、これを「獏」の書き違えと見ればどうでしょうか、というのが本稿の提案です。そうすると、奔獏の駒が出土したことになります。本横に対していくつかの解釈が発表されていますが、本横が文献にない以上、話しは広がりを持ちません。
ところで、象棋六種之図式(江戸時代後期?)には、次のような記述があります。
・・(前略)・・、余たまたま一巻を得てこれを見るに伝写の誤り少なからず、或いは古鵄を右鵄につくり、或いは奔獏を奔横に誤るの類なり、・・(後略)・・
かつて存在した古文書に、奔獏が奔横になっていたものがあったようです。というわけで、徳島で出土した駒を、奔獏と見てもよい多少の根拠もでてきました。
奔獏が13世紀の駒として出土したとすれば、話は面白くなります。奔獏は大大将棋か泰将棋の駒ですので、この時期、すでに摩訶大将棋が成立していたことが確定します。台記や明月記に書かれている大将棋が、摩訶大将棋である可能性もでてきました。
なぜ、大大将棋の駒が、徳島(阿波の国)で見つかったのか。これは、将棋という遊びが京都から徐々に広がっていったというよりは、たぶん、承久の乱(1221年)の後、土佐から阿波へと移った土御門天皇によりもたらされたものでは、と想像しています。土御門天皇が阿波の国に滞在したのは1223年~1231年の9年間、この時期に奔獏の駒が使われ、大大将棋が指されていたかも知れません。いまだ中将棋は現れておらず、文献に中将棋が現れるのはこれより200年先のことになります。
本ブログの10)稿に、将棋の成立順について書きましたが、大将棋が分岐点となって、将棋は中将棋と摩訶大将棋/大大将棋へと分かれます。それぞれの将棋が目指すところは、同じではなかっただろうと考えており、なぜなら、その様子が古文書の記述に一部見え隠れしているからです。次稿はこの件について書くことにします。
2012年
3月
10日
土
10)踊りの強化が摩訶大将棋
大型将棋の駒の機能が、1)走り、2)踊り、3)成り、の順に発展していったものとし、平安大将棋から大大将棋への成立順を次のように考えてみました。なお、平安大将棋から大将棋の間には多少のギャップがありますので、プレ大将棋(仮名称)の存在を想定しました。この考え方(古文書にはない将棋を想定してギャップを埋める)は、yahoo!のブログ:将棋の歴史(妄想)のブログにて提起されており、同じ考え方を使わせていただきました。
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1)平安大将棋:
飛車・角行・龍王・龍馬・奔王の不在
踊りの不在
2)プレ大将棋(仮名称)
飛車・角行・龍王・龍馬・奔王の出現
猛牛・飛龍の出現(2目踊り・正行度)
3)大将棋:
師子の出現(不正行度の踊り)
麒麟・鳳凰の出現
成駒は3つだけ、残りはすべて不成
4)中将棋:
師子以外の踊りを排除
多彩な成り
4)摩訶大将棋(=摩訶大大将棋):
狛犬・金剛・力士・羅刹・夜叉の出現(3目踊り)
摩羯・鉤行の出現(2回走る駒)
多彩な成り
5)大大将棋
3目踊りの排除・5目踊りの出現(奔獏・奔鬼・鳩槃・夜叉)
天狗(=摩羯)・鉤行の不成り、天狗・鉤行への成り等、駒の力の増強
多彩な成り
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摩訶大将棋を経て大大将棋が成立したのは、いろいろな点から確かなようです。本稿では、全体の成立順を
1)--> 2)--> 3)--> 中将棋
1)--> 2)--> 3)--> 摩訶大将棋 --> 大大将棋
と考えています。大将棋は摩訶大将棋/中将棋への分岐点となるわけですが、この発展的分岐では、成りを強化するという点が共通です。その上で、摩訶大将棋派は、盤面を広げ、踊りを強化しました。大大将棋では、さらに踊りが強化されています。一方、中将棋派は、盤面を狭め、駒数を減らしました。踊り駒は師子だけを残し、飛龍、猛牛、桂馬の列、つまり踊りと越しの列を削除しました。中将棋で伝統的な桂馬の駒が取り除かれた意味合いは、踊りという観点でみるのが自然かと思っています。
プレ大将棋と中将棋の間に大将棋をはさむことで、中将棋への進展の際には、多くの改造(師子、麒麟、鳳凰が出来た上に、成りも多彩になった)をする必要がなく自然な成立となります。また、個人的には、中将棋の成立が多少とも遅かった(摩訶大将棋の成立がかなり早くに起こった)と考えていることもあります。この点は、順次書いていきたいと思います。
2012年
2月
24日
金
09)摩訶大将棋の駒を作ります --6
摩訶大将棋の中央2列目。羅刹、力士、狛犬、金剛、夜叉の5駒です。どれも大きく踊る駒です。
04)の投稿で、大大将棋の作者は仏教関連の駒を避けたようです、と書きましたが、これは間違いだったかも知れません。大大将棋の作者は3目踊りの駒をはずしたかったという可能性があります。
摩訶大将棋の最前列(歩の列は考えず)は、全部が走る駒ですが、2列目は、実は、ほぼ全部、踊る駒のようです。上の5駒以外に、驢馬も猛牛も飛龍も踊ります。桂馬だけが越す駒です。何というきれいな配置!
最前列の攻撃を待たずに2列目からも越して進めるという仕組みです。走り駒を後ろにつけて中央の5駒が大きく踊ります。そのまだ後ろに師子が控えるという布陣。以下、象棊纂図部類抄(1592年)からの引用です。たとえば、金剛は次のように書かれています(読み下しは無茶苦茶かも)。
四方ニ3目踊ル、踊ラザレバ1目、2目馬ヲ越ス、四角1目歩ク
驢馬も猛牛も象棊纂図部類抄には踊ると書かれています。諸象戯図式(1696年)では、ほぼ全部踊りですが、次の2点よくわからない記述です。
1)驢馬が越す駒、2)羅刹(3目踊り)と夜叉(5目踊り)のアンバランス
ところで、wikipediaを見ると、踊りの駒が少なすぎで、どうしてでしょうか。
2012年
2月
05日
日
08)摩訶大将棋の駒を作ります --5
摩訶大将棋の中央最前列の7駒。摩羯、奔王、鉤行の両側に、龍馬と龍王が並びます。
強力な駒ばかりで、しかも奔王、龍馬、龍王は不成りですから、強力なままです。摩羯と鉤行が敵陣付近または敵陣の中で金になり、そこを拠点に奔王、龍馬、龍王が攻めるという戦法になるのでしょうか。
2012年
2月
05日
日
07)摩訶大将棋の駒を作ります --4
麒麟、師子、鳳凰の駒です。玉将の前方、中央に並んでいます。
天童市の将棋資料館に摩訶大将棋の駒の展示があると聞き、先日、電話で問い合わせてみました。
麒麟と師子の駒の裏にどんな文字が書いてあるか知りたいんですが、、、、
裏返して見ていただけませんでしょうか?
鍵のついたガラスケースの中にあるとのことでしばらくたってから回答をいただきましたが、駒は盤にくっついているそうです。裏返すことができないということでした。
2012年
2月
04日
土
06)摩訶大将棋はダブルスだったという仮説
摩訶大将棋が、テニスや卓球でいうところのダブルス(2人対2人で対戦する)ではなかったかという仮説です。もちろんそんな仮説は聞いたことがありません。ただ、三条西実隆の日記(将棋Ⅱ:増川宏一)には、興味深い記述がところどころに出てきます。いずれは日記の原典にもあたってみますが、要約しますと次のような感じです。
Aさんのところに遊びに行った。すると、Bさんがやってきた。Cさんもやってきた。では、将棋をしよう。
みたいな記述です。時代は、16世紀初頭、嘉吉3年本(1443年)からほぼ50年後、水無瀬兼成写本(1592年)のほぼ100年前です。摩訶大将棋・大大将棋までが成立していた頃です。日記の短い紹介の中で、このような記述が数ヶ所出てきます。3人~5人で将棋をしたということは考えられないでしょうか。
摩訶大将棋なら盤も大きく、駒の並びは左右ほぼ対称です。真ん中にある奔王・狛犬・師子は適宜使うという感じで、2人で玉将を守ってもいいかもです。1人が主として指す領域は片側の9マスで、ちょうど今の将棋の大きさと同じでもあります。
大大将棋・泰将棋のダブルスもあり得るでしょうが、左右対称でない点で、可能性は大きく下がります。大将棋は左右対称ですが、マス目が横15マスですので、少し狭いかも知れません。
ちょうど今日の昼からゲーム学会の合同研究部会がありますので、ちょっとこの件皆さんに聞いてみたいと思ってます。そして、とにかく、摩訶大将棋ができるようになったら一番はじめにダブルスをやってみます。
2012年
2月
04日
土
05)摩訶大将棋の駒を作ります --3
大将棋にも摩訶大将棋にも大大将棋にもある将の駒は、玉・金・銀・銅・鉄・石です。大将棋と摩訶大将棋では、玉将の横に順に並びますが、大大将棋では下図のように並んでいます。何という戦いの現実味、南北朝時代の合戦の布陣ではないかと。前の中央には前旗があり、その両側に虎・豹・熊・狼・猪・牛と並びます。
将棋は一手目を指すとき始まるのではなくて、たぶん並べるところから始まっているとみるべきかもです。だから、デジタル将棋を作るときには、初期画面が並んでいる状態というのはだめで、駒が散らばっていないと。。。 特に、古典将棋をデジタル復刻するときには、駒を並べる場面の作りこみが大事かも知れません。
2012年
2月
02日
木
04) 摩訶大将棋の駒を作ります --2
駒の一部を紹介します。まず、羅刹・醉象・金剛・提婆・無明の5枚です。この5枚とも、摩訶大将棋にあって、大大将棋にはありません。大大将棋の作者は、仏教関連の駒を避けたようです。
2012年
1月
29日
日
03) 摩訶大将棋の駒を作ります --1
駒木地を6セット買いました。240枚あります。摩訶大将棋192枚ですので、予備48枚と十分です。次のサイトにて購入しました。
http://item.rakuten.co.jp/nekomado/shogi-022/
成駒については説が分かれていますが、
1)原典(象棊纂図部類抄)を尊重する
2)摩訶大将棋のあとで大大将棋ができたという説に立つ
ということでいきます。よって、
師子(通常は獅子)--> 不成リ
麒麟 --> 師子 ニ成ル
鳳凰 --> 奔王 ニ成ル ということにしました。
先に成立していた将棋の駒の動きが尊重されることが多いですので、将棋の成立順はとても重要で、この点、また後日にでも。ところで、大大将棋では、師子の成駒は「奮迅」です。この点についても、後日いつかは考えないといけません。
獅子奮迅、という言葉があります。獅子が奮迅となって大活躍している大大将棋のことを、多くの人が実際に知っていた可能性があるかもです。一般的には、獅子奮迅は仏教の経典が起源ということになっています。成駒を奮迅と決めた人は、経典をよく知っていたということで間違いないだろうと思いますが、経典の言葉だというだけで言葉が広まっていくでしょうか。
「獅子奮迅」が、将棋起源であればと期待しています。だとすると、大型将棋がある程度は指されていたことになりますから。大大将棋か泰将棋か、または摩訶大将棋の可能性も。中将棋の獅子は不成りですが、戦国時代の中将棋で、獅子が奮迅になっていたという可能性もないでしょうか。この場合、武士のグループのローカルルールという形になるわけですが。
2012年
1月
26日
木
02) 大大将棋の通説の駒初期配置図は間違い
たとえば、大大将棋の最下行、王将の近くを見てみますと、
・・・奔王・左将・王将・右将・奔獏・・・
というのが通説です。これは、象棊纂図部類抄(1592年)に書かれている駒の配置図を、たぶん、その後の文献がそのまま書き写したことによっています。ところが、象棊纂図部類抄の大大将棋の図には、次のような短いコメントがついています。
右者前之左也
右ハ前コレ左ナリ(右図は、前の方が左です)、と読みました(間違っていたらすいません)。巻き物ですので、右から左に書かれています。つまり、駒は図のとおり見たままに並べるのではなく、左右反転しないといけません。
・・・奔獏・右将・王将・左将・奔王・・・
が正しい並びとなります。将棋の歴史(妄想)のブログでも指摘されていますが、通説の配置では、左将が左にあると王将を守ることができません(左将は左横に動けないため)。右将についても同じです。左車、右車の動きも通説の配置ではおかしいのですが、左右反転することで、左将・右将・左車・右車の位置が合理的になります。
また、麒麟と鳳凰の初期配置についての疑問も解決します。
中将棋、大将棋、摩訶大大将棋、泰将棋で
麒麟(左側)、鳳凰(右側)ですが、
大大将棋だけが
麒麟(右側)、鳳凰(左側)となっています。
大大将棋もやはり、麒麟と鳳凰が左と右に並んでいたわけです。
2012年
1月
26日
木
01) 摩訶大大将棋は大大将棋よりも先にできたという説
摩訶大大将棋は大大将棋よりも先にできたという説がyahoo!のブログ:将棋の歴史(妄想)のブログで展開されています。全くそのとおりだと思ってしまいました。すばらしい説だと思って、読んだ夜は結構夜更かししてしまいました。この夜、手持ちの文献を読み直しました。
この摩訶大将棋のブログを始めたのも、上の説が発端となっています。たぶん摩訶大大将棋は、摩訶大将棋と呼んだ方がいいのかもです。水無瀬兼成さんも、秀次公に駒を献上したとき、「摩訶大将棋」と書いていますし、献上した駒を書き並べた文面では、摩訶大将棋、大大将棋、大将棋の順に書き並べています。
ゆっくりですが、摩訶大将棋について思索をめぐらせたいと思っています。